Column







<孤独とわたし> Dec.11.2002

「自分と向き合う時間」は私にとってとても大切な時間である。
何をさしおいても、嵐が来ようとも、これだけは譲れない。
私は基本的に「独り」が好きだ、でも友人や仲間と集ってワイワイやるのも決して嫌いではない。
見知らぬ人や新しい環境に飛び込むのも面白くて大好きだ。
内なる孤独の中で自分を確認して、外から得る刺激を肥やしにする・・・
一見矛盾しているような行動だけれど、これが健全なあり方じゃないかなと思う。
ある日偶然、それを代弁してくれるような言葉に出逢いました。
経営コンサルタント津田かずみさんの「孤独」についてのコラムです。


 〜 記事より引用〜 

近年、成熟した人間が持ち合わせている「孤独」を楽しむ能力が著しく低下していると思う。
確かに現代では孤独に過ごす時間を手に入れるのは困難かもしれない。そのことが孤独を否定的にのみ捉え、
集団への過剰適応や不登校、引きこもりへの無理解を招いてはいないだろうか。
最近の文化現象を見ても一人になる時間の意味を問い直す必要があると思う。

孤独の時間は、人間関係に疲れた時、多忙な毎日に心身が追いつかなくなった時、、、などに求められる。
だが日本では孤独という語のイメージが極めて否定的で協調性に欠け社会から隔絶した「一人ぼっち」
の状態であり、寂しく悲しい心情だと大方の人は思っている、英語で言えば「ロンリネス」である。

所が孤独は「ソリチュード」という肯定的な意味をも持つ。
その状態は疲れを癒し自分らしくある為の勇気を湧き立たせ、想像力の源となる力を無意識に発酵させる。
日本語ではこの肯定的な側面が無視されがちである。他者との協調性を教え込まれたからか、
日本人は社会的「群れ」から離れて「一人の時間」に遊び、湧き立つ想いを楽しむ醍醐味を忘れているかのようだ。

一時の激しい感情に左右されず自分の内なる静けさに耳を澄ます、一人の時間こそ能力を活性化する
「ソリチュードタイム(ST)」であると肯定的に捉えなおしてはどうだろうか。
STを日常生活で習慣化すれば創造的な生き方が出来ると思う。









<平和の祈り> Aug.9.2002


今年もまた暑い夏がやってきたなあと 感じさせてくれる出来事がひとつ
広島、長崎 原爆の日。
私にとっての戦争って 本の中でしか知らないけれど
幼少の頃 亡くなったお祖父ちゃんから 良く聞かされていた記憶は微かにある。
戦争体験者の話はとても重みがあります 子供だった私は人事の様に聞いていたけど・・・
お祖父ちゃんは話しながら いつも目が潤んでいたなあ。
そして彼は話だけじゃ伝わらないと気付いたんでしょうね、ある日私達に本を買ってきてくれた。
それは「はだしのゲン」という漫画でした。
発売当時は差止めになる位の問題作だったようです、それだけリアルでストレートな内容だったのでしょうね
何でも隠したがる日本のお役人のやりそうな事です。
随分昔の話で、その本が今ではどこに行ってしまったのか?
それともゴミで出してしまったのか分らないけれど・・・それは確かに素晴しい本でした。
子供ながらに読まなくてはいけないという衝動に駆られたのです。
夢中になって読みました。戦争とは?核兵器の恐ろしさとは?それを操る人間の狂気、
愚かさを知り、家族の大切さを知り、気が付くと自然に涙が溢れていました。
その体験は少なからず 私の感性に刺激を与えてくれたことでしょう。
その機会を与えてくれた祖父には とても感謝しています。

世界で唯一の被爆体験国の日本
その私達がやらなければならない事はまだあるかも知れないと、改めて感じた一日でした。
・・・と月並みな言葉でしか締めくくれない自分に 苛立ちを感じながら、
一年に一度でも想い出さないよりはマシだと 自分を慰めたりして。
「愛とは 行動です」 口では何とでも言える
事実、広島には高校生の時修学旅行で行ったきりだし 長崎は行ったことがない
阪神大震災の後も私は、実際その地を訪れて この眼で見てはいない。
そろそろ真面目に考えなければいけない時期かもしれないな。
戦争で亡くなった方達の魂が せめて安らかでありますように。








