阿仁鉱山  (秋田県北秋田市阿仁銀山)   1/3  
                (あ に  こ う ざ ん)               ・探訪日 : 2007年10月 



 阿仁鉱山というのは単一鉱山の名称ではなく周辺6箇所の鉱山の総称である。6箇所とは下の写真にもあるように、小沢鉱山、萱草鉱山、真木沢鉱山、一の又鉱山、二の又鉱山、三枚鉱山の六鉱山である。主要金属は銅(Cu)。もちろん実際にとれたものはそれだけに限らない。もともとはその昔に金(Au)が発見され阿仁金山ともいわれた。 (下につづく)
 ところで少し話しが脇道にそれるがご当地、阿仁鉱山が核のゴミ捨て場としての候補地に上がっていることは皆さんご存知だろうか。今年の夏頃(だったと思うが時期については不確かです)のニュースで聞いたものです。ニュースで報道されたぐらいだから知っている方もたくさんいると思います。今年7月の新潟での”中越沖地震”の確か前後頃だったと思う。あるいはその直後だったかもしれない。もしそうなら柏崎刈羽原発の地震による被害と妙に時期が附合する。だいぶん以前に鉱山関係者に聞いた話だが”坑道内で採掘作業中に地震がきたら落盤はどうなるんですか?”と聞いたことがある。答えは”以外と坑道内では揺れないんですよ。それに地震での落盤は聞いたことがないですよ”とのことだった。ホント〜???ナンデ〜???信じられないですが。それだけ岩盤が堅いということか。仮に堅いからとしても全部の坑道の岩盤が固いとは限らないと思うのだが。 阿仁鉱山の場合いは堅い岩盤?のせいで”核のゴミ捨て場”候補地に挙がっているのだろうか。その辺は門外漢の小生にはちょっと分からない。あるいは勝手な推測をするならば六鉱山のほとんどが熊が出没するような場所なので人が来にくいのと、すでに廃坑とはいってもかつて開発していたのだから道路も残っているしその辺の地質や地下の様子などの資料が揃っている、というような理由なのか。いずれにしろ”核のゴミ”はご遠慮願いたいものである。
 (上からつづき)
 阿仁鉱山は1309年、金山として発見されたらしい。発見のプロセスは”寛永説”と”寛文説”の二説あるという。どちらも現実離れしたよくある夢物語風のものである。が現実にそこから金、銀が発見されている。古人は夢物語(ドラマ)が好きなのだろうか。いずれにしろ最盛期は江戸時代である。採掘鉱石は黄銅鉱、輝銅鉱、黄鉄鉱など、また孔雀石(マラカイトグリーン)も少量だが採れた。江戸時代の最盛期には別子や足尾その他を押さえて国内一位の産銅を誇ったこともある。閉山は1978年(昭和53年)だが700年間近くもの長い間には実にいろいろなことがありその経営母体も実に複雑な変遷を繰り返している。銅や他の優良鉱物が大量に採れている間は誰しもがその利権に目の色を変えおそらくは利権獲得に権謀術策を弄したであろうと想像できる。そうした中で明治に入ってしばらくしてからは足尾銅山や飯盛鉱山などと同じ古河鉱業が経営権を取得。新鉱脈の開拓や鉱山設備の近代化などを積極的に進めそれなりの成果を収めた。が1931年品位の低下により一旦休山するが約4年後の1935年復活する。おそらく戦争準備に忙しい政府がちょっとでも多くの金属類を求めて号令をかけていたのだと思う。この時代日本は明治維新以降の歴史で一番あわただしい時代だった。(1931年満州事変 1933年国際連盟脱退 1937年盧溝橋事件<日中戦争勃発> 1941年太平洋戦争勃発などなど)
 書き忘れたが、復活の2年前に”二十四孝金山”という金鉱脈を発見しているからそれも復活の大きな理由だろう。戦後もしばらくは採鉱していたが金属の国際相場暴落や低品位化などで採算悪化。1970年(昭和45年)ついに採鉱中止。’78年には約670年もの長期間灯っていた灯がついに消え完全閉山となる。現在の鉱山(ヤマ)は六鉱山とも荒れるがままに放置されている。そこに”核のゴミ”プロジェクト?がふって湧いてきたのである。









