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   福島県伊達郡桑折町     半田銀山      Photo:20138  (1/1)  
主な採掘金属 :金、銀、(一時期)銅。
鉱    床: 低・中温熱水鉱脈鉱床  
経営母体  :米沢藩→江戸幕府→(明治に入り)早田伝之助→五代友厚→日本鉱業(株)<1976年閉山>。

  <半田銀山の歴史を簡単に記載する。>

・807年(大同2年)
      言い伝えによると半田銀山が発見されたのはこの頃だと言われているが史実としてはっきりしているのは1598年(翌々
      年関
原の戦い)米沢藩、上杉景勝により鉱山開発が奨励されたことによる。
・1600年代中頃
      栗林鋪を開抗。この頃が半田銀山での最初の隆盛。しかしこの後17世紀終わり頃までに幕領と藩領が交互に繰り返さ
      れる。銀産出量の浮き沈みが激しかったことが推測される。
・1723年(享保8年)
      北半田村の野村勘右衛門が有力鉱脈を発見。
・1745年(延享2年)
      幕府は半田銀山に生野銀山の山師を派遣する。どうやら増産を目指したようだ。
・1771年(明和8年)
      この頃から銀の産出が減少。それに伴い同76年藩領となり松平陸奥守の預領となる。それ以後も有望鉱脈見つからず
      同86年幕府は休坑を命じる。
・1803年(享和3年)
      代官等の請願により銀山再開。
・1810年(文化7年)
      有望鉱脈発見。”三抗三番下り”(中鋪抗の東側山裾に「第三抗」という坑口があるがそれが三抗三番下りなのかどう
      か・・・)と命名。この頃より湧水が増加。まもなく1814年、排水が追いつかず再光鋪、三抗三番下りともに水没。
・1930年(天保元年)
      水抜きのための疎水抗工事始める。
・1846年(弘化3年)
      良鉱を発見。半田銀山が日本三大銀山のひとつと称される。
・1853年(嘉永6年)
      二階平坑が開かれ新鉱に達する。が、まもなく銀産出量減少。
・1866年(慶応2年)
      幕命により半田銀山遂に廃坑となるも、当地半田村の早田傳之助(古くから山師として活躍しており名主でもあった)氏
      が銀山再興を願い出て再開される。
・1870年(M3年)
      坑内火災発生。早田傳之助氏の子息を含む14名が死亡。これにより銀山休抗。
・1873年(M6年)
      ”日本坑法”発令。これにより全国の鉱山は意実上明治政府の独占となる。
・1874年(M7年)
      政商、五代友厚(薩摩藩士)が半田銀山を政府から払い下げを受ける。以後、製錬技術など近代化を積極導入、増産を
      進める。  
・1876年(M9年)
      生野銀山からフランス人技師を呼び選鉱・製錬技術などを改良。それまでの「ネコ流し」から「樽混こう法」(?)に変更、
      他にも精錬所の建設やポンプなど機械化を進める。
・1882年(M15年)
      「戸沢鉱」発見に伴い設備を大幅に拡張。この頃から経営も黒字化。同84年には産出高最盛期となり17万5千円の黒
      字。翌同85年五代友厚氏死亡。
・1892年(M25年)
      水力発電所を新設。
・1901年(M 34年)
      半田山崩壊。水力発電所や鉱山に甚大な被害。翌同02年アメリカ製削岩機導入。
・1905年(M38年)
      製錬方法を青化製錬方式に変更。
・1910年(M43年)
      半田沼決壊。半田銀山に致命的な被害。
・1919年(T8年)
      青化製錬方式を中止。以後採掘した鉱石は売鉱に。
・1944年(S19年)
      半田銀山の経営権が日本鉱業(株)に移る。が、まもなく1950年品位低下により有望鉱床も見つからず休山。
・1976年(S 51年)
      日本鉱業(株)採掘権を放棄。ここに発見以来1000年以上続いた半田銀山は遂に全ての幕を閉じることになる
      (閉山)。

                                                  (資料「半田銀山の歴史」より抜粋)


