別子銅山  2/2   



旧別子銅山の部


 「旧別子銅山」の入口です。標識も大きく分かりやすいですね。マイントピアから来ると道路の左側にパーキングがあり。キャパは15〜16台でしょうか。ここからの旧銅山の山道が今回のメインテーマです。資料ではちょっとしたハイキング程度とのこと。まず一安心。


それでは行ってきます。


 歩き始めて10分ぐらいでかつての小学校跡と坑夫やその家族たちの憩いの場であった劇場跡が見えてきます。今は写真のとうり劇場の基礎の石垣と入口への石の階段が頑丈にあるだけです。階段の上まで上がりましたが上にはかつての面影は何もありませんでした。小学校はこの写真の手前側です。何もありませんでした。でもかつてはこの山の中に一万人を越える人々が生活してその作業の厳しさや並々ならぬ生活の苦労ぶりなどをじっと考えると何か胸につかえるものを感じます。この劇場は1889年(明治22年)に建てられ最盛期には時の歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで人々を楽しませた、ということです。


 ここはトップページの写真にもある所謂「ダイヤモンド水」。説明によると新鉱脈を探してボーリングしている時に数十メートル地下で水脈にあたりボーリング機械を抜く際、最先端のダイヤモンドビットが折れて残ってしまったためこの名前が誰言うともなくついたとのことです。噴出中の水は冷たく非常においしかったです。写真中の黒いホースの下の赤いものは誰が置いたのか水飲み用のコップ。


 渓谷中のハイキング通路です。箇所箇所錆びてましたがま〜なんとかいけそうです。  石垣です。コースの対岸側です。何のものかちょっと不明です。  コース中には結構、往年の面影を残すものがありました。作業用あるいは生活用の何かのパイプでしょうか。


これも対岸側、上部にあった建築物です。  第一通洞に行く途中の右側にあつたものです。多分ズリ捨て場ではないでしょうか。


ここが「第一通洞」。説明によると別子銅山の近代化はこの辺りから始まったらしい。以下説明文。
 
                   第一通洞南口(標高1、110m)
 この付近一帯は通称ミナミグチという。別子銅山の近代化はこの付近から始まった。明治9年(1876年)東延斜坑の開削が始まり明治19年には?北角石原からの通洞が代々坑に貫通しここに銅山峰の北と南を結ぶ1020mに及ぶ水平坑道がはじめて出現した。以後大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの30年間第一通銅南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また明治26年には第一通洞北口まで鉄道がしかれたので運輸面の要ともなり初めて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり近代化の拠点、東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋精錬所まで水平軌道が延び鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。


 第一通洞の内部です。デジカメのストロボがあまりパッとしないのでこれで精一杯です。


 見たとうりのただの標識です。でもハイカーにとってこれがとっても心強い。 ここがさっきの標識にあった「東延斜坑」。掘削開始は1876年(明治9年)。中からは地下水が手前の疎水に流れていた。


 まだところどころにこのようなトロッコのレールが残っていた。当時はこんなレールがいたる所に敷設されていたのだろう。


 これは何でしょうか。渓谷の上にせり出すようにあります。ズリかカラミの類が固まってこんな風になったのてしょうか。自然物とは考えにくいのですが。


 帰りの途中から見た川之江市辺りの遠景です。この辺でちょっと一服して帰途につきました。。


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>おしまい<