『万葉集』の琴


−日本琴學思想史−
伏見 无家



 『万葉集』(七五九)には、「琴樽翫ぶ可し」「琴樽性を得る」という琴字が見えるが、そのほとんどは<和琴>あるいは<倭琴>を歌ったものと思われる。(<和琴>とは現在の筝の原形である。長さもほぼ筝と同じく、絃の数は六本。琴柱に自然のままの楓の枝を用いるのが独特である。雅楽演奏に現在でも用いられる。<倭琴>とは埴輪琴ともいい、長さは抱きかかえられるほどの短いものである。板状で琴柱があり、絃の数は五本、作りは簡単質素である。日本在来琴と言われる。)その中で、大伴旅人(六六五〜七三一)が天平元年(七二九)に梧桐の日本琴を一面、藤原房前へ贈った時に添えた書状と二首の和歌「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對島結石山孫枝」は、日本の琴學を考える上で注目すべきものである。
「此の琴、夢に娘子と化して曰はく、余根を遙島の崇巒に託(よ)せ、幹を九陽の休光に晞(さら)す。長く煙霞を帯び、山川の阿(くま)に逍遥す。遠く風波を望み、雁木の間に出入す。唯恐る、百年の後空しく溝壑に朽ちなむことを。偶(たまさかに)良匠に遭ひ、散じて小琴となる。質の麁(あら)く音の少きを顧みず、恒に君子の左琴たらむことを希む。即ち歌ひて曰はく。」(この琴が娘子になって言うには、自分は遥かな島の高き嶺に根をおろし、幹を美しい日の光にさらしていました。長く霞に包まれ、山川の間に遊び、遠く風波を望み、お役に立てる用材になるかなるまいかと案じておりました。唯心配な事は、樹齢を終えていたづらに谷底に朽ち果てることでありましたが、図らずも良き工匠の手にかかり、削られて小さい琴となりました。音色も粗く、音量も小さいものでありますが、どうか君子の側近くに愛琴となりたいといつも願っております、と言って次のように歌いました。)
 という前文があって、
「いかにあらむ 日の時かも 声知らむ 人の膝の上 我が枕かむ」(どういう日、どういう時になったならば、私の声を聞き分けて下さる人の膝の上を枕にすることであろうか。)
 という歌に答えて、
「言問はむ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし」(ものいわぬ木であるにしても、立派な方の愛用の琴となるであろう。)とある。
 続いて、
「琴の娘子に答えて曰はく 敬みて徳音を奉る。幸甚々々。片時にして覚めたり、即ち夢の言に感(かま)けて、慨然として黙止をるを得ず。故(かれ)公使に附けて、聊以て進御す。謹状不具」(謹んでけっこうなお言葉を承りました。ありがたい事でございます。やがて目が覚めました。そこで夢の中の娘子の言葉に感動して、そのままじっとしていることができません。それで公の使いに託してこの琴をおめにかけます。謹んで申し上げます。)と書状は終わる。
 この歌から弾琴した様子さえ窺えるが、はたしてここで歌われた琴が何の琴であったか検討してみたい。まず「梧桐日本琴一面 對島結石山孫枝」という題についてあであるが、梧桐とはアオギリ(アオギリ科)のことである。すなわち梧桐製の琴を言う。しかし、アオギリは琴材としてはふさわしくなく、和琴にはキリ(ゴマノハグサ科)を用いるのが常識であるから、おそらく「梧桐」とはこのキリを言ったのであろう、というのが通説になっている。「梧桐日本琴一面」の「梧桐」については、成城大学の平山城児氏の論文『梧桐日本琴をめぐって』に詳しい。氏は「アオギリ製のコトは常識外」としながらも、結論的には梧桐はアオギリではないかと言っている。コトはあくまで<和琴>あるいは<倭琴>を指して氏は言っているのだが、七絃琴においても「アオギリ」が用いられた例を寡聞にして知らない。七絃琴は裏面に梓を用いるが、本来表面には「アオギリ」が用いられていたのかもしれない。この問題に関してあらゆるところに疑問を呈してみたのだが、納得ゆく答えは得られなかった。倭名類聚鈔(十)にはこういう記述がある。 「陶隱居曰く、桐に四種あり、青桐、梧桐、崗桐、椅桐、皆岐利なり」「梧桐は色白くして子有る者、椅桐は白桐なり。三月花は紫、また琴瑟に作すに堪ふる者是なり」と。
 また時代は下がるが、中国宋代趙希鶴が著した『洞天清祿集』中の「古琴辨」にはこうある。
「梧桐あり、子は簸箕の如し。花桐あり、春來たりて花開く玉簪の如くにして微紅、折桐花と號づく。櫻桐(罌子桐、油桐、和名アブラギリ)あり、其の實を以て油を搾すに堪ふ。刺桐あり、其の木偏く身に刺を皆生ずること釘の如し。梁柱に作すに堪ふ。四種の中まさに梧桐を(琴に)用ふべし。詩(『詩経』)に曰く、椅桐梓漆、爰に伐って琴瑟とせん。注に曰く、椅木は梓の實にして桐の皮なり。即ち今の花桐なり。花桐の實は正に梓の實に類す。即ち今の梧桐なり。二者は皆以て琴を爲す可しと雖も、而して梧桐の理は疏にして堅し。花桐は柔らかくして堅からず。即ち梧桐は花桐に於いて勝るは明らかなり。今舊材を取るに但知る、軽は桐に爲ると。而して知らず、堅くして軽きは梧桐なることを。怪しむ毋れ、天下滿ちて良琴無きことを。俚諺に曰く、新は桐と爲し舊は銅と爲すと。蓋し指して言ふ梧桐なり、と」
