旭日鉱山 1/1 |
あさひ こうざん |
兵庫県赤穂郡上郡町旭日甲 探訪日 : 2007.11 |
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旭日鉱山の発見は他の中小鉱山と同様はっきりしたことはよく分からないがさほど古くはないらしい。一説では20世紀初頭に入っていわゆる山師が試掘をしそれが採算の取れる有望な鉱脈だと分かってから本格的に採掘を始めたという。試掘をするからには山師にもそれなりの自信があったからだろう。ということは案外もっと以前からこの地に金、銀、銅、(後にマンガンも出鉱)の鉱脈があるらしいというのは地元や関係者の間では分かっていたのかもしれない。 また周辺には旭日鉱山だけではなく同程度規模の金、銀鉱山がいくつかあった。現在はもちろん全て廃坑である。経営は1900年初頭の試掘の頃からしばらくは小規模に採掘をやっていたが昭和に入り次第に戦争色が濃くなりだした頃からあらゆる金属が必要になり鉱山もより大規模に機械化を求められるようになった。そのため経営母体も大企業に委ねられ当初は日本鉱業が後には閉山まで経営していた合同資源産業という企業であった。旭日鉱山がもっとも忙しかったのは1938年(S13年)頃で(下の写真にあるように国民精神・・・の石碑の頃)当時は鉱夫だけでも400人近くいたと言うからその家族も入れると1000人を越す人口がこの小さな鉱山町で生活していたということになる。当然、生活のための各種の施設があったことだろう。鉱山住宅はもちろん売店、病院、娯楽施設、銭湯、学校、などなど。今はもうそれらの片鱗も見当たらない。閉山時期は1985年前後というからまだ廃鉱山としては新しいほうである。そのわりには残存物が少ないように思うが。 |
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もうちょっと奥へ行くと写真の”大鳥圭介生誕の地”の標識があった。(今はなき漫才の鳳啓介ではないですよ。<笑>字が違う。)大鳥圭介氏は佐久間象山等と同様、幕末から明治にかけて活躍した歴史上の人物で砲術家で軍事研究家でもあった。緒方洪庵の「適塾」でも学んだ仕であった。ご当地はそういう人物の里である。ただしここには行っていない。 |
見つけました。ここへ来る前にあるいはひょっとして坑口は見つけられないかも?その代わり・・・と思っていましたが案の定そうなりましたね。坑口はおそらくこの碑の後ろ側,斜面のどこかだと思う。下の写真にそれらしき場所もあったが破壊されているのか坑口ではないのかよく分からない場所が一箇所あった。その場所は写真の道路からわずかちょっと斜面を上に上がったところ。なんでもない場所である。がしかしたぶん坑口はそこではないように思うが。なんとなく”感”では違うと思う。周辺をもうちょっと上の方まで広範囲に歩いてみたが上の方には小さな畑があるだけで他には坑口らしきもの及び鉱山関係の残存物その他は何も無かった。ここを終了してもうちょっと道路奥の方まで行ってみたが小さな集落があっただけで(もちろん目をさらにしてそれらしきモンを見つけようとキョロキョロしながら。車速は徐行で。)目的のものは無かったですね。ザンネン・・・・ |
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旭日鉱山の石碑の場所からちょっと上に上がったところ。最初ここが坑口跡かな?と思ったがう〜ん・・・、どうも違うような。実際にはどちらか分からない。ここの周辺を結構歩いたがそんな跡はかけらもなかった。ここへ来るまでに会ったおばあさんにたまたま道を聞いたところ鉱山のあった山はどうやらおばあさんの持ち山だったらしくて”坑口まで行くのはいいけど危ないから気い付けや”とのこと。坑口まではダメだろう、と思っていただけになんか力がついたような気分に。そのおばあさんに聞いたとおり道を来たつもりだったが・・・?? 何処に坑口が??? 金網がしてあるから、と言っていたが???そんなものは何処にもないけど・・・。ま・さ・か、写真の簡単な鉄条網がそれ?でも坑口らしきものが・・・ない!。なにかが土砂で塞がれているようなそんな感じだけが残っている。 |
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