JR「阿仁合」駅周辺 ・ 小沢鉱山周辺と選鉱所跡 ・ 阿仁町伝承館(阿仁鉱山資料館) 
旧阿仁鉱山外国人官舎    


秋田空港から北まわりで阿仁鉱山にむかう途中の国道285号線。左側の柵のようなものは何でも防雪対策らしい。実際にはこれでも”イマイチ”とか。でもないよりはましらしい。




阿仁鉱山六ケ山の立体模型。”伝承館”の中に展示されていたものだがページの最初に持ってきた方が分かりやすいと思いそうしました(少し加工してます)。写真ほぼ真ん中が”小沢鉱山” の坑口跡エリアである。そこまで行こうと思い”寛文杭橋”手前を東方向へ。しかし車がすぐに行けない事態に。”土砂崩れ”です。アアアァ〜〜。ドナイシヨウ・・・。かろうじて行ける程度なら行くんだがこりゃ〜ダミだ。完全に道が下の川に落ち込んでる。まだ新しい傷跡のようである。つい先日のこの地方での大雨情報を思い出した。そうか、そうだったのか。こんな廃坑の人の来ない場所だと復旧も当分はしないだろうな、と思いながらあきらめてUターンしました。実は予定ではこの先の奥の方にある”一の又鉱山” ”ニの又鉱山” ”三枚鉱山”にもいきたかったんですが(ネット情報では行けるかどうか分からなかったが。道も悪いし熊も出没するらしいとのこと)それら全部、没になりました。あるいは”小渕駅”側からか萱草鉱山跡の先っちょあたりから山奥方向へ行く道もあるにはあったが相当遠回りになるしここがこれだと奥もかなり土砂崩れ箇所があるんではないかと思い結局、坑口探しはここであきらめました。ザンネン、ムネン・・・・。でも安全第一ですから。


上の模型の右下にある説明図です。読みにくいですね。スイマセン。もうちょっとキチンと撮ればよかった。(こんなんばっかし・・・・)下にキチンと書いておきますネ。
阿仁銅山六ケ山
享保元年(1716)佐竹藩の産銅は全国第一位を占め阿仁銅山は藩内の主位で日本三大銅山の一山として全国的に名が知られていた。
小沢鉱山 寛永14年(1637年)、或いは寛文2年(1662年)より草分け切り開いたといわれ高岡入右衛門の稲荷の霊験による発見物語があり阿仁銅山第一の山で入り口に、番所、お台所があって吟味役がいた。元禄、宝永の頃、戸数300、また大正3年、3253人と記録。
真木沢銅山 古くは板木沢金山(阿仁金山)として名が知られ総山合わせて2500余人と記録され銅山は宝永2年(1705年)泉屋吉右衛門の開拓と言われ元文2年(1737年)直山となり戸数150、入り口には番所、お台所あり吟味役は小沢と交互に詰めた。
三枚銅山 古くは金山として発見され寛永7年(1667年)大阪屋久左衛門手代七郎右衛門の開拓と言われ宝永4年(1707年)直山となった。戸数120、人数1004人の記録がある。
萱草銅山
(かやくさ)
寛文10年(1670)羽立平の開山に始まり、鴻池善右衛門、加賀谷四郎兵衛の開拓と言われ寛保3年(1743)直山となった。明治27・8年頃、盛況で戸数403と記録されている。
二の又銅山 宝永4年(1707)長井九十朗、中村市兵衛の開拓と言われ寛保3年(1743)直山となった。全盛時戸数150余あり戊辰戦争当時、藩の軍用金を鋳造したことがある。
一の又銅山 宝永7年(1710)長井九十朗、中村市兵衛の開拓と言われ寛政の頃戸数100を超えたという。
 


