私の長年の夢でもあり憧れでもあった西湖孤山を訪れることができた。
第3回中日琴學研討会のスケジュールに靈隱寺観光があったが、それを抜け出し、私は強引にH氏を連れ出した。説得するもない、せっかく西湖まで来たのに孤山へ行かないわけにはいかない、と。
実は一昨年、中日琴學研討会が同じ場所で行われた。その時は、岳飛廟の観光に連れられたのである。孤山は目と鼻の先、あと一歩というところで私は遠くから孤山をながめるしかなかった。それは日本から眺めた距離と同じものだった。ツアーのようにバスでの移動だったために単独行動はとれない。私は歯がゆさをこらえるしかなかった。それが二年越しの今日、ようやく実現したのだ。私の気持ちは昂揚していた。今回の中国行の目的のひとつにこれがあった。日本の文人たち誰もが憧れの念を抱いていた西湖。西湖は一編の詩であり一幅の繪である。白居易も蘇軾もこの地を愛した。中国江南の最も美しき場所である。
H氏は「当然琴を持って行くべきだね」と言ったが、天候が思わしくないのでそれは諦めた。
シンポジウムの会場にあてられていた浙江芸術職業学院から、K氏の運転する車に乗り込み他の代表者から別れ出発した。K氏は日本語が話せない。私もH氏も中国語は話せない。地図を見せながら目的地を指定した。西湖孤山。K氏は、嗚呼成程ね、というようなにこやか顔をした。西湖畔の道を進む。道沿いに植えられた木々は針葉樹の植林で西湖畔の本来の風景を損なってはいるが、高原の道のようにどこか軽井沢の別荘地を走っている気がした。
信号が変わっても前の車が走り出さないでいる。クラクションを鳴らさずに様子を見ているとドライバーが出てきて、自分の車を押し出すではないか。その車を押す姿のなんと無造作で自然なことか。ドライバーにとっていつものエンストなのだろう。先日もそんな情景を見た。そのときは荷物を積んだトラックだった。交差点の真ん中で立ち往生していた。ドライバーは何かを喚きながら飛びだしてきて必死の形相だった。すると、横断歩道を渡っている数人の男性を捕まえ、頼み込むでもない怒ったような調子で押してくれと無理矢理連れてきたのだ。それでも皆ニコニコしながらトラックを押すのを手伝っていた。日本では決して見ることのできない中国の交通事情風景である。
我々の乗った車は、懐かしい岳飛廟のあたりまで来た。K氏はそのまま我々への親切心で孤山の中まで車で行こうとしている。私とH氏はそれを止めようと「STOP!
STOP!」と叫んだ。車で行くのは味気ない。湖畔をゆっくり歩きながら孤山まで辿り着こうというのが私とH氏の意図だった。K氏はなかなか車を止めない。きっと私たちが遠慮してるのだろうと思っているのだろう。ようやく車を止めてもらったがK氏は怪訝そうな顔をしていた。車で行った方が楽だろうにと目で訴えていた。
孤山の入口まで来てしまった。とりあえず腹ごしらえをして気分新たに爽快な気持ちで孤山にのぞもうと、私たちは元来た道を戻っていった。しばらく歩いて行き、ふと立ち止まり振り返ると、そこに西湖があった。私は胸から何か込み上げて来るものを感じた。「これが、西湖かぁ…」実際の時間は2年足らずの間の出会いであったが、私の心の奥の方では、江戸時代からの300年くらい隔たった時間を感じていた。盆景のような上野不忍ノ池に比すべくもない。そこには本物の西湖があった。遠く彼方は靄がかかり、近くの水面には枯れた蓮の葉が林立している。私はこの中国行のために青木正兒の『江南春』を一冊携えていた。青木先生は西湖の基調は柳にあるといったが、今の季節は柳は目立たない。柳は春浅いころ他の木々に先駆けて緑の芽をふき、あるいは夏場の小陰をつくるものとして西湖の風景には欠かせないものであろう。すでに柳は力なく色あせてしまい、枯れてはいるが強烈な自己主張をしている蓮の葉の方が印象的である。この枯れた蓮というのは中国の芸術家たちが好む題材の一つである。少し緑が残っていればなおいい。この美意識は日本の「わび」とも共通するものがあるようだ。真夏の最盛期の瑞々しい蓮よりも秋になり枯れゆく姿に美を認めるのは繊細なる美意識である。滅びゆくものの美。琴の断紋を美としてみる中国人の感覚もまたこの枯れた蓮にも同じように感じているのだろう。東アジア共通の美意識と言える。
