平金鉱山 1/1
岐阜県高山市丹生川町旗鉾          Photo : 2009.夏


 平金鉱山はあまり名の通った鉱山ではないが一時期は数ある岐阜県内の鉱山でも神岡鉱山に次ぐ産出高と規模を誇った銅鉱山であった。発見されたのは1892年(M25)で尾小屋鉱山を経営していた横山鉱業(横山隆興)が採掘を始めた。
 鉱山区域は海抜1700mを越える乗鞍岳の西斜面に位置し当時としては高山市内からも離れており周りには集落もあまりなくまさに山深い山中であった。夏はともかく冬ともなると奥飛騨ゆえその厳しさは半端ではなかったであろう。それでも全盛期の1907年(M40)頃には山深い山中に約1000人もの坑夫がおりその家族も入れると決して小規模鉱山とはいえない規模であったと言う。当然ながら生活施設も各種売店から診療所、学校、郵便局、娯楽施設などなど深山にそれなりの”街”が形成されていたらしい。一説によると北海道からの人々が多かったのかどうか分からないが”北海道”という名前の町もあったらしい。生産高も当時で年間に銅:約400トン、銀:約900キロ生産されたという。
 
 しかし生産量が多いと言うことはそれだけ当時としては公害問題も多いと言うことで当然ながら周辺の河川や山林、田畑への影響も少なくなかった。製錬時の排煙有毒ガスで周辺の山林は枯れ鉱毒水や汚泥が田畑や小八賀川に流れたため川には魚が居なくなり大変な騒ぎになったようである。そのため国府(高山市の北側)に沈殿池を作ったが結局、1918年(T7)に閉山となった。
 
 その後、政府の軍備拡張政策により1937年(S12.)、昭和鉱業(森コンチェルンのグループ企業。同時期愛媛の大久喜鉱山も経営)が採掘を再開するが時代が時代だけに恐らく1945年ぐらいまでは続いたと思うがその後いつまで採掘が続いたのかは不明である。




 ルート158を高山市内から上高地方面に走るとほぼ中間あたりに飛騨大鍾乳洞(大橋コレクション館)がありもうちょっと東に行くと左の写真のあたりに来る。橋の名前は「旗鉾橋」。橋の手前を左側の側道(写真の赤い郵便車の道)に入り旗鉾橋の下をくぐるように走ると平金鉱山の跡地方向に行く。


 道なりに行くとこの奥じゃないのかな・・・と思える箇所に到着。しかし写真のように入れない。ここに来る前に大橋コレクションに寄ったのですがその時ついでに平金鉱山の場所について聞いたところ偶然にもそのおじさんが鉱山で働いていた方だった。(やはり声かけ運動は効果あり)。そこで詳しく場所を聞く。それがこの場所なのだが。


 もうチョット上に行くと道端にまたまたこんな物が。もっともこれは道端と言うよりは若干奥にあった物なので望遠で撮った。鉄管か塩ビパイプかよく分からないがこの写真以外にも数本見えていた。パイプからの水はその下のコンクリート桶らしきものに注がれている。しかしこれが鉱山関連施設かどうかは分からない。


 この辺りには鉱山関連らしき建物がよくよく見ると草に隠れて結構あるようだ。上の黄色で囲んだ部分もこの写真では分かりにくいが角度を変えて見ると隠れたコンクリートの一部がかいま見える。


 上の写真同様。
こちらは比較的コンクリートの地肌が見えやすい。


 これも同様。
しかし何がなんだかさっぱり不明。


 ・L写真:わずかにコンクリート地肌が見えてますが。
 ・R写真:上に上がるとズリ山らしき箇所があったがただの土砂崩れなのか。土砂崩れなら崩れた土砂がどこかに多少とも残っているはずだがそんなものはどこにも無かった。感じからしてズリ山だと思うのだが・・・。


 集落から大分外れているのにいつまでも道路がいいので上に何かあるな・・・と思っていましたら案の定、中部電力の何かの施設が建っていました。ヤッパリネ。


 戻る途中。集落まできましたがこの辺りがさっきのおじさんの話に出てきた製錬所のあったあたりです。ですからこの辺を掘ったらカラミぐらいは出てくると思いますが。当日は結構な雨で泥だらけになってのカラミ採りは中止です。でも今のこの景色を見る限りどう見ても製錬所とは程遠い感じなのですが。


 帰りのR158に出る直前の風景です。写真の川はこの辺りでは小八賀川になる。西方向を撮影。
 何でも鉱山操業時代はこの川も随分汚れ公害問題も発生していたらしい。


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