<★Lyric Poetry★を語る> July.23.2002



このHPを開設してから4ヶ月が過ぎようとしています。
人生のロンバケを利用して、自己満足から始まった
Lyric Poetry
最初は極限られた知人だけが遊びに来てくれればいいかな〜と思っていました。
その内あるアーティストのファン仲間が集うようになり、
今では1日4〜50人、多い時で100人前後の方が訪れてくれて、
BBSも結構賑わうようになって来ました。
それはとても嬉しいのですが、どうしても
HP管理という面で色々な問題も起きてきます。
今の所「荒らし」や「ウイルス」等の被害にはあった事は無いのですが、
それって紙一重でいつも危険と隣り合わせにいるんだと時々感じます。
ネットはたとえ個人のページでも、アクセス出来る環境であれば世界中の何処からでも見る事が出来ます。
それだけに自分が発信したモノに責任を持たなければいけないなあと思います。
日記ひとつにも、言葉をかなり慎重に選んでいますが、それによって他人を傷つける事も
あるかもしれないですし・・・色々な人が訪れる掲示板も難しいですね。
一日何千件とアクセスがある大手サイトとは管理の大変さは比べ物にならないけれど、
それでも出来る限りまめにチェックをする様にしています。
まあ、極端な(荒っぽい)事を言ってしまえば書込みを活かすも殺すも管理人次第、
それが特権というヤツなんです。


ある管理人さんは書込みを事前にチェックしてから載せるようにしてます、
これも荒しを未然に防ぐ方法ですね。
で、あるページでは注意書きに「面白くない内容のカキコは勝手に削除する事もあります」
な〜んて凄い事が書いてあった

私は極力その方の意見を尊重したいと思うので、そんな事はしませんけど。
それでも自分の判断で、こりゃマズイなあ〜と思ったものは削除させて頂きます、
それが管理する者の責任だと思ってますので。
悪戯や荒らし以外の方には、キチンと理由は説明します。
それを理解してもらえなければその方には「もう来ないでね」
っつ〜事になりますかね〜それだけの事です。


よく大手サイトの掲示板に「そういう話題はここではやめて貰いたい」とか
「皆な仲良くやろーよ、他人が読んで気分が悪くなる発言は控えようよ・・・」とか書いてくる方がいます。
とても正義感が強くて素晴しい発言ですが…ある意味それは間違っていると思います。
荒らしさんを除けば、基本的に「掲示板」というのはどんな意見を言っても自由だと私は考えます。
たとえキツイ表現を使っても自己中的な意見だとしても、
それがその人の「意見」であってそれを尊重するべきだと思います。
それに対して反論も出てくるでしょうし、同意見の人も出てくるでしょうし、
結論なんて出なくてもお互い思った事をぶつけ合う、それが健全なコミュニケーションなのです。
その中で、管理人さんが良し悪しを決めれば良い事であって、投稿者が決めることではありません。
勝手かもしれませんが、結局の所
HPなんて創った人のモノですからねぇ;


なあなあで良い事ばかり言っていれば誰も傷つかないかも知れませんが、それはとても不自然だと。
100人いれば100通りの人生があって、100通りの違った考えと感性と想いと性格があって。。。
カルト集団で無い限り人と違った意見を持つのは当たり前です。
ただ、言葉って時に恐ろしいほどの暴力になる事があります
些細な言葉が相手を深く傷つけてしまったり。
私自身ネット経験はたったの2年ですけど、その中で色々な事を学びました、
顔も素姓も知らない、言葉だけのコミュニケーションは本当に難しいと思います。
そんな経験から生まれた私のモットーは「リスペクト」です。
他人に対して常に敬意を持っていれば殆ど全ての問題は解決すると、私は信じています。
現実はそう簡単にはいかないですけどね・・・
世の中には本当に多種多様な人々がいますから。
でもだからこそ面白いとも言えます。


勢い余って作ってしまったマイ
HP・・・継続していくのは何て大変!
心身ともにハードだと最近激しく実感しております。
ああいつまで持つかなぁ〜…などと考えながら
今日も夜な夜な必死で更新をしている管理人でした。

ご意見 ご感想、苦情、批判は24時間いつでも受け付けます。
地震か火事か、突然の天変地異が起きない限りは、真摯に向き合おうと思っています。
ティナーラより愛を込めて・・・