左:現在、改築中の「旧伊達郡役所」。展示していたいろんな半田銀山の資料は完成するまで見られない。
右:
直接には半田銀山と関係ないんですがこちらも「桑折(こおり)陣屋跡」として説明があり半田銀山のことも若干ですが記載されているの
   で載せます。
      〓桑折陣屋跡
   桑折周辺の信達地方は江戸時代に入ると米沢藩上杉氏領にとなりましたが寛文4年(1664)に幕領へと移り幕府代官所が福島に
   置かれていました。その後、進達地方は一時福島藩本多氏領となりましたが天和2年(1682)再び幕領となり堀田氏の福島藩八部
   に伴い、残された幕領を治める為貞淳2年(1685)にお幕府代官所として桑折陣屋が設置されました。初代桑折代官は柘植伝兵衛
   でした。元禄13年(1700)松平忠恒が2万石で桑折藩を開き、陣屋を使用していましたが松平氏は定府(参勤交代せず江戸に常駐
   している大名)であったので桑折陣屋には代官を派遣して当地を治めていました。
    松平氏は三代忠暁のときの延淳4年(1748)上野篠塚に転封になりますがその理由は半田銀山に有望な鉱脈が発見され、これを
   幕領とするためとされ佐渡奉行の支配下に置かれました。このころ描かれたと見られる絵図によると人陣屋内には銀山関連の施設
   があったことが伺えます。
翌、寛延2年(1748)に神山三郎左衛門が桑折代官として赴任し、一時の仙台藩の預かり支配期を除き
   明治元年(1869?)に前田勘四郎代官から新政府に引き渡されるまで代官が派遣されていました。その間陣屋は斎藤彦内、逢田半
   左衛門等が首謀者となった「寛延一揆」に囲まれたり竹内平衛門、寺西重次郎、寺西蔵太、島田帯刀等、民政や銀山開発に尽くし
   た代官の治世の場となる等、当地方の中心として機能しました。代官の中には竹内代官や寺西重次郎代官のように桑折で死去し
   町内に墓所があるものもあります。陣屋は郡役所敷地より東側、陣屋の杜公園より北側の現在は住宅地となっている部分を占めて
   いました。  (写真の案内看板より)


左:旧羽州街道南側から見る女郎橋。と言っても橋の感覚はない。右側に石積みの橋台がはっきり見えるが左側は草生していて近づか
   ないと橋台が分かりにくい。ただこの左右の石積みの橋台に載っていた橋が女郎橋と言われるものである(ただし異説としてこの付
   近の川に架けられていた橋の俗称という説もある)。何故「女郎橋」なのか・・・分からない。この付近に抗夫相手の遊郭があったのか
   もしれないが詳細は不明。ちなみにこの橋は操業時、上をトロッコがズリを乗せて走っていたとのこと。選鉱場もこの近くにあったが
   今は面影すらない。
中:”半田銀山史跡公園と女郎橋”の案内標識と右側の道路は県道353号線。
右:
写真正面の真ん中にわずかに白い塔のようなものが見える山が半田山。恐らく白い塔のあたりが半田沼だと思う。中鋪坑(下の写
   真)は半田沼の下を東から西に向かって掘り進んでいる。


左:公園の北の端に鉱山犠牲者の慰霊碑が申し訳程度に建立されている。右側の白い石碑には「二十三夜」と刻まれている。詳しくは
   知らないが月齢が二十三夜の夜には何かここで人々が集まって供養でもするのだろうか。
中:”半田銀山抗夫供養塔”と石碑に刻まれている。
右:
    桑折町指定文化財 〓史跡 半田銀山遺跡と明治天皇行幸記念碑
    奥州半田銀山は大同3年(807)の発見と伝えられかつては佐渡金山、生野銀山と共に日本三大鉱山と称せられ江戸、明治期に
    その盛を極めた。史実によれば慶長3年(1598)上杉景勝が伊達信夫の二郡を領し半田銀山の調査・開発を手がけ景勝の孫、
    綱勝が寛文年間(1661〜)家臣、伊達平十郎に栗林鋪を開坑させ本格的に採鉱が始まった。

    延淳2年(1723)に幕府は半田銀山の良鉱なるに着目し半田銀山及び周辺一万二千余石を直轄領とし佐渡奉行の支配下におき
    寛延2年(1749)には桑折代官、神山三郎左衛門をその任にあてた。以来、半田銀山は幕府直営の御直山として奉行所を設置し
    在方役、吟味役、地方役、勘定役など佐渡金山と同組織で経営され役人も佐渡、石見、生野から交代で派遣され産出量も伸び
    幕府の財政を大きく支えるにいたった。宝暦3年(1753)からは役所、山師、金銀吹分師、坑夫などの居住する買石町が設置され
    41軒の床屋(製錬業)、16軒の商店、1326人の川せり人(川選鉱)の住居などが軒を並べていた。

    直山としては本盤、大ぎり、再光、二階平、など十余の坑を数えたが元治元年(1864)、鉱脈の枯渇から経営不振となり直山経営
    を中止した。幕府の経営中止による住民や堀子たちの窮状を見えかねた地元北半田村の名主、早田伝之叙助が慶応3年(1867)
    坑業を再開したが明治3年(1870)坑内の火災により息子、坑夫多数の犠牲者が出、経営から手を引き事実上の閉山となった。

    明治7年に至り、元鹿児島藩士、政商五代友厚により近代的鉱法を取り入れ再開発に踏み出し明治9年には明治天皇の奥州ご巡
    幸にあたり岩倉具視、大久保利通等を伴い半田銀山にご臨幸され鉱山施設をつぶさにごらんになった。その後明治年間に活況を
    呈し大正、昭和と操業を続けたが明治43年(1910)の半田沼決壊による工場施設への被害や鉱脈の枯渇などにより昭和25年
    (1950)日本鉱業は採掘を停止しこれにより上杉、幕領、五代、日本鉱業へと幾多の盛衰変遷を戸遂げ300数十年にわたる半田
    銀山もその歴史に終止符が打たれた。

