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   岐阜県大野郡白川村平瀬   平瀬鉱山  Photo:2009.夏  (1/1)   

平瀬鉱山での採掘金属はメインがモリブデンで他に金、銀、銅、亜鉛、鉛なども採れたようである。もっともMo以外は周辺の鉱山の方が多いのだが。ちなみに周辺には”金谷”や”金山谷”などその昔実際に金が採掘された地名が今も残っている。
平瀬鉱山史を簡単に記載します。(白川村史から)

・1911年(M44)頃:浅田某鉱山師が人夫3人を連れてモリブデン鉱の露頭を採掘。(これが平瀬鉱山の最初の発見とされている。)その後しばらくして何故
             か休山している。(ただし下の写真にあるように”〜水鉛試掘出願状況”ではM40〜42までにも届けは出されているが発見年はM44
             とされている。尚、浅田某氏の名前は表にはない。)
・1918年(T7):岩手県盛岡市の川村某が地元の人夫4〜5人を雇い採掘、更に選鉱のため女性6〜7人を雇い稼業したが1920年(T9)にはこれも中止。
・年代不明   :天理教の松本教会長が一時期、採掘していたこともあったようだ。
・1932年(S7):長瀬旅館主(高山市)と七里公平技師(東京)が共同でやろうとしたが資金難で続かず中止。その後まもなく坂本円次氏(平瀬)が試掘許
           可を取り掘ったところ有望な鉱床を発見。
・1940年(S15):寿重工/株(大阪)が坂本氏より採掘権を買い取り積極的にモリブデン鉱(輝水鉛鉱)採掘を進める。
・1941年(S16):太平洋戦争勃発と同時に兵器製造に欠かせないモリブデンは軍部の注目の的になる。平瀬寿重工鉱山も一躍多忙を極めまもなく周辺の
           中小鉱山であった東亜鉱山(木谷)、杉浦鉱山(稗田)も軍部の奨励(命令)により平瀬寿重工鉱山に吸収、合併される。戦時中は特に海
           軍主導で増産に次ぐ増産を命令され人員も大量投入された。一般男性は兵隊にも徴用されたため朝鮮半島からも多数の朝鮮人が徴用さ
           れたようだ。一説によると2割5分はいたと言うから200〜300人はいたということになる。増産命令が下されてからは採掘方法もそれま
           での”狸堀り”から発破を使う大規模な方法に変わり1944年には132.7トンものモリブデンを産するようになる。
・1945年(S20):戦争終結。敗戦の混乱期鉱山にはまだ400〜500人の堀夫がいたが会社側は大部分を人員整理。中竜鉱山(福井)や三河鉱山(新
           潟)、宮城県の鉱山などへ移動した。残った者は積み残し鉱石の処理その他で細々とMoの生産を続けていた。
・1949年(S24):平瀬鉱山は寿重工から旭興社(東京)の手に移り狸堀りのごとく細々と採掘を続ける。
・1951年(S26):別子鉱業(住友金属鉱山)が寿重工から鉱山を買取りこれ以降平瀬鉱山は本格的に坑道掘削、機械化、近代化を実行。飛躍的に生産量
           を上げる(寿重工から旭興社に移った辺りの経緯はよく分からない)。これ以降約10年間ぐらいの間に探鉱・選鉱・精錬・搬出などに飛躍
           的な技術革新があり鉱石の品位もアップ、生産量も飛躍的にアップした。
・1975年(S50):技術革新があっても肝心の鉱脈がないと話にならない。’70年頃から探鉱にも陰りが見えなかなか思うように有望鉱床が見つからず結
           果、’75年平瀬から撤退する。その後も傘下の子会社が数年間やったようだが撤退。住友金属鉱山は権利を有したまま坑口を閉鎖、現在
           に至る。


R156、新平瀬トンネルを南に抜けたところにあるサイロ状のコンクリート構造物。何か良く分からない。シックナーではなさそうだ。  


L写真:上記サイロ状の物の脇にこんな坑口があった。一瞬平瀬鉱山のものか、と思ったがどうやらそうではなさそうだ。後で聞くと
     御母衣ダムの管理用斜坑だった。

R写真:
その上の山の様子。  


御母衣ダムの管理用斜坑。さすが立派な斜坑だ。だが坑口だけコンクリートで固められていて奥はまったく掘ったままだ。傾斜はかなりの急勾配のようだったが舗装さえすればトラックでも走れそう。人道用の階段だけが続いている。ちなみにこの斜坑、元々は大正時代に建設された発電所だったようだ。 


L写真:国道側から庄川を挟んで見る白弓スキー場。
R写真:
道の駅「飛騨の白川」。  


L写真:今はまったく想像できないがここが平瀬鉱山のズリ場。川は庄川。今でも掘れば何か出てきそうな感じだ。ただ規模としては
     あまり大きくない。他にもあるのだろう。写真右手には老人ホームのような施設があった。

R写真:
一級河川の庄川。  


L写真:S46〜47年頃の鉱山関連施設の配置図。(新編「白川村史・中巻」H10、3、31発行より掲載。全7枚とも全て同様)
     戦時中に競馬場があったなんて以外ですね。資料に載ってるぐらいだから本当なんでしょうがここは当時、海軍主導で採掘
     していたモリブデン鉱山だったのでその辺は鷹揚だったのでしょうか。よく知られている坑口は赤丸の大切坑口である。
R写真:S17〜18年頃の同所。戦時中は最も鉱山が全盛期だった頃なので商店や旅館も多数あったようである。鉱山労働者だ
     けで1000人近くいたと云うからその家族や商店関係者も入れると3000人以上はいたのではないだろうか。


L写真:村史からの抜粋写真。「昭和20年代の砂金採取風景」。
R写真:
平瀬鉱山坑道を走るバッテリーロコ。操縦手の顔が見える。「住友平瀬鉱山」の看板も見える。かなり最近の様子のよう
     だ。あるいは閉山直前か。


長瀬というのは平瀬の南側、御母衣ダムとの中間辺り山側である。木谷は逆に北側でスキー場のあたりである。保木脇はそのまた北側。明治時代後半での当地でのモリブデン試掘出願の状況らしい。”水鉛”というのがモリブデンのこと。


L写真:坑内断面図。”大切坑”というのが写真の坑口だ。
R写真:
鉱床・坑道位置。この写真右手方向が金谷の沢方向になる。


これが現在の平瀬鉱山・大切(おおぎり)坑口の様子。実際の坑口は石積みで塞がれている。その手前に地下水が「どうぞ飲んでください」とばかりに柄杓まで用意されていた。うろうろしていると近所のおばさんがミニバイクでやってきてペットボトルに給水していた。  


どうやら地下水の名は”霧立ちの水”という名水らしい。ここまでしているぐらいだから当然水質検査もしているんだろう。  


写真の家は現在は普通の民家だが鉱山時代はここが鉱山事務所だった。


                               



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