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  愛媛県新居浜市   D別子銅山/東平(とうなる)周辺   撮影:2011.11 (1/1)   
もう何回目の別子になるんだろう。また来てしまった別子詣でに。何か別子銅山にはぼくの波長に合うものがあるのだろうか。今回は東平ゾーンにきてしまった。東平には2回目。ここも他のように世界遺産登録を狙っているのだろうか。変わりようがそんな風に感じる。ただ僕的にはあまりファミリー仕様には変わってほしくないのだが・・・。いつの日か一度このあたりを全部踏破してみたい、そんな気になった今回の”別子詣で”だった。  


「むかしの東平」の銅版図が東平歴史資料館(図の中央部分)の脇にあった(白文字は加工)。注意:”北”は右下方向。


端出場の第四通洞の前の案内板。南北が逆なので位置関係がどうも分かりにくく北を上にした平面図を勝手ながら作成しました。断面図は東西が平面図と逆になるので省きました。<オリジナルはここに↓>


L写真:別子銅山東平(とうなる)貯鉱庫跡を最上部から見る。
写真:同所の簡単な案内板。
R写真:   〓東平貯鉱跡〓(案内板より)
     明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱所が、東平〜黒石駅間に索道が新選鉱所から第
     三通洞を経て東延斜坑底に連絡する電気鉄道がそれぞれ完成した。大正5年(1916)には採鉱本部が東延から東平(第三地区)に
     移転して東平が採鉱拠点になる。第三通洞から搬出された鉱石は、大マンブ、福井橋、小マンブを通って終点の新選鉱場に運ばれ
     た。鉱石と岩石とに選別された鉱石は貯鉱庫に貯められ順次索道で黒石駅へ下ろされた。後には距離を短縮して黒石駅から端出
     場へと変更して下ろされ四阪島精錬場に運ばれた。(写真は昭和30年頃の貯j鉱庫)


L写真:東平歴史資料館の近くにある貯鉱庫・索道基地跡とその看板。
写真:貯鉱庫を下から見上げた。最上部に人が二人立っている。
R写真:材料にはどうやらからみレンガを使っているようだ。中央の四角い穴から鉱石を索道のバケット(搬器)に積み込み端出場まで
     運ぶ。


東平エリアはこんな山の中にある。向こうに見えるのは新居浜市内と瀬戸内海。写真下の構造物は索道の基地だったもの。右のモノクロ写真は明治39年頃の索道基地内部。その上の写真は手前が索道基地内部、バックが貯鉱庫の全景。


L・M写真:この220段の階段がかつて鉱山の上部と下部を繋いでいろんな生活物資や鉱山資材などを運んだインクライン(傾斜鉄
       道)と言う物だ。簡単に言うとミニ・ケーブルカーみたいなもの。日本の鉱山は露天掘りの多い外国と違ってそのほとんど
       が山の中、斜面に沿って採掘坑道があるためあらゆる移動作業が水平移動にならず垂直移動になる。そのためどうして
       もこういう移動手段が必要になる。

R写真:同昭和34年(1959年)頃のインクラインの様子。


索道基地レベルから下へ降りていくと昔の鉱山住宅がある。保存用に奥に建築途中のものがあるがやはり手前のかまど跡と基礎部分しか残っていない物の方が興味をそそる。数年前にここに来たときはものすごいガスでよく見えなかったがたまのガスの切れ間に廃屋状態の古い鉱山住宅がそのまま残っていたのを覚えている。  


貯鉱庫レベルを北にいくとちょっと下った所に昔の鉱山関係者の娯楽場跡がある。今は娯楽場前の橋だけが残っている。(左写真)右のモノクロ写真にはくっきりと住友の井桁のマークが確認できる。玄関前の橋が左の写真そのもの。


ここは保育園跡。右のモノクロ写真からは当時の光景が想像できない。楕円形のコンクリートで囲まれたものは園児のプールだろうか


ここは(物品)配給所跡。東平生協と案内が上がっている。ここも今の姿からは想像できない。


ここは病院跡。住友別子病院東平分院。病院前のコンクリートの門柱だけが残っている。それにしても閉山してから未だ40年足らずでこんなにも跡形もなくなって杉の木だけが成長するんですね。これで門柱も無くなるともうさっぱりどこがどこやらわからなくなるでしょね。