★超私事の内容でコラムとは言えませんね・・・^_^;、まっったまにはいっか。








  <永遠の旅立ち> June.30.2002


 
 現在の医学がどんなに進んでいても、避けては通れないもの「死」。
どのように生きるかと同じくらいに、死について真剣に考えることはとても重要だ。
最近は日本でもお葬式の形式について、生前から本人が意志を残しておくという風潮が広まっている。
自分の最後の儀式を自分でプロデュースするのだ、生前葬儀なんてものさえある。
とはいえ、ここ日本ではまだまだ死について無関心な人が多いと思う。
臓器提供の意思カードを持っている人はほんの一握り、骨髄バンクの登録は他の先進国に
比べものにならない位少ないし、「生きているうちに遺書を書くなんて縁起でもない」
なんて思っている人が未だ沢山いる、死んでからでは遅いのに。

 
 オランダでは安楽死が合法化されている。「どうせ死ぬなら尊厳ある死を望む」
と患者自らその方法を選んで、その手段を医師の手に委ねる。
進んでいると言ったら語弊があるかもしれないけれど、死に対して真剣に向き合っている国、オランダ。
年間2000人の末期患者が安楽死を選択しているらしい。しかも法律で認められる前から
ずっと安楽死は行われていて、裁判で訴えられた医師が有罪になったケースは殆どないというから驚きだ。
何年か前、そのオランダでの安楽死の一部始終を写したドキュメンタリー番組を見た。
患者と家族と医師とそれを取り巻く背景、治療と安楽死に到るまでの経過、
そして最後の時を迎える「その瞬間」まで、全てをカメラがとらえている。

 
 今でもその生々しい映像は私の記憶に残っている。
ショックではあったけれど、その映像から一瞬も目が離せなかった。
私は自分の家族の死の瞬間さえ立ち会ったことがないのに、取材を許可したこの家族と患者は
何て勇気があるのだろう。彼らは互いに信頼しあい、何度も何度も納得するまで話し合いをし、
死の時を、旅立つ時をどう過ごすのか自ら決める。淡々と静かに、映像は彼らの生き様を映し出す。
彼にとって耐え難いほどの苦痛があるはずなのに、それも自分が引き受けた運命だと悟っていいるのか
時には笑を浮かべ、夫婦がこれまで生きてきた想い出を語り、時だけが穏やかに過ぎてゆく。
そしてその瞬間を待ちわびるかのように、その患者は本当に安らかな顔をして、
家族と医師に感謝の言葉を残してこの世から去った。

 
 本人の意思を尊重したとはいえ、その家族の心に残る傷は、私達傍観者には想像も出来ない。
そして医師の精神的負担も大きい、一人の人間の「生」を自らの手で終わらせるのだから。
患者の安楽死に立ち会った、一人の医師の言葉が全てを物語っている。
「慣れる事なんて決してない、繰り返し繰り返し、自問自答と空しさだけが残る。
私は人の命を救う為に医者になったのに・・・」 
「尊厳死」これって本当に正しい行為なのだろうか?生きたくても生きられない人もいる。
倫理の問題やら、人間のエゴやら、色々な想いが頭の中を駆け巡った。
この問題はこれからも未だ世界中で論議がなされる事だろう、
そう、決して簡単には結論を出してはいけない問題なのだ。
命というかけがえの無い物を大切にする為に、未来の子供達にもその重みを引き継いでいくこと、
それはこの世に生を持って生まれてきた私達の義務であると考える。

 
 最後に、自分の家族を安楽死という形で見送ったその家族の表情は一様に、とても穏やかで明るかった。
「彼と出逢えて本当に幸せだった、彼と過ごした時間は永遠に私達の心の中に生き続ける」と。
この世に絶対に間違っているなんて物はない。勇気を持って自ら選択した彼らの人生にも、敬意を表したい。








 <音のない世界・聴覚障害者のコミュニティ> May.21.2002

アメリカのドキュメンタリー番組を見て。



 世界には聴覚障害者がそれほど沢山居るとは…少し驚いた。私がただ知らなかっただけか!?
コミュニティーがあるなんて初めて聞いた。バリアフリーが一般化し障害者との壁が無くなって来た今日でも、
まだ彼らにとって閉鎖的な何か意識がある様だ。健常者に対して、どこか卑屈な態度が見えたり,
「全く問題なく堂々と生きている」といいながらも、心のどこかでコンプレックスを抱えているのだろうか
先進国のアメリカでさえそんな状況なのだから、ここ日本では無知に等しい。