さて昼食はどこで摂ろうかと思案する。H氏は無難なところでケンタッキーフライドチキンなんかがいいんじゃないかと言う。私は言葉につまった。西湖まで来てケンタッキーとは…でも日本の味とは違って中華の味なのだろうかと考えた。
「やっぱり西湖まで来てフライドチキンはないかな」とH氏。私は安心した。
「そうですよ。どこか適当な店へ入りましょうよ」
とは言うものの、二人とも中国語は全くだめで店に入るのも一抹の不安があった。地元の人々のための店は避けて、観光地然とした店をさがした。どうせなら西湖の風景が見えるところがいい。楼閣のような飯店を見つけそこに決めた。古風な造りの店である。窓際の席につき外をながめる。実にいい気分だ。旅行気分を満喫した一瞬だった。
メニューを見て、読むことはできるが発音できないので指をさして注文する。出てきた料理は水餃子、炒飯、野菜と茸の炒め物、スープと春巻き、デザートは饅頭。定番のものばかりだがどれも量は三人分くらいあって美味しさこの上ない。日本の観光地の食べ物は美味しくないものばかりだが、ここ杭州は違う。どんなものでも何を食べても美味しかった。
身も心も満たされて店を出る。目的地は孤山。湖畔をゆっくりとそぞろ歩く。西湖はまさに瀟湘水雲の景色であった。時折雨がぱらつくが風もなく穏やかな空気があたりを支配する。H氏は靄にかすむ西湖を写真におさめようとデジタルカメラを取りだした。画面を見てアングルを決めていると、いつのまにか黒山の人だかり。ずらっと人が並んでいっしょになって画面を覗いている。デジタルカメラはよほど珍しいのだろう。ほとんどが観光客らしいが皆中国人である。意外なことに外国人観光客は一人も見当たらなかった。季節がずれているせいかもしれない。私はふと、『儒林外史』の馬二先生を思いだした。ふところの淋しい貧乏学者馬二先生は西湖の畔でお茶ばかり飲んで遊覧するのである。『儒林外史』で私が最も好きな場面である。貧乏ではあっても安いお茶とともに名勝を堪能する馬二先生に私は敬意を表す。おそらく馬二先生もこの湖畔の道を歩いただろう。
湖畔から孤山に通ずる堤に出る。目の前に緑深い孤山が見える。孤山の麓に道がずっと伸びている。右へ行こうか左に行こうか迷う。観光地図を取り出し放鶴亭の位置を確かめる。左である。先ずはどうしても孤山の主人林和靖の墓所を訪ねなければならない。
林和靖。北宋の人(967〜1028)。名は林逋。字は君復。仁宗より和靖先生という諡を賜る。通称は林和靖。抗州銭塘(浙江省抗州市)の生れ。幼くして父を失い、苦学
した。処士として一生仕官せず、江淮(江蘇・安徽地方)を放浪し、後に抗州へ帰り、西湖のほとりの弧山に廬を結んで隠棲した。二十年間城市に下りることがなかった。生涯娶らず、梅花を妻とし鶴を子として愛し、「梅妻鶴子」と称せられた。詩は警句奇句に富み、清廉にして奥深い。ただ、作詩すると直ちに捨ててしまうので、何故後世にその詩を残さないのかと尋ねると、「この世でも名を得るつもりが無いのに、まして後の世に名を残すことも無い」と答えたという。それでもその詩を集め記録した好事者がいたおかげで、三百首余りが残っている。書や画にも巧みであった。『林和靖先生詩集』四巻がある。
放鶴亭は、主人の林和靖が舟で西湖に遊んでいる時、来客を知らせるために童子が鶴を放った場所である。元代に陳子安という人が記念して建てたものだが、現在あるのは一九一五年の再建である。亭内に刻まれた「舞鶴賦」の碑は南北朝の鮑明遠の作で、碑文は清の康煕帝が薫其昌の書体を真似て書いたものである。
林和靖は孤山から鶴が飛び立つのを見て、ゆっくりと舟を引き返したのだろう。その逸話だけでも林和靖がどんな生活をしていたか忍ばれる。
