再論・琴におけるスチール絃使用の問題

Discuss again, Problem of Steelstrings use in Guqin



  日本国 伏見 无家 Muka Fushimi 



スチール絃使用の琴を果たして琴と呼ぶべきかどうか。

 絹絃とスチール絃の音の差異は一度耳にすれば歴然としていることがわかる。その違いに気付かないでいること、気付いていても等閑にして無視することは琴人として正しき態度と言えるかどうか。聴覚を極限まで駆使する音楽家であるなら、音色の違いというものは大きな問題となるはずである。音楽を形成する基本的な素となる音が違うのだから、生まれ出る音楽は全く異質なものになってしまうことはあまりに当然すぎ、その差異を指摘し批判することさえ無気力を感じる。
 琴の音楽は、ヨーロッパ音楽における音色に対する美意識とは全く異質なものがあって、ただ音が大きく澄んでいればよいというだけではほんとうの琴韻の美は語れるものではない。五百年千年を経た断紋美しい琴が奏でる音は自ずと一般的楽器の美とする音とは違ったものになってくる。しかも、その琴は誰にも弾かれずにただ保管され続けたのではなく、千年もの間、常に人から人へと弾かれ音を発し続け、琴韻が育てられ成長し続けているのである。世界の楽器の中でそれだけの長い寿命を持ち、成長して行く楽器というのは琴以外ない。古い琴から発する音は、長い年月を経たため尋常な楽器から発する音とは異質な濁りさえも含んで沈み込むような音にならざるを得ない。それが琴という楽器の独自な音色なのである。そのために琴には絹絃を張らなければならない。琴の音楽的表現のために絹絃を張ることは必然である。奥深く幽玄な音色を得るためには絹絃こそふさわしい。琴の音楽的本質を知るなら選択の余地すら無いものである。
 2003年、ユネスコ世界無形文化遺産に琴は登録された。登録基準となるものは「文化的伝統の根源をなすこと、生きた伝統のすぐれた証左であること、都市化に代表される社会の急変によって特に消滅の危機にあるもの、大衆化されすぎていないもの」となっている。まさに絹絃は消滅の危機にあり、特殊化しつつあるのが現状である。そしてまた絹は中国の文化的伝統の根源をなすものである。スチール絃が奏でる琴が果たして世界遺産登録に値する琴であるのかと疑問を呈せざるを得ない。

 琴を弾ずるときに不可避的に生まれる左手の擦音(走音)は音楽表現とは別の余分な音として聴こえることだろう。特に絹絃を張った琴にはその音が顕著である。微弱な擦音は周りの空気に溶け込んで環境音との区別が無くなってしまう。シンセサイザーのように不純物の無い音に慣れ親しんだ耳からすれば、それは「醜」としか聴こえないかもしれない。しかしその音すらも琴音の美と感じた時、全く別な価値観に基づいた美意識が生まれる。その価値観とは自然の音ということである。あるいは琴道において言われる「太古遺音」というものである。「自然」による「自然」の表現が琴においては可能なのである。これは不純物のない人工的音を善とし美とする感性では理解できない音の世界だろう。これは東アジア全般に共通する感性から生まれてくるものである。
 東洋の美学というのは、美醜を超えたところの「美」を求める。それは美醜を内に含んだ「美」と言ってよいだろう。中国の「古拙」然り、日本の「詫び」「寂び」然り。これらは同じ価値観、美意識に基づいた美の理念である。「自然」であることが絶対的な価値であり絶対的な美なのである。古い琴を尊ぶことは「若さ」「新しさ」の対極にある「老」という美をそこに見出すのである。濁りがあって沈み込む音というのは「明白」「顕現」の対極にある「陰翳」の美ということである。琴音は当然ながら東洋的美の範疇に属すものである。「自然」「古拙」「老」「陰翳」は琴の音楽的本質である。したがってスチール絃が表現する表裏の無い単純であからさまな美意識とはその表現する目的が違うのである。無意識的不可避的に生まれる擦音だからこそ自然の音であり、自然素材の絹絃でなければ自然の音は表現できないのである。

 スチール絃使用の琴演奏者は、西洋的美的感性に基づいていると言える。スチール絃の明確で空間を劈くような鋭い音、いつまでも伸びる金属音の余韻を決して耳障りだとは感じず心地よいと感じるのは、都会の騒音を心地よいと感じる感性と同じものである。そういう感性に基づいて琴を弾奏するなら、千年以上も生き続けた唐、宋代の琴にスチール絃を張ることに何の違和感も持たないのは当然のことである。国宝にもなる琴に対し、楽器を傷めるばかりの鋼鉄製のスチール絃を張ることは文化遺産の破壊にもつながり、愚の骨頂としか言いようがない。絹絃を選ばずにスチール絃を使用するのは、音が大きいから、絃が切れにくいからというのではあまりに荒っぽく低俗かつ幼稚な理由である。高度に洗練された文人的感性が、多くの琴人から喪失してしまったことを嘆かざるをえない。現在、中国本土で真正の文人的琴を継承している者は一人か二人くらいしかいない。かつて日本の画家雪舟が中国に渡り師を求めたところ誰もいなかったという、その嘆きと同じものがある。
 琴の音楽的本質とは何なのか、歴代の琴人たちが育てた琴韻とはどういうものなのか。改めて考え直さなければならない。伯牙やケイ康(Hsi K'ang)はスチール絃を張った琴を奏でなかったのである。唐琴や宋元琴、明琴、清琴でさえスチール絃は張られてこなかったのである。これも当たり前に過ぎ言うことさえ憚られる。
 さらに重要な問題として、スチール絃使用の琴によって伝統的奏法も変更を余儀なくされたということである。絹絃とスチール絃とは素材が違うのだからその奏法は自ずから変わってくる。微妙かつ繊細な表現がスチール絃では不可能になっている。いつまでも伸びる余韻の中でのビブラートは大雑把で執拗にすぎ、鋼鉄製の硬い絃は右手指の人指、名指、中指で弾いた時の違いを不明瞭なものにしている。琴は手指に器具を用いず直接に絃に触れるから、そのアタックの仕方は劇的な違いがある。大袈裟で品のない演奏パフォーマンスもスチール絃だからこそ出来ることである。何十年もスチール絃に慣れ親しんだ琴人が今さら奏法を変えるわけにはいかないだろう。まして初学からスチール絃使用の琴を弾いていれば不可能である。これは琴の伝統的奏法が失われ、後代に二千年来の琴韻が伝わらないという由々しき事態を意味する。中には器用にスチール絃と絹絃の二つの楽器を弾きこなしている琴人もいるが、それで問題が解決しようとは思わない。二千年以上も続いている絹絃の琴の伝統が、使用されてからたかだか五十年ほどの歴史しかないスチール絃によって断絶に至ってるのである。初めて琴の音を聴く者がスチール絃の琴だとしたら、それがほんとうの琴だと思い込むだろう。かつて文人たちが愛してやまなかった真正の琴韻が伝わらないのは悲劇である。
 スチール絃の琴は、音を大きく派手にしようという伶人なる演奏家の方便にしかすぎない。そこには伝統的琴韻、琴の音楽的意味は存在しない。琴を弾奏することは古人の意(心)に出会うこと、「太古の遺音」を通して宇宙や自然との一体感を経験することにある。それはスチール絃の琴では決して得ることができないものである。騒音に騒音を重ねる音楽として琴はあるのではなく、琴を奏でることは騒音を静める音楽でなければならない。琴は大衆芸能ではないことを改めて銘記すべきである。





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