 

 この番組のメインテーマは「内耳埋め込み機」をめぐって。
手術すれば聞こえる様になるらしいが
(医療の進歩はスゴイ!)それを小さい子供にするかどうかの問題。
本人が幼児の内に手術をすればほぼ健常者と同じように過ごす事が出来る、が本人が自分で決断出来る年、
15歳を待ってからだと遅い。それを親が独断で決めるべきか否かが論点になっている。
「子供が小さいうちに勝手に手術をするのは親のエゴだ」という意見もあり
「子供の為に最良の道を与えてあげたい、出来るなら両方の世界を体験させてあげたい」という人もあり。
「神から授かった物に対する冒とく」「障害というモノから逃げ」「コミュニティー廃絶の恐れ」
とまで言う人も居る。手話を覚えるか否かという問題も絡んで、これは簡単には答えは出ない、
とてもデリケートな問題である。

 

 しかしアメリカでは障害者も強い!手話でお互い争論をしている所はもの凄い迫力だ。
彼らは自分に納得できない物に対して徹底的に論議する。そして一歩も退かない。
賛成派、反対派、どちらの言い分も一理あって、理解できる。もし私がその立場だったらどうするだろう?
障害者を持った健常者の親、自分自身が障害者で子供もそうである親、またはその反対の親、
色々な立場があってそれぞれ言い分がある。自分が聴覚障害である場合、子供には手術をせず
同じ世界を進んで欲しいと思うようだ。子供自信の考えを尊重してあげるのが本当は一番良いんだろうけど、
その時期を待てない所が微妙に難しい。


私に言える事は唯一つ、「音がなくても幸せだ」という人の考えを否定はしないけれど、、、

出来る事なら、現在の医療が進歩して可能ならば「知って欲しい」。
音の世界は、特に「音楽」は素晴らしいものだから。


★ある人の言葉が印象的だった。「普通ってなんなの?」










「イスラエルの自爆テロの現実」 April..2002


イスラエルの人種問題、宗教問題は
私達が到底理解できない程根深く、奥が深い。
ユダヤ人を憎むイスラエル人居住区の人々に取材をした映像を見て
涙が止まらなかった。

彼らの言葉には絶望しか感じられない、
ただただ、ヒドク悲しかった。

「死ぬのは怖くない、将来自分も同じ事をしたい」
「自爆テロをした息子を誇りに思っている、
それは神が決めた事だ、息子は正しい事をした。」
「これから生まれてくる子供にも同じ事をして欲しい」
自爆テロを実行した者は「英雄」なのだ。
街の至る所に彼らの写真が掲げられている。

宗教ってなんなんだろう。正義って一体なんなんだろう。

死を恐れない子供たち、罪の無い人を無差別に殺しても
それが正義で正しい事なのだと無垢な目で語るその様を見て、私はショックを受けた。
日々をのほほんと暮らしている、私達日本人にはまるで第3世界の光景。
「洗脳されてる?」それは多分事実なのだろうけど、
単純にそれだけで処理できるのだろうか?


この地球から「憎しみ」が消える日は果たして来るんだろうか。

最後に見た母親の涙。その中に真実が隠されているとしたら。

それが人間としての純粋な感情、
子供の死を悼む悲しみの涙であったと・・・私は信じたい








 ポジティブな嫉妬= jealousy

 ネガティブな嫉妬= envy

April..2002

 

ある日ラジオで言っていた。

「あなたは他人の幸せを心から祝福できますか?」

これを聞いていたリスナーの多くのが
自分の心に問いかけた事だろう、私もかなりドキッとした。
「嫉み」という言葉は確かにいやらしい言葉である。
でも大抵人は自分より幸福な人、ラッキーな人に対して嫉妬心を感じる。
それはいけないことだと思いながら、その感情は止められない・・・
なぜだろう?人間が出来てないから?修行が足りないから??
自分が幸せでないと、他人の幸せさえ受け入れる事が出来ないのかな
宝くじが当たった、なんて話を聞くと「ちきしょ〜!」
なんて思ってしまう、やな奴だ人間て。







<もろく儚い人間たち>
March 29, 2002

生活を共にしている動物の死に出あうたび想う。
もしかしたら人間は、この地球上で一番「弱い生き物」なのかな、と。
私達は(多分)唯一知恵と感情を持ち合わせる高等動物で、素晴らしい文明社会を築いた。
でも実際は自分一人で生きる術さえ、ほとんどの人間は知らない。
突然無人島に一人離されて、私達は果たして生き延びられるだろうか?