L写真:現東平歴史資料館(最上段銅版図真ん中辺り)の裏側にかつてかご電車が通っていたと言うトンネル坑道がある。その中に鉱
     山運搬機器が若干、展示されている。
写真:  〓東平にゆかりのある鉱山運搬機器展示場
     東平は標高750m前後に位置し大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域で、最盛期に
     は4.000人近い人々が暮らしていた「鉱山の町」でした。明治35年(1902)に東平〜東延斜坑底を結ぶ「第三通洞」、明治44
     年(1911)に東延斜坑底〜日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通しこの路線を走る電車により新居浜地域(東平)と別子山地域(日
     浦)が結ばれるなど東平は別子銅山に係わる交通輸送の重要な拠点でもありました。昭和43年(1968)の東平抗終堀に伴い
     東平は一時廃墟と化し無人の地となりましたが昭和63年(1988)の「銅山の里自然の家」や平成6年(1994)の「東平記念館」
     建設により今再び注目されるようになってきました。ここに保存・展示しております「かご電車」などは住友金属工業株式会社別
     子事業所のご好意により寄贈を受けたものです。鉱山の町として栄えていた東平の華やかな時代を偲ぶ貴重な資料を平成15
     年4月1日、新居浜市と宇磨郡別子山村が合併し新生・新居浜市が誕生したことを記念し整備いたしました。
                                              平成16年3月 新居浜市 <案内板より>
R写真:バッテリー・トロッコやかご電車(当HPの”筏津抗”に写真あり)、採掘機械などが展示されている。


L写真:三角鉱車。鉱山でも機械化された後期に入ってからはあんまり使われていない。初期の頃、積まれた鉱石を荷降ろし場で
     降ろす時、人力で傾けていたが500キロ以上ものバケツを傾けるにはかなりの力とコツが要る。それに作業効率が悪い。
     それで重心が上に来て傾けやすいように三角鉱車(断面が三角形)を作った。がしかし三角形のため積載量が少なく作業
     効率もぱっとせずまた重心が比較的上にあったため搬送中横転の危険性もあったのではなかろうか。三角鉱車はあまり
     長くは使われなかったようだ。
R写真:こちらはキブル。単なる鉄製の底の深い円形の入れ物。立坑掘削の時など掘削ズリを外に出す時に使う。キブルとは何で
     も建築用語らしい。  


貯鉱所から南へ10分ぐらい行くと駐車場兼広場がありそこが喜三谷住宅への入り口だ。と同時に筏津坑からのかご電車(坑内電車)が通っていたトンネル坑道も見える。


L写真:第三通洞東平側入り口前の広場。元々ここは足谷川の上流で上から急流の沢2本(寛永谷と柳谷)が合流する深い渓谷だっ
     た。そこを沢の流れを変えずにその上に大規模の暗渠を築きズリなどを埋めて現在の更地(通称:第三広場)にしている。昔の
     鉱山業と言うのは半分以上が土木と建築で占められていることを証明するいい見本である。
写真:同じ広場。日浦坑や東延坑からやってきたカゴ電車その他が第三通洞から抜けて広場を横切り写真の金網の坑道に入って行
     き東平の選所場方面に行く。
R写真:  〓東平採鉱本部跡
     採鉱の中心は第三通洞の八番坑道準と九番坑道準に移行しつつあったので第四通洞、大立坑の完成を機会に大正5年(1916)
     採鉱本部を山頂に近い旧別子の東延から中腹の東平(第三地区)に移した。採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠を築きその
     上に二階建てで建築された。採鉱本部前には柵がめぐらされその内には火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。採鉱
     本部は昭和3年(1928)に選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館、などの中枢機能が集積
     していた東平地区に移転した。そして採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。採鉱本部は昭和5年(1930)に東平から端出場
     に移された。<案内板より>


