植物生態学
大学の研究者がいろいろ意見述べているが
どれも付け焼刃のようで信じがたい。
現在書いている原稿のための調べごとで、潜在植生そのものに疑問が出てきた。
宮脇昭の潜在植生至上主義(^^;)では、照葉樹林こそ日本の潜在植生である、としているようだ。
正確にそう発言・執筆したかどうかは確認していないのだが、潜在植生を復元すべきと言って、
植えているのが照葉樹の木々ばかりなのだから、そんなに外れていないだろう。
たとえば
「本来の植生は内陸部では
シラカシなどの常緑広葉樹、海岸部はタブノキ、シイ等のいずれも
照葉樹林が本来の姿である」
という言葉を発している。
この「大抵」の場所がどこを指すのか明確ではないが、
基本は日本列島全域だろう。
北海道、東北や南西諸島は外すかもしれないが。。。
しかし、最近の古生態学や考古学的な研究によると、
弥生時代には温帯針葉樹林が種類・量とも多いという結果で出ているのだ。
西日本の日本海側では、スギの優占する針葉樹林、
内陸部でも照葉樹にスギやヒノキが多く混じっていたらしい。
実際、近畿の山々では、戦後の植林が進む前は、
スギのほかモミやツガ、トウヒ類も多かったらしい。多少標高は高いが、
1000メートル以下であり、高山を理由にするには無理を感じる。
そして1000年くらい前から人為が入って植生が変化してくる。
主にアカマツ林や落葉広葉樹林が増えてくるのである。
となると、潜在植生至上主義(^^;)の立場からは、
もっとスギやヒノキを植えるべきではないか。照葉樹ばかり植えては潜在植生にならないのだ。
「その土地本来の潜在植生は、
『鎮守の森』を調べればわかる。大抵、シイ、タブノキ、カシ類の木々が茂っているはずだ」
鎮守の森、つまり神社などの境内の神の森は、人が畏れを感じて手を付けなかったから、
昔のままの植生(これを潜在植生とする)が残っているというわけだが、これにも疑義がある。
なぜなら、鎮守の森も、案外最近まで平気で伐採してきた記録が見つかっているからだ。
それどころか、境内の木を伐ったり、草を刈る、落葉を集める権利を、近隣の農民などが取り合ったらしい。
木材はもちろん、草や落葉は堆肥にするためだ。
そして、マツ林の場合は、そこで採取できるマツタケも入札で販売していた。
そうした神社仏閣は、決して例外ではなく、かなり大きな寺社でも行い、収入源にしていた。
これは寺社に残る文献のほか、明治大正時代の土地利用図にも乗っているという。
だから、鎮守の森の植生も、照葉樹林どころかマツ林のほか落葉樹も多く、結構「荒れて」いたらしい。
その反動からか、そこでは造林もしていた。
なんだ、これでは何が潜在植生かわからぬではないか。
では、なぜ今、鎮守の森は照葉樹林と思い込むようになったのか。
それは、日清日露戦争後、満州など大陸部から大豆粕が肥料として輸入され始め、
落葉の堆肥の需要が減ったからではないか、という仮説も立てられている。ほかに魚肥もあるだろう。
こうした仮説が正しいのかどうか、私には十分に判定できる材料はないが、
私の小学生時代は、畑の肥料としての大豆粕について語られていたのに、
現在は忘れられて、堆肥からいきなり化学肥料になってしまっているのは感じている。
いずれにしろ、戦前は結構荒れていた鎮守の森が、
戦後は一般の里山よりも早く「放置」が進み、
その結果遷移が進んで、登場したのが照葉樹林だと言えるかもしれない。
これが潜在植生と言えるのかどうかは、まだ年数が短すぎる。
もしかして、照葉樹林なんぞ、遷移途中の代替植生かもしれないぞ。
スギの純林が潜在植生だったりしたら、さあ、どうする?
現在の山こそ本来の正しい植生だ!! と主張してみたい(^○^)。
2011/12/03 森林学・モノローグ | 固定リンク
2015/5/12更新