あまりにも無防備な体でこの世に生まれ、自力で生き抜く事などとても出来ない。
何年も何年も母親や家族の下でぬくぬくと大切に育てられる。
野性に生きる動物は身を守る為、生まれて直ぐに立ち上がろうとする。
本能がそうさせるのか、人間に飼いならされた犬猫でさえ、
自分の死を察知すると私たちの前から姿を消し、たった一人で死んでいく事を選ぶ。
それを思うと人間は何て弱いんだろう
孤独な死を恐れ、最後の瞬間には誰かに見取られたいと願う。

本来の人間の動物としての「野性」は完全に消えているような気がする。


そして不思議なのは、弱い生き物のくせに、自分たちが一番だと思っていること。
猿から進化して、脳だけは異常に発達して歪んだ欲望が生まれてしまった。
物欲を除けば、3大欲求は他の哺乳類と同じはずなのに・・・なぜ?
時には万物の頂点にいるかのように勘違いする、
そんなお馬鹿な奴らは自然をコントロールしようとして、結局は自然に打ちのめされる運命。
人間だけなら自滅で済むけれど、他の動植物までも破壊してしまうのが恐ろしい。

環境汚染等、身近な所で警告が出ているのにも関わらず、まだなお懲りずに過ちを繰り返す人がいる。
何百回も地球を破滅する事が出来る核兵器を作って、一体何を守ろうというのか。

それでも私は人間で、人としてこの地球で生きている。
弱いからこそ何かを求めて支えあい、言葉を交し、感情を抱いて愛し合う。そんな人間が私は好きだ。

私達は、喜びも、悲しみも、苦しみも、感動も、愛情もある素晴らしい世界に生きている。
人間はそんなに「愚か」な生き物なのか?いや、決してそうではないと信じている。

確かな根拠などないから「信じていたい」の方が正しいかな。
こんなに醜い世の中でも、せめて微かな希望くらいは持ち続けていたい。








メディアリテラシー>Media Literacy March 25, 2002
 
 Literacy:これを辞書で調べると「読み書き能力」。
世の中に氾濫する情報、新聞テレビ等メディアからの情報を客観的に冷静に受け取り、
正しく判断する能力。「ブロードバンド」なんていう数年前には聞いた事もない言葉が
街中にあふれ、インターネットが普及している今だからこそ、この能力の必要性を感じる。
  私自身、生活の一部になりつつあるパソコン。ほぼ毎日メールやネットサーフィンをやり,
HP
まで開設してしまった者が言うのもなんだけど、(^_^;)(いや知っているからこそ?)
ネットの世界なんて最も不確かで怪しいものだと思う。特に感じるのは芸能情報などの人の噂。
真実を知らない人間がデマや噂を流して、それを見た人は意とも簡単に信用してしまう。
(活字の魔力か!?)
噂はいつの間にか勝手に一人歩きをして、そのスピードは想像を絶する速さで世界中を駆け巡る。
一人の人間を地獄の底へ突き落とすなんて容易い事かも知れない・・・なんて恐ろしいモノだと思った。
 確かにネットは上手に使えばこれ程便利な道具はない、
でもあまりの情報の多さに、私自身何を信じてどれを選択した良いのか解からなくなる時がある。
大人だってそれを判断するのが難しいのに、疑うことを知らない純粋な子供は
どれが正しくてどれが嘘かなんてとても理解できないだろう。

 アメリカの学校では既に一般的になっている「メディアリテラシー」の授業、
日本ではどこまで進んでいるのだろうか。とても優秀で頭の固いお役人様へ・・・(笑)、
輝かしい(?)日本の将来を担う子供たちの為に、一日でも早く良い教育が浸透する事を願います。

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