L写真:第三通洞の東平側入り口。手前の橋の左が柳谷、右が寛永谷。
写真:第三通洞内部の様子。トロッコレールと木枠が見える。岩肌は露出のままのようだ。
R写真:第三通洞入り口のUP。柵も無骨な柵ではなくお洒落なものになっている。


L写真:  〓第三通洞(標高711m)
     第三通洞は東延斜坑の下底部にあった三角という別子鉱床の富鉱部を狙って明治27年(1894)に開削に着手した多目的坑道
     である。同35年に完成したことにより坑内水の排出と通気問題が一挙に解決し出鉱量も飛躍的に増加していった。更に明治
     44年に別子山側に日浦通洞が貫けたことにより東平と別子山日浦が全長3.990mのトンネルで結ばれ別子鉱山の北と南を結
     ぶ動脈となった。更に鉱山では”かご電車”という鳥籠のような電車を連結して一般にも開放したので利用者が多くて特別に人
     車を増結することもあった。昭和48年、そのかご電車も別子銅山の終決と同時に廃止された。<案内板より>
写真:第三通洞入り口付近にあった工事内容の看板。”第三通洞閉塞工事”となっている。もっとも相当前だが。
R写真:銅山峰に行く登山道。約1時間40分らしい。


L写真:第三社宅の跡。”第三”の名前のルーツは3番目に掘った第三通洞の第三からきている。第三変電所も同じ。
写真:第三変電所の遺構。煉瓦造りの姿は昔のままだ。もちろん内部には何もない。
R写真:  〓第三と変電所
     元禄15年(1702)から別子銅山の粗銅(あらがね)は銅山越え経由で新居浜へ運び出すようになりその中持(なかもち)道はこ
     の辺りを通っていた。第三坑口の前辺りには橋があって「上の橋」または「欄干橋」と読んでいた。辺りは深い渓谷であったが
     100mにも及ぶ暗渠を築き右の寛永谷と左の柳谷の流水を伏流させ第三通洞の開削ズリを堆積して通称第三広場と呼ばれて
     いる鉱業用地を造成した。以後しばらくはここが東平地区の開発と生産活動の拠点となり大正5年には別子の採鉱本部をここ
     に遷した。昭和5年端出場に移転するまでの14年間はここが鉱山の本部であった。煉瓦の建物は東平変電所の遺構で明治
     36年ごろ設置された開閉所を大正6年ごろに変電所の機能を備えた煉瓦の建物とした。尚、その下段には鉱水を処理する流
     水沈殿槽が設置されていた。<案内板より>


これは一番隅っこにあった火薬庫。内部は手前が水浸しで入れなかった。


L写真:これは道の駅「マイントピア別子」に展示されていた自然銅。実に立派なものだ。でもこんな形の自然銅って初めて見る。
     たいがいは(糸金のような)小枝がはったような形やナゲット状の物が多い。ただ聞いた話では外国では数10トン以上に
     も及ぶ自然銅があると言う。世界は広し!
M・R写真:同所にあった菱刈金山の金鉱石(菱刈金山<鹿児島>も別子と同じ住友金属が経営の唯一の現役金鉱山)。この塊
     で約2トンとか。いろいろ紙が貼ってありますね。金・急騰!2.829万円とは余程興奮してるんでしょうか。2011年8月19
     日と書いてますがこの後も金価格は上昇中です。今やプラチナより高くなってる。世界の経済不安で金に走るのでしょうか
      orスマホやパソコンでの無線通信が増大して需要が増えたのでしょうか、装飾品もあるでしょうね、恐らく全部でしょう。


