北海道美唄市東美唄町 (三菱)美唄炭鉱 Photo:2012年8月 (1/1) |
●炭 質 :瀝青炭(夕張炭層に隣接した瀝青炭だったと思うのですが)。 ●経営企業 :三菱鉱業(三菱美唄炭鉱)、三井鉱山(三井美唄炭鉱)、他多数。 一般的に美唄炭鉱というのは同地区に広がっている炭鉱群の総称で茶志内炭鉱、沼貝炭鉱、徳田炭鉱(後の新美唄炭鉱)などなど中小の炭鉱が他にも多々あった。長年の過程でそれらが吸収、合併を繰り返され 後年は大手の三菱(東美唄地区)と三井(南美唄地区)が美唄炭鉱の代表的存在となる。 1913年(翌14年、第一次世界大戦)飯田美唄炭鉱が開削したのがそもそもの始まり。’15年には三菱が同社を買収。’18年には三井も同地に進出し大手二社が揃うことになる。’44年戦時中には三菱だけで180万トン/年出炭したようである。そんな美唄の町を賑わした”黒いダイヤモンド”も1973年、遂に坑内堀りを終えて閉山となる。 8年後の1981年、露天掘り開始。一部(旭台)は現在も稼業中。 |
■左:国道12号線を美唄市内で右折、まもなく道央道「美唄IC」を通過、そのまま道々135号線を東進する。数キロ行くと右手に美唄国設ス キー場が見えるがそのまま直進。すると正面に写真の北菱美唄炭鉱のタンクが現れる。ここは今も稼働中(坑内堀は終わったが露 天堀を再開。)の会社なので入れない。車はそのまま道なりにしばらく走ると右手に赤茶けた塗装の立坑が見えてくる。ここが「炭鉱 メモリアル森林公園」である。 ■中:その立坑がこの写真である。もちろん今は観光用と産業遺産として保存しているだけである。しばらく見ているとまもなくにぎやかな 子供達の声が。先生に引率されてたくさんのちびっ子が見学に来ていた。 ■右:これは開閉所。地区内の各設備や機械類に供給する電源関係を一元管理していた。いわば指揮所である。 |
■左:下風坑側の竪坑全景。下風坑は掘った石炭やズリの搬出とその名の通り下向きの通気(換気)に使われていた。逆に北側 の上風坑は坑内と地上間の人員搬入と文字通り上向きの通気(排気)専用であった。どちらもその高さ:20m、この地点で の深度:170m。 ■中・右:三菱美唄炭坑の原炭ポケットだ。原炭ポケットとは地下から採炭されたばかりのズリを含んだ”原炭”を選炭場へ送るた めに一時貯蔵するためのプール。選炭場はこのすぐ前にあった。 |
■左:下の”竪坑周辺配置図”の精炭ポケットの辺りから見た竪坑の風景。写真右側(手前)が下風坑、左側(向こう側)が上風坑。 ■右:精炭ポケットの南西側から撮ったらしき写真。正面の白い3〜4階建ての建物は選炭場かも。左側の貨車が入って行く様子 の建物が精炭ポケット。ここで完成品の石炭を貨車に積み込んで全国に送る。精炭ポケット(石炭積込場)の壁には三菱の ロゴが見える。 |
三菱美唄炭坑操業当時の風景。左上が北側(美唄ダム方面)、右下が南側(美唄市内方面)。緑深き山が全〜部作業場だ。今の姿からはちょっと想像できない。 |
開閉所の前にあった案内板より読みやすくちょっと加工しました。 |
美唄国設スキー場の道路の反対側に”炭山(やま)之碑”がある。地元出身の彫刻家、安田侃(かん)氏の手によって作られた炭坑犠牲者の鎮魂の碑だ。 |
帰り際にキタキツネが寄ってきた。餌を欲しがっているのか・・・そうでもないのか。警戒しながらも逃げる風でもなく横を通り過ぎ離れて行った。何となく堂々としたそぶりである。 |