閑居、隠棲、隠遁、悠々自適、人生の最終目的、究極の到達点がここにある。最高の贅沢、最上の幸福な境地と言えるだろう。文人を自認する者なら誰でもこの境地に憧憬の念を抱く。江戸時代、林和靖は文人という芸術家たちの最も理想とする人物像であった。林和靖の芸術、生き様、生活までもが範とすべきものであり、それを人生の上で実現しようとしていたのだ。決して社会的現実から疎外され排除された孤独な存在ではなく、俗社会を超越し自然に回帰し道と一体化することを希求した人物として。林和靖の潔癖さ清廉さは日本人の最も好むところのものであった。
私も例にもれず林和靖を慕う一人である。林和靖の墓所はとても質素なものであった。「林和靖處士之墓」と墓石に彫られてある。
「處士というのがいいね」とH氏は言う。士官をしない民間人という意味である。名誉栄達を求めぬ林和靖の姿がこの言葉にこめられている。
上を見上げると墓石の真上に錆びた鉄パイプに破れたビニール屋根が見えた。興をそがれるものであったが現代中国の実際が垣間見える。しかしこの場所をきちんと整備してよそよそしく体裁を繕うよりありのままで放置されてあってもいいと思う。時代が違うのだ。人の営みがあるのなら風景は時代と共に常に変化する。観光客の嘆きというものは身勝手なものだ。映画のワンシーンのように通りすがり、行きずりに見た風景を額縁におさめ鑑賞する。その場限りの満足にしかすぎない。我々が去った後でもそこに住む人々は現実生活を営み続けるのである。観光気分でその地に生活しているわけではない。だから古い建造物の破壊、街並みの開発を反対することは他者のエゴでしかないだろう。それでも西湖の水は澄み、孤山は鬱蒼とした木々に埋もれている。私はそこに宋代と同じ時間を見ることができた。それだけで充分だ。
しばらく放鶴亭の椅子に腰掛け、主人を待つ童子になったつもりになって湖水をながめ、林和靖の住居跡を探索にでかける。放鶴亭は孤山北面の湖畔にある。林和靖が廬を結んだところは北麓とあるが、もう少し上の方だろう。H氏と私は山道のような石段を登って行った。途中でジャージを着た若い集団と擦れ違う。中国語をしゃべってなければ日本の中学生にそっくりである。木々は高くそびえ、梢を小鳥が飛び交う。日本では耳にしないような囀りが聞こえる。多くの鳥たちが棲んでいるようだ。生態系がとても豊かなのだろう。しばらく行くと明清代風の白壁の建物が見えてきた。茶館を営んでいるようだ。このあたりにきっと林和靖の廬があったのではないかと思わせる。林和靖の廬へ招かれるようにその茶館に入っていく。入り口のところで女主人らしいのが熱心に編み物をしていた。我々が入ってきても無視している。このあたりの態度の悪さが中国らしい。気を遣わなくてもいいからそれはそれでいい。奥の窓際の卓が空いているのでそこに席を占めようと思ったが、トイレの前である。ここはよそうととってかえし外の卓で茶をもらおうと決めた。先ほど下から見上げた錆びた鉄パイプに破れたビニール屋根のテラスである。近くの卓では野次馬も入れて五〜六人の人々が麻雀をしている。派手で大きな声が飛び交う。中国語はわからないが、品のない隠語が音として聞こえる。みんなで一人の女性を責めているようだ。なにか狡をしたのだろうか。彼女は顔を引きつらせて黙っている。私は見たくなかった。彼女の表情に清朝末期の退廃的な風景が見えた。
給士がコップに龍井茶を入れ、魔法瓶と共に持ってきた。杭州ではどこへ行ってもこれである。私はすっかりこの飲み方に慣れてしまった。風流にはほど遠い品位も素っ気もない飲み方ではあるが、実に手軽端的である。私はこれを見たそのままコップ茶と呼んでいる。こんな飲み方をするくらいなら蓋碗を使って飲んだほうがいいと、茶にうるさい御仁は言うが、蓋も茶托も煩わしい。よく言えば、コップ茶は余分なものをそぎ落した次元の違う「わび茶」である。現代中国杭州の街に最も相応しい飲み方だと思う。
H氏とともに、コップ茶の湯の上に浮いた茶葉を息で向こうに寄せながら喫す。H氏はシガレットを私はシガリロに火を付け一服。西湖と遠くひろがる山々を眺める。客人を迎えた林和靖になったつもりになって。