L・M写真:昔の坑内排水の様子。パッと見では何かわからないと思うがこれは全部ヒトである。岩の合間に延々とふんどし姿の水引人
       足が手動ポンプを手に湧き水を上へ上へ吸い上げて排出している様子だ。暗く湿って太陽の当たらない狭い洞穴の中で来
       る日も来る日も同じ作業を繰り返す水引人足。これ以前の桶に水を汲んで細いはしごを登って排水することから考えると少し
       は楽かもしれないがいずれにしても地獄のような作業である。
R写真:昔の粗銅を鉱山から新居浜まで運んだ仲持ちの姿。背中に担いでいるのは粗銅。女性で約30キロ、男性で約45キロの粗銅を
     運んだ。帰りには生活物資その他を運んで帰ってきた。人形ではお婆さんらしいが若い女性もたくさんいた。旧別子エリアからは
     銅山越えまで危険な道を登り峠を越えてからは東平や新居浜までまた危険な道を数時間歩いて往復した。当時の山道など今と
     は違いほとんど整備などされていない。手摺もなければ柵もない。道幅も狭く人が行来しているからかろうじて道になっている、
     という程度のものがほとんどだろう。雨も降れば嵐もあるだろうし当然ながら事故が絶えなかったことだろう。


L・M写真:観光用端出場坑道内は前回来たときとは随分変わっている。トロッコも坑道の手前で終わり。前回は中まで入ったが。一
       部テーマパークのようになっている。ファミリーや子供達には受けるだろうね。すぐ上の写真にあった昔の手動ポンプもあ
       るので一度体験してみては。
R写真:旭化成製のダイナマイトその他も見本が展示されていた。


L写真:マイントピア別子の観光坑道(端出場坑道)から出てくると写真の煉瓦水路が現れる。以下案内板より〜
       〓煉瓦水路
     坑内水流水路の一部です。ここからまた木製の水路に継ぎ鉄道線路脇の抗水路で山根収銅所に流送して浄化処理をし
     ました。M35(1902)年、標高約750mのところに第三通洞延長約1800mができると上部地区の鉱石の運び出しが便
     利になると同時に坑内水も排出されました。坑内水は地表から浸透した水が含銅硫化鉄鉱と接触して強い酸性となり銅
     や鉄の析出金属を含んだ鉱毒水となります。この水を川に流すと土壌が汚染され環境が破壊されますので坑口から木製
     の水路を連ね途中、水流変更箇所には会所(水流池)を、急流部分には煉瓦水路を作って急峻な山肌を延々と流してき
     ました。<案内板より>
写真:第四通洞の入り口。この上を県道47号線が通っている。また案内板を引用〜。
       〓第四通洞
     輸送の合理化を図るため明治43年(1910年)に着工し大正4年(1915年)開通した別子銅山の大動脈です。長さが
     約4.600mの水平通洞でアーチ型の堅固なトンネルの入り口には住友家15代家長住友吉左衛門友純氏の筆による
     「第四通洞」の端正な文字が深々と刻まれています。<案内板より>
R写真:第四通洞の内部。トロッコ軌道がどこまであるのかわからないが見えている限りは続いている。思ったより整備が行き届
     いているようだ。やはりこれほどになると定期的に点検・巡回も欠かさないのだろう。最奥部まで行くと往復で約10キロ。
     徒歩で点検しながらだと半日から一日仕事か。機会があれば一度奥まで入ってみたいものだが。


  〓第四通洞・四通橋
 14番坑道準の海抜156mにある端出場坑口と大立坑を結ぶ輸送路で明治43年(1910)に開鑿に着工し大正4年(1915)に貫通した。通洞の延長は4.596m。工事にはインガーソル式圧縮機。フランクリン式圧縮機を動力とする削岩機が使用された。採鉱場もさらに下部へと移行したことから鉱石の搬出は第三通洞から第四通洞に移り昭和5年(1930)には採鉱本部が第三通洞のある東平から第四通洞のある端出場に移転した。その後、筏津下部に向けて延長5.100mの探鉱通洞が昭和10年(1935)に開削され昭和17年(1942)に貫通し全長約10.000mの大通洞になり筏津坑の操業にも大きく貢献した。S48年(1973)の別子銅山休山までの間、大動脈として活用された最後の水平坑道。端出場と大立坑道プラット間にはトロリー電車を走らせていた。
 四通橋はT8(1919)年に大動脈の第四通洞に接続したトラス橋として足谷橋に架かる橋として開通した。T12年(1923)から全鉱水を第四通洞から排水することになり四通橋の東側に坑水管が通っている。<案内板より>

 ・写真上の白いガードレールは県道47号線。左が新居浜市内方面。


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