(秋田県大館市花岡町〜松峰・釈迦内)   花岡鉱山  探訪:2007.10   (1/2)  

 以前から念願の花岡鉱山にやっとのことで行ってきた。何せ秋田なのでなかなかそこまでは足を延ばせなかった。東北まで来たついでに、と思いついついあちこちの鉱山を時間のゆるす限り足を延ばす結果になってしまったがまあ一応の満足を得ることはできたと思う。
 花岡鉱山というのはいわゆる”黒鉱”で有名だがその説明に金属鉱山に非常に造詣の深い”日本の金属鉱山”というサイトから説明をお借りする。

”花岡鉱山は、「黒鉱(Kurokou)」を産する鉱山として一躍有名であった。残念なことに、国内外の鉱業を取り巻く環境の変化により、平成6年に閉山に追い込まれた。〜中略〜 秋田県北鹿地域は、昔から「黒物」という名称で銅・亜鉛を多量に含む鉱石を産出していた。その鉱石は、現在「黒鉱」と呼ばれ、世界でも日本に特異的に産出する鉱石で、英語でも"Kurokou"なのである。黒鉱の成分は、主として銅(約2.5%)、亜鉛(約4.2%)、鉛(約1.3%)であるが、金・銀・ガリウム・テルル・モリブデン等も採取できるという。”


黒鉱についてだいたい概略はわかっていただいたと思うが発見した当初はなかなかやっかいな鉱物としか思われなかったらしい。発見は遅く当初、製錬が非常に難しい鉱石としか映らず大学の研究室に分析を頼んだまま”結果待ち”という状態だったという。数年後それがにわかに脚光をあび出したのは分析結果、非常に多種のレアメタルが含まれていることが分かったことと、その頃から地球物理学会などで唱えられはじめた「プレート・テクトニクス理論」とが密接に関係していることが分かったからである。と言うのも最近よく言われる「深海底の熱水鉱床」によく形成されている”チムニー”と言われる煙突状の物が黒鉱からも発見されたからである。ちなみにこのチムニーが多種の重金属でできていることまでは判明している。
 
 黒鉱の説明は若干中途半端だがこれぐらいにして花岡鉱山の話に戻ろう。
発見は比較的新しく1885年(明治18年)。国内鉱山では珍しく当初から大規模な露天堀りであった。採掘鉱石は方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、が主で他にも金、銀など貴金属類も多量に産出している。経営母体は鉱山(坑口)によって異なり同和鉱業、三菱鉱業、日本鉱業などが経営したが三菱と日鉱は早々に引上げて結局、同和鉱業だけが最後(1994年)まで残った。
 
 花岡鉱山の名を世に知らしめたのはなんといっても1945年6月、終戦直前に起こった花岡事件と、一連の強制労働虐待事件であろう。前者は強制連行された中国人の生存を賭けた反乱事件であり、後者は中国人同様、連行された朝鮮人の一連の虐待事件である。その実態は他の鉱山同様にそれはひどいものだった。まさに筆舌に尽くしがたいものであった。花岡事件の詳細は下のページでも紹介したが”花岡事件を歩く”のサイトが分かりやすい。興味のある方は一読をお奨めする。





@ ”松峰選鉱所”の部


大館市内の国道7号線から大館工高方面に向けて行くとまっすぐの道がある。その途中に現在もリサイクルで稼働中でありかつては花岡鉱山の主要な坑口もあった”松峰選鉱所”がある。上の二枚の写真がそれである。


Lは工場の外観。Rは松峰選鉱所の看板だ。看板とレンガの部分部分のはがれ方など金属鉱石を採掘・選鉱していた頃のようすがそのまま残されているような感じがするが。


Lは往来からの選鉱所(現リサイクル工場)周辺の様子。Rは同工場の横手側の様子。小山のようになっている黒っぽいものはなんだろう?リサイクル後の廃棄物か?


現在の松峰選鉱所の遠景。写真右上にある建物が当時の竪抗のあった場所。随分きれいだがリフォームされているのだろう。当時の坑口は斜面の向こう側にある。今も入り口だけは見ることができる。


現松峰選鉱所の裏側である。今は使われているのかいないのかよくわからない建物がいくつかある。パッと見ではただの砕石所のようである。


大館市花岡町・・・現在は大変のどかで牧歌的な農村である。こうやって田畑を遠くに眺めている限りではその地下にかつての日本経済を背負う原動力になった黒鉱など多種の鉱物が眠っていることなどおおよそ想像できない。また鉱物を採掘するための労働力補充に朝鮮人や中国人を多数、有無を言わさず強制連行し奴隷のごとく働かせて後は知らんふり、といういわゆる”花岡事件”に代表される一連の事件が起こった場所もこの場所である。


A ”花岡鉱山跡”の部


ここが花岡鉱山の跡地だ。といってもごらんのようにリサイクル工場があるだけだ。もちろん稼働中だからこれ以上は中に入れない。沈殿池はこの右奥方向だ。



Lはかつてのス-パーマーケット。町の規模からすると結構、大きなスーパーだったようだ。鉱山町が賑やかだった頃はさぞたくさんの人々が買い物に利用していたのだろう。現在はご覧のとうりだ。Rは往年のスナック。何となく淋しそうだったので写真だけでもと思い一枚撮りました。


信正寺前の川の反対側を歩いているとこんな鉱山住宅だった感じの廃屋が残っていた。Lはたぶんそうだと思うがRは若干新しめだ。どうだろうか?