「唐宋代の文人は出世栄達して名を残すよりも、一巻の詩集を遺すことに専心した。」とH氏は言う。唐突な物言いではあったが、私の心に突き刺さるものがあった。私の今の心境を言い当てられたように思った。私は黙り込む。一編の詩に人生最大の意味を見出すこと。おそらくこれしかないのだろう。たとえ社会に対し偉大な功績を残したとしてもそれは公共的に意味のあることで、私という個人が歴史の中にいたという証明にはならない。それは一編の詩の中でしかない。しかし今の私は社会的にも個人的にも何をやっているというのだろう。ただ古人の高風を慕うことしかできない。私はシガリロの煙とともに深いため息をつく。
ふと下を見下ろすと、白装束の一団がやってくる。よく見ると、観音様のようなウエディングドレスの花嫁と白いタキシードの花婿の集団である。カメラマンも後からぞろぞろついてくる。集団結婚式かと思ったらそうでもない。皆それぞれの場所で専属カメラマンに写真を撮ってもらっている。カメラの前で二人ともニッコリ笑い、そのポーズは…ちょっと表現するには憚れる、見ているだけでも恥ずかしくなるポーズである。大らかというかあっけらかんとした陰陽合一の道教的な二人である。しかしここは生涯妻を娶らなかったあの林和靖がいた孤山である。それも墓の真ん前で。結婚写真の背景になるわけがないではないか。林和靖もきっと苦笑いをしてるに違いない。
H氏と私はその茶店をあとにして孤山の向こう側へ下りることにした。心の中で林和靖に別れの挨拶をして。
空は薄曇り。時折小雨が降る。しばらく行くと明清風の建物の向こうに西湖が見えてきた。太湖石のある小さな池の脇を通る。するとどこからともなく二胡と甲高い京劇風の歌が聞こえてきた。私は紅楼夢の幻影を見てしまった。上の方の亭で誰かが練習しているようだ。彼らの服装は皆厨房の服である。休憩時間なのだろうか。とても気分よく歌い演奏している。それが伝わってくる。決して彼らはプロなのではないだろう。庶民の間にも中国文化の豊かさが確かに存在していた。
もう一つ、この孤山に来て私が目指すべき場所があった。それは西冷印社である。清朝末の文雅の殿堂である。中国という悠久で巨大な文化が方寸の石に凝縮された場所である。ここには中国文化の最終到達点があると言ってよい。一言を以てせば「古拙」ということである。中国文化の根幹をなすものは、文字であり書(書道)であり詩である。それら総合芸術として方寸に封じ込めたのが、印ということが言える。古を尊び情緒的な拙を以て表現手段としている。古拙の美は美醜を越えた絶対美意識である。
西冷印社の入り口は丸く、仙界への入り口を思わせる。中に入った途端清澄で張り詰めた空気が支配しているのが感じられた。庭の造り、建物の造り、どこを見ても風雅この上なく、洗練された美意識が露見している。さらに奥へと歩を進める。曲がりくねった狭い道、狭い階段。こじんまりとした竹林。まるで印の中を逍遥しているような思いにさせる。これは日本の茶道の露地にそっくりではないか。この大きさは中国的といわれるスケールではない、日本的スケールである。東京の小石川公園や六義園を歩いているような錯覚をおぼえる。小ささは凝縮されたゆえの形であり、その質感には無辺の広がりが内包されている。日本庭園文化の影響を受けたというのではなく、中国庭園文化の独自の発展の行き着く先にこの形があったのではないか。実に「わび」ている。ここでもまた私は日本の美意識との共通点を見てしまった。つくづく西湖は日本の望郷の地だと思う。海を越えたはるか彼方に美を照射する地があった。
西冷印社は中国最後の芸術家たちに会える場所でもある。丁敬、完白山人、冬心先生、陳鴻壽、趙之謙、数え上げればきりがないが、ここ西冷印社に集まる彼らは中国の美の大成者と言ってよいだろう。
どこからか日本語が聞こえた。中国に来て知人同士以外めったに日本語は聞けなかった。H氏はその声の主に尋ねた。
「売店はどこですか?」
「そこですよ」
