この事故は、墜落機発見まで長い時間がかかっている。米軍機が早い時点で発見している。米軍の報告がどこかの何者かによって遮断されたのでしょう。
この謎はマスコミ関係者によって、ウヤムヤにされたような感じがする。
今でももっと早く、現場に救助にむかっておれば・・・・と思う。
2005年07月17日 | 其の他
タイガースが21年ぶりの優勝を決めた1985年。
その年の8月12日に、
日本航空123便が群馬県の高天原山(たかまがはらやま)に墜落した。
*1乗員&乗客併せて524人の内520人が死亡。
助かったのは僅か4人という大惨事で在った。
亡くなられた方の中には、歌手の坂本九氏や
タイガースの中埜肇球団社長、女優の北原遥さん等著名人も居られた。
(個人的には「新八犬伝」に見入って来た世代なので、坂本九氏の死は哀しみが一入だった。)
レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。
現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。
それ程酷い状況で在った。*2しかし、4人の命が救い出される事となる。
その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。
救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事になる・・・。
「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。
慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。
”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。
当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。
待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。
翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。
慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、
近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。
その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、
墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
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「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、
御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」
「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。
段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。
『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って
上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、
咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
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事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、
なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、
在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。
日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、
在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、
「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で
現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)
確かに、慶子さんもその事を語っている。
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「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、
真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。
『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。
『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、
それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
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「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、
慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。
日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)
兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。
美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。
ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。
そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、
「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」
と語っているが、当時の慶子さんは
「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」
と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。
この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。
慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。
兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、
怪我人の手当てに奔走したという。
嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで
職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。
やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、
夫となる男性と知り合った慶子さん。
中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」
と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。
今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。
事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、
今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。
当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。
事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。
廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、
愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。
最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。
そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。
やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。
これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。
*1 当時の報道が余りにも強烈に脳裏に焼き付いていた為、
自分自身もつい最近迄誤解していたのだが、
実際の墜落現場は御巣鷹山ではなく、その直ぐ南に位置している高天原山の尾根という事で在る。
*2 この事故をモデルにしたと思われる山崎豊子女史の
「沈まぬ太陽」には、如何に現場が”地獄絵図”の有様で在ったかが記述されている。
「白い巨塔」や「大地の子」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」等々、
多くの名作を世に送り出している彼女だが、この「沈まぬ太陽」も心に残る作品の一つで在る。
2015/5/12更新