    半田銀山の遺構としては半田山中腹に江戸直山期の手堀タガネ掘りの中鋪抗が200有余年の歴史を秘めて崩落することなく現
    存しこの地の女郎橋跡、鉱滓運搬軌道跡、の石垣、明治天皇行幸記念碑、また歴史の中に消えていった銀山役人や多数の銀山
    抗夫、山師たちの無縁墓碑供養塔、各所に残る石臼、ズリ山など往時の隆盛を偲ぶものが少なくない。又、半田地区には半田銀
    山に関わる地名として鍛冶屋敷、御免町、十分一、大門先、水抜きなどが残っておりこの地方いったいが半田銀山と深くつながっ
    ていたことが分かる。
                                                  平成元年3月  桑折町教育委員会


半田山を道なりに登っていくと脇にこんな看板が。これって福島原発の例の汚染土壌なんでしょうか。保管場所ってもっと広い土地だと思っていたがこんな狭い土地にも埋めるんですね。一時的と言われてもね・・・。


県道353号線からはずれ半田山自然公園に向かう途中、左側にかつての二階平(にかいひら)坑口の跡が確認できる。道路の際だ。案内板があるのですぐに分かる。


左:二階平抗口の中の様子。水没して奥の方の支保抗は崩れているようだが右手に蛍光灯が見えるからには入れるようにはなっている
   のかもしれない。
右:
   〓町史跡  半田銀山 二階平坑口跡
    二階平坑口は近世の末期、我国屈指の銀山として盛況を呈した半田銀山北端の坑口である。銀山北部の湖沼周辺にある
    銀鉱脈の採掘を目指しこの坑口より坑道を掘り進み天保13年(1842)に北西方向660mの地点で中鋪(現半田沼南部の
    銀鉱石採掘地)からの切詰めと連絡した。
    泉田村の境界から半田小富士にかけての坑道の近辺で金、銀の含有量の多い羅生門などの鉱脈を堀り当て多量の鉱石の
    採掘に寄与しており鉱山からの排水と鉱石の運搬にもあてられていた。  平成21年3月25日  国見町教育委員会


左:中鋪抗に行く途中、半田沼の際に建立されていた石碑。
右:
   〓白龍妙義地蔵権現尊建立由来
    徳川幕府初期の頃、日本三大銀山のひとつと言われた半田銀山は当時、幕府直轄として全国各地から多くの囚人を呼び集め
    銀採掘の使役にあたらせたのです。従って近郷近在は銀山ブームに沸き返り景気はいやがうえにも上昇しました。
    しかしその半面に半田山の地底深き坑道には落盤事故のため火攻め、水攻めで生き埋めとなった多くの人たちが今日まで誰
    からも顧みられることもなく無縁霊となって地獄の苦しみをしていたのであります。亦、この土地一帯は古戦場の跡でもあり多く
    の兵達が身を白龍として散華した地でもあります。
    幸いにも末法教世の如来(空王仏司大権現尊)の出現により吾等同信の悲願にて慈に「白龍妙義地蔵権現尊建立由来」として
    ??(位)を頂戴いたし、半田財産区管理委員会のご協力を頂き此処に建立いたし土地一帯の守護尊として永久に供養礼拝の
    真を尽くされますようお願い申し上げます。 合掌     昭和36年4月吉日  日本敬神祟祖自修団  佐藤法座同信  


左:   〓半田銀山中鋪跡〓  
    半田銀山は近世初頭に開発されたと見られる銀山である。江戸時代中ごろには幕府の直轄鉱山ともなり桑折代官所には
    銀山方の役人が置かれ関連施設もあった。
    中鋪と呼ばれる坑道は坑道の中でも上部に位置し「半田銀山絵図」では「本鋪」に当たると見られる。更に山の上には露
    頭を直接掘削した「むじな堀り」と呼ばれる坑口や摺鉢上の露天掘り跡があり付近には上杉時代に掘削されたとされる
    栗林鋪もあったとされる。
    坑道内のすすの調査でも近世初頭とされ半田銀山の中では古い部類に入る坑道である。尚、本来の坑口はもっと南側に
    あったらしいが土砂崩れのため消失した。現在の坑口は半田銀山操業廃止後の昭和40年代、資源調査のために掘削さ
    れたもので江戸時代からの坑道に達している。
    日本三大鉱山に数えられた半田銀山の数少ない遺構である。
右:
半田山自然公園のロッジから半田沼沿いに下って行くと中鋪抗への標識がある。その通り行くと写真のところに来る。左側の下り坂
   を下ると下の写真に着く。


中鋪抗口と内部の様子。ドアが開いているということは入ってもよいということか。”立入禁止”の看板も見えるが。こんなところでもズンズン入って行く人がいるようだが私は怖がりのため入ってはいない。ここの坑道は上にも書いているがS40年代に資源調査で掘られたものである。元々の坑口はもっと南側だという。  


      (1/1)     HOME    >完<