 

  ”小沢鉱山周辺”


小沢鉱山選鉱所計画図(阿仁町資料より)
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「阿仁銀山」「阿仁・三枚鉱山」の往時の様子。
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この赤丸部分は川の真ん中にドシッと鎮座しているがかつてのトロッコ用軌道の橋脚である。寛文杭橋のすぐ近くにあった。他にもないかと周りを眼をこらして見たが双眼鏡も駆使してみたが何も見えなかった。おそらくは木々に阻まれて見えないだけだろう。仮に木々が無いとすればもっといろんな残存物が眼に入ると思う。
Rは小沢鉱山の坑口方向から流れている地下水だ。水量は豊富だがきれいのだろうか。のどが渇いていても飲む勇気はない。




 ”小沢鉱山 選鉱所跡”


小沢鉱山の選鉱所跡です。ここは道路から近い。往時は後ろの山の上部から斜面に沿って選鉱作業をしていたのだろう。今残っているのはやはりコンクリ部分だけです。この道路を挟んで前部分には貯鉱所か駐車場だったと思える広場がある。


道路の反対側にはズリ場と思える箇所があった。



”選鉱所跡内部”


上の選鉱所跡全景写真の左右に広がっているコンクリの上部です。Lはどうやらベルトコンベアの土台か?Rはここよりもまだずっと上の部分だ。下から見ると単にコンクリの壁のように見えるがあの向こうに何があるのだろうか?行きたかったがとても足場が悪くてやめました。どこか他の場所から行けるかも知れないがそこまでは踏査していない。


すぐ上の写真より一段上部だ。ここはシックナーだらけ。こんな狭い場所に直径:約6〜7mぐらいのシックナーがパッと見ても3箇所あった。写真右のものは何か変だったので小石を投げるとボコッ、ボコッと音が。ウン?なんだろう。水じゃない。でも水の中に大量の土砂があるような感じの音だった。しかしそれにしては表面がほぼ”まっ平ら”だった。????


シックナーの周りには残存物が一杯。シックナーを囲むようにコンクリの土台のようなものが一基に4本づつ立っているが何のものだろうか。


同じフロアにこんな物が。赤い矢印@のすぐ下に見える土色の丸みを帯びたテーブル状のものはなんでしょうか?回転しそうだったので足でちょっと動かしてみると動いた!ちょっとだが。土台は木製だ。その上に土がかぶさっている。何かのターンテーブルなのか?あるいはトロッコでここまで運んできてここで方向を変えてAのようなホッパーらしきものに落とす、というようなことか。でも自分で書きながらなんとなく”違うかな?”と言う気もする。


Lが上の写真赤い矢印@です。何かよく分からなかったがなんとなく山の向こうの採掘現場からやってくるトロッコのトンネルかも?。でもトンネルを妨害するように手前にある屹立しているコンクリの土台は何だろう?
Rは上の写真赤い矢印Aだ。これはホッパーだろう。奥に”からみ”か石垣か分からないものが。よくよく見ると石垣でした。天井には何かのバルブがぶら下がっている。


上の三枚の写真は同じ場所だ。左写真の真ん中部分で左右に材木がニョキツと突き出ている部分と右2枚の赤い線で囲んだ部分が何かトロッコの軌道の枕木のように感じたので撮ったものです。同伴の仲間は”いや、違うで。他のもんやで。”と云ってましたが上の阿仁町資料からアップした写真では確かにこの辺を大正坑口からの軌道が通っているのだ。ただ確かにここがそうだ、とは断定は出来ないが。


選鉱所跡ちょっと上に上がった場所にこんなものが。相当錆びてましたがやはり操業時のウインチでしょうか。1978年(昭和53年)閉山(操業中止は1970年)だから現在まで29年を経過しているが錆び具合からしてこんなものでしょうか?




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