「ああ、そうですか」
そのまま、通り過ぎてしまうような会話であったが、ふとお互いに立ち止まった。ただ者ではないなと察知してしばらくの沈黙があった。
「どちらからです?」
「秋田からです。学会に出席のため」
「私たちは東京です。古琴の学会です」
「ほう、古琴ですか」
すぐに名刺交換をはじめる。
A大学、I教授。肩書きが驚くべきものであった。中國出土資料學會、日本道教學會、全國漢文教育學會、中國詩經學會、中國屈原學會。すべて琴學の何らかに関するものばかりではないか。
「琴はご存知ですか?」
「いえ、あまり知りません」
「ちょうど詩經の「關雎」についてさっき発表したばかりです」
私もすかさず、
「琴曲に「離騷」という曲がありますが、屈原の曲と言われています」と言った。
「ほう、それは是非聴いてみたい」I教授は興味津々であった。
「いずれ東京で何か会があったとき連絡をとらせてください。」とH氏。
I教授は私の名刺を見て言った。そこには「琴洗塵喧」の篆刻が押してある。
「この印は?」
「私が刻しました」
I教授は笑っていた。当然だろうと思う。この西冷印社で私が刻した印を披露するなんて。I教授の連れは西冷印社の社員であった。私の厚顔は大したものだ。
しかしさすがに西冷印社である。出会うべき人物が他の場所とは違う。この思いがけない出会にH氏と私は喜んだ。私たちは日本での再会を約し別れた。その後教授に教えてもらった売店で西冷印社来訪記念にと筆と印譜と便箋を買った。
西冷印社を出て次の目的地浙江博物館を我々は目指した。しかし時既に遅し。博物館は閉館していた。ここへはH氏が特に行きたがっていたのでとても残念だった。時計は四時を回っていた。
薄暮の中に西湖が浮かび上がる。「老子かすみ牛かすみものみなすべてかすみけり」の句を思いだす。西湖は私を陶然とさせる。穏やかで静かで中和の気に満ちている西湖。私はこの時間が惜しくてたまらなかった。
「とりあえずお茶にしましょうか」
馬二先生よろしく私たちはお茶にすることにした。古風なつくりの茶館があった。庭に卓が出ていたので、その席に着こうとするとウエイトレスがそこに座っては困るといった顔をしていた。何故だかわからない。もう閉店なのだろうか。彼女は店に入ってもうひとりのウエイトレスを呼んできた。しかし彼女も日本語がわからない。英語も。仕方なく導かれるまま店の中に入った。窓際の卓に落ち着くとウエイトレスは一生懸命店の奥を指さした。見ると、茶のつまみになる木の実や果物、菓子がたくさん並んでいる。私は合点した。外でお茶をするとそれらのつまみを取りに行くのが大変だということらしい。その心遣いが微笑ましく嬉しいものだった。
それにしても店の中はたいへんな騒ぎである。客は5〜6人のグループしかいなかったのだが、声が実に大きい。皆怒鳴りあって喋っているのだ。喧嘩ではない。笑い声がけたたましい。中国人は一様に皆声が大きい。腹の底から声を出す。元気がいいのだ。一人ひとりが強烈な自己主張をしている。その声に圧倒されながら、私は胡麻の飴棒を齧りながら、コップの龍井茶をすする。H氏も無心に胡桃を食べていた。
黄昏がせまってくる。もともとこの茶館は節電のせいで薄暗かったのだがますます暗くなる。いつの間にかにぎやかな客もいなくなった。ウエイトレスも奥に引っ込んで、店の中はH氏と私だけである。茶をすする音、胡桃を割る音、飴棒を齧る音だけが茶館に響く。
「そろそろ行きましょうか」
5時半までに晩餐のためシンポジウムの代表者が集まる、金色陽光大酒店に行かなくてはならない。湖畔の通りに出て、タクシーをひろおうとしたがなかなか来ない。するとタクシーではないブルーのベンツが我々の前に止まった。主婦らしい女性が運転している。金色陽光大酒店の字を見せ、20元で行ってもらうことにした。高いのか安いのかわからない。杭州市街を走り、金色陽光大酒店に着くころはもう日が沈み暗くなっていた。白タクの女性に20元を渡し「謝々」といって降りると、ちょうど代表者が乗ったバスも到着していた。