 大伴旅人が何をよりどころとして琴材に梧桐を選んだのか知らない。けい康の『琴賦』には「惟れ椅梧の生ずる所、峻獄の崇岡に託す」とあり、椅はイイギリ、梧はアオギリのことを言い、どちらとも桐と解されていたようである。現在、七絃琴にしろ和琴にしろ琴材としてアオギリを用いるかは不明だが、いずれにせよ「梧桐」とは七絃琴の材として伝統的に最もふさわしいものであったようだ。
 頭注として「對島結石山孫枝」とあるが、これは長崎県上県郡上対馬町河内の西にある山である。おそらくこの地に産した「梧桐」を用いて、この琴を制したのであろう。(前掲平山城児『梧桐日本琴をめぐって』参照)  さて、ここで弾ぜられたであろう琴は「日本琴」という題から、倭琴であるとされている。しかし歌われている琴自体のイメージはあきらかに七絃琴である。前文の典拠となったものは、けい康の『琴賦』であることが、古澤未知男氏『淡等謹状と琴賦』(国語と国文学三六巻五号)および、増尾伸一郎氏『<君が手馴れの琴>考−長屋王の変前後の文人貴族とけい康−』(史潮新二九号)の論文等によってあきらかにされている。また「左琴」とは、劉向『列女伝』巻二、賢明伝、楚於陵妻条の「君子は琴を左にし書を右にするも、楽しみまたその中に在り」とある。南面する君子の左には琴、右には書を常に持すことは、この上無き楽しみとするところである。「聲知らむ」とは「知音」の謂であり、伯牙斷琴の故事を典拠とする。春秋時代、琴の名手伯牙の弾奏を唯一理解する友、音を知る鍾子期が死んだため、伯牙は二度と琴を弾かなかったという。『琴賦』に「伯牙手を揮ひ、鍾子期聲を聽く」「音を識る者希なり、孰れか能く雅琴を盡すは、唯至人のみ」とある。
   「偶良匠に遭ひ、散じて小琴となる。」の「散」という字だが、これは「斲」とあったのが同字の「斮」から「散」に誤写されたのではないかとも言われている。「散」は「削る」または「割(さ)く」と読む。この字を検討することは、「梧桐日本琴」がどのような形態であったあったかを特定する上で重要である。「散」を「割く」と読むなら、木を裂いて形を整えるだけの板状の倭琴を制したことになろうし、「散」を「削る」と読むなら、それは板を削ってくりぬき、船形の琴を制することになると想像できる。船形で小琴の倭琴、もしくは小琴の和琴というのは無い。「斲琴」とは七絃琴を制することを意味する。梧桐の木をくりぬき削り船形にし、梓の木を張り合わせて制するのである。余程の技術を有す匠でないと簡単には作れない。それゆえに、「偶良匠に遭ひ」と言うのである。倭琴を制するにそれほどの良匠が必要だとは思われない。
 これらの諸条件を整理してみる。この書状と歌の典拠となったのはけい康の『琴賦』であること。「左琴」ということ。「聲知らむ」ということ。良匠を得なければ琴はならないこと。「散」は「斲」の誤字であって「削る」と読むこと。膝の上にのる小琴であること。音量が小さいこと。これらのことを総合してみれば、「梧桐日本琴」は自ずから七絃琴であると断定せざるを得ない。
 もしもこの「梧桐日本琴」が倭琴であるとするなら、中国の七絃琴を手に入れること、もしくは弾きこなすことが困難であったがため、代用として日本在来の倭琴を制し彈じたということになる。中国七絃琴になぞられ日本産梧桐で倭琴を制したのである。日本よりもはるかに文化的優位にあった中国の琴に、憧憬の念を抱けど叶わぬものとして、倭琴にそれをなぞられたというわけである。この日本琴は「膝の上」という記述から、到底大型の六絃和琴とは考えられず、したがって埴輪琴型の倭琴とならざるをえない。
 大伴旅人に中国七絃琴と在来日本倭琴との混淆があったのではないかと疑念も起きるが、七絃琴と倭琴の形態上の違いは大きく、その区別がつかなかったはずはない。それが倭琴ただ一つしか日本に存在しなかったなら、あえて「日本琴」という必要もないからである。他方に唐琴すなわち中国七絃琴の存在を意識していたからこそ、「日本」という名を冠したのである。それにしても倭琴をもってして七絃琴の代用とするというのは、在来日本琴を貶めることになりはしまいか。倭琴は独自に日本琴として存在していたのであって、倭琴に中国の琴學思想の強い影響があったとみるというのも、かえって七絃琴と在来倭琴の混淆を招くことになろう。それよりも、やはり七絃琴そのものを歌ったと考えた方が自然ではないだろうか。なぜ執拗に七絃琴を典拠として持ち来らねばならなかったのか、その理由も素直に納得できる。さらに言うなら、この琴は中国で制せられ日本に伝来された唐琴ではなく、日本の地で日本人により日本の梧桐で制せられた琴である、と。そこに、日本琴としての区別をつけたかったのである。博雅の士の是正を俟つ。



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