B ”共楽館”の 部


花岡事件でたくさんの中国人が拷問で殺されたかつての”共楽館”があった場所。今は市民体育館になっている。共楽館というのは鉱山関係者や地元市民たちのための当時の芸能、娯楽施設だった。よりによってそんな場所で何の非もない中国人労働者を真夏の炎天下に一滴の水も与えず三日三晩手足を縛った状態でいわば”野ざらし”状態に。結果はいうまでもない。


これがその花岡事件の時の”石碑”だ。


太平洋戦争中日本の労働力不足補給のため中国から強制連行された中国人は約4万人に達する。そのうち同和鉱業花岡の下請け鹿島組に配されたのは986名でうち7名は輸送中に死亡している。この人々は姥沢の中山寮に入れられ酷しい監視の下に苛酷な労働と劣悪な生活条件のため続々と使者が出た。1945年6月30日夜、生き残った全員約800名が人間の尊厳を守り日本軍国主義に一矢を報いようと一斉蜂起し獅子ヶ森に拠った。日本の憲兵・警察・在郷軍人会・警防団等に包囲され激しい戦闘の後殆んど全員捕らえられ共楽館の庭に繋がれ炎天の下三日三晩食も水も与えられず拷問取調べを受け次々と倒れた。7月の死者100名と記されているがその悲惨さは言語に絶するものがあった。・・・以下省略。


石碑の裏側。当時の共楽館の外観。


C ”信正寺”の部


中国人犠牲者を奉っている信正寺。今年、07.6月30日にはここで花岡事件62周年 犠牲者追悼式が執り行われた。


信正寺の裏手にある”中国人殉難者供養塔”。最初、寺の中をあっちこっち見たが何処にもない。で住職に聞いたところ裏です、とのこと。グル〜ッと回りました。それがこれです。この供養塔を建立するに際しても別の資料によると寺と鹿島組と供養を推進する市民団体との間で結構いろいろとあったらしい。結局、鹿島組がやるにはやったがその工事方法がおおよそ仏さんを供養する風には思えず地面に穴を掘りコンクリートで囲いそこに遺骨を入れて上をまたコンクリートでふたをする、というおおよそお墓ではなく建物の建設のようであったらしい。そんな風だったので完成後も問題が残り結局、数年後遺骨は再度出され今度はきちんと法要をいとなまれ現在は祖国、中国に”里帰り”されている。



中国人殉難者供養塔保存改修の記
告  示
第二次世界大戦下日本政府の閣議決定により中国人四万人が「労工」として日本各地に連行された。ここ花岡の地にも二つの事業所が置かれ鹿島組中山寮には計986名が配属された。1945年 昭和20年7月1日の夜、飢えと虐待に抗して一斉に蜂起し、日本人補導員4名と同胞幹部1名、計5名を殺害して逃走した。北秋田一帯は騒然となり延べ2万の鎮圧隊に方位拘束されさらに多くの犠牲者を出した。戦争が終わり生存者は帰国したがこのいわゆる花岡事件の死亡者は419名に達した。遺骨の一部は帰国時に同胞の手で持ち帰られたが残された多数の遺骨は「信正寺」当時住職鶯谷達道師の手で本堂に安置された。1949年11月23日、交渉のすえ鹿島組の手によって中山寮の跡地が遠謀できるこの地に供養塔が造られ殉難者の遺骨を納めた。遠く東海の果てに連行され異境の地にまつられた遺骨はその後有志によって中国・天津へ帰還していった。今、正史花岡事件を基にし日中和解の証として中国人殉難者供養塔、施行鹿島建設を整えた。日中不再戦を誓い平和友好を願う永代供養の碑とするものである。    2001年平成13年7月1日   以下省略

D ”十瀬野公園墓地”の部


左は公園墓地の入り口である。右はその奥の方。なかなか手入れの行き届いた立派な公園墓地だ。下の慰霊碑は左の写真のアーチをくぐってすぐ右側だ。


十瀬野公園墓地に入ってすぐ右側にある中国人殉難烈士慰霊碑である。ここに建立された経緯のページはここをクリック


十瀬野公園墓地のバス停である。


周辺の様子です。右の写真はたまたま通りがかった松峰地区内を流れている花岡川の支流の様子だ。水の色が鉄錆び色に真っ赤だった。写真の上方が上流でリサイクル工場のある方向だ。


読めるだろうか。”花岡鉱山労働組合”と書いてある。現在のそれかどうかは分からない。




E ”釈迦内鉱山”の部
JR大館駅北側、花岡川と下内川の合流地点付近、実相寺の近くに釈迦内出張所という場所がある。よくは見なかったが老人ホームのような感じの施設だった。その敷地内に写真の”釈迦内鉱山第三竪抗跡”がある。今はごらんのように木が植えられていて遠目に見るとその部分だけ若干盛り土がなされている。この姿だけではここにかつて黒鉱を採掘していた坑口が地下深くにまで存在していたことなど微塵も分からない。第三竪抗がここにあるということは第一、第二もあったと思うがそれがどこかは分からなかった。


地元の方に聞いて釈迦内鉱山の坑口がまだ他にもあるとのことでここにきましたがどうやらこれ以上は奥まで入れない。”お願い”の看板にもあるようにどうやらゴルフ練習場が跡地にできているみたいである。ゴルフ練習場は写真のちょっと手前でR写真のコンクリートの壁の右手前のほうである。


結局このコンクリの壁しか撮れなかった。奥の方まで車で行ってみたがなにせ車の腹をコスリコスリで奥までは行けなかった。もうちょっと奥までいければ何か見つかったかも知れない。

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