香鐵先生參堂記
幽琴窟主人

 香鐵先生、白髮童顏、常に鶴裳衣を服し髮を束ねて巾子(こじ)をさす。白鬚は胸上まで逮(およ)び、其の風貌は唐宋人の如くにして、奇士の気迫が汪溢する。
 先生の書齋を訪れるのは何度目であらうか。朱塗りの門を潜(くぐ)れば其處は仙界である。白壁に穿たれた、八角形や扇面形の漏窗から見える蓮池を横に眺めつつ、氣は急きながらもゆっくりと甃石の小徑を行く。此から先生に會へるのだといふ緊張感が、此の小徑を進むに連れ不思議と安らいで行くのを覺える。
 庭園へ通ずる入口の處には〔天籟園〕と篆書の額が懸ってをり、對聯として、

  「彷彿舟行三峽裏 儼然身在萬山中」

 とあった。其の側(かたはら)に醉芙蓉と南天が植ゑられてをり、醉芙蓉は今を盛りと咲き誇る。
 去年の四月に訪れた時、庭園の太湖石の間で咲き匂ふ牡丹は其れは見事なものだった。池の邊の蟠龍の如く横たはる太湖石の側には、皇冠型の〔墨魁〕〔烏龍捧盛〕といった、名だけを見れば黒い牡丹を想ひ浮かべるが、孰(いづ)れも赤紫色で五寸程の大きさの花で、其れに綉球型の〔假葛巾紫〕〔王紅〕〔銀粉金鱗〕なども咲き亂れていた。中でも花が六寸もある千層臺閣型の〔昆山夜光〕は、先生自慢の牡丹で、其の眩い白色は回りの花色を壓倒し、自ら發光するかの如く輝いてゐた。
 先生はまた蘭にも深い趣味を持ってゐた。張岱の友人范與蘭よろしく、夏冬は侍僕に任せて措けずに、蘭鉢の置き場を求め忙しく立ち働く。恰度牡丹と同じ頃には一茎九華が艷を競ってゐた。蘭は牡丹に比べ決して派手ではないが、君子の氣がある。〔大一品〕〔極品〕〔程梅〕などが、玄関の風通しが好さそうな處に並べてあった。〔程梅〕は中でも一番氣品に溢れ、豪壯で大丈夫の風格があった。 
 しかし、先生が特に意を寄せてゐたのは春に咲く蘭であった。〔宋錦施梅〕〔西神梅〕〔老文團素〕などを善しとしたが、先生が我が子を言ふやうに語られたのは〔蕭山蔡梅〕に就いてだった。其れは、水仙瓣と梅瓣の二種が同時に咲く素心系の名花ださうだ。私は未だ見たことが無い。一度拝見したいものだ。
 〔蕭山蔡梅〕が植ゑられた鉢は、六角鉢で六面すべてに山水と詩が釘彫された朱泥の宣興。底光りする潤澤なる風合ひは、何代にも受け繼がれ蘭が愛培され續けられたことの證である。宣興の鉢は通氣性に優れ、夏涼しく冬温かく、鉢中に養分が染み込み、蘭にとっては其れが恰度好い肥料となる。永年の間に生まれる艷(つや)は玉のやうに美しい。此の時期の〔蕭山蔡梅〕は葉ばかりであったが、花は無くとも其の濃い緑色と屹立した氣品ある姿に暫し魅入ってしまった。  先生の書齋の扉が少しばかり開いてゐる。押し開いて中に入れば、すぐ目に飛び込んで来るのは〔琴和齋〕と、雄渾なる偕書で書かれた扁額である。先生自ら揮毫になるものである。先生の書は北碑を體得してをられ、其の書風は一言すれば奇である。先生の書齋には古への氣が隅々まで充滿してゐる。奧深い歴史が幾層にも積み重なってゐるやうだ。此の書齋に佇むと、我々の住む日常世界とは別の時間が流れて行くやうな、此の場處こそが桃源境ではないかと思はれて仕方が無い。
 先生の姿は何處にも見えない。ただ墨の好い馨りがするばかり。斑紋竹と紫檀で製せられた風雅な几案の上に、磨りかけの硯と書きかけの詩戔があった。硯は端溪。水巖大西洞の逸品である。顧二娘の作。左側の落潮から墨池にかけて梅花枝が彫琢され、墨堂に顕はれた水巖獨得の蕉葉白と臙脂火捺が鮮明である。氷紋、金線は背面まで貫徹し、石色は深海の如く、また夏空の如く、凝(ぢ)っと見詰めてゐると其の宇宙的廣がりに魂が吸ひ取られたやうになり、時が經つのを完全に忘れてしまふ。墨は明墨で程君房の百子圖墨。既に三分の一程磨墨され失ってゐるが、其れが古玉の墨床に置かれてある。硯屏は龍泉窯青甃高士觀月。怪石は小さな物であるが、靈璧石で、其の形は深山を想はせ、掌の中で仙境に游ばしめる。臺座は古色を帶びた黒檀で、桃果樹が彫刻された精巧な出來。筆架は青華五山、筆は堆黒、水盂は白玉、印章は二顆(くわ)、環蛟鈕田黄で先生自刻の印である。印文は白文で〔香鐵先生〕朱文で〔琴和齋主〕、どちらも漢印の風があった。其れらは無雜作に並べてあるやうだが、其の配置の美しさは必ずや嚴密に考へられたものと思ふ。詩戔は十竹齋で佛手柑の模樣があり、七言が流暢な行書で二句まで書かれてあった。

  客散夜雨叩芭蕉
  偶然欲琴黄鐘調

 南の壁面に畫幅が懸けてある。宋代李唐の山水圖のやうだ。恐らく先生が私のために懸けて下さったのだらう。實に氣韻生動した名畫である。神品の格に入る眞筆に違ひない。山深い清澄な空氣が瀧音と共にこちらに流れて來さうな、見る者を忽ち其の畫中に引込み、山水に游ばしめる。先生は繪も描かれるが、五十歳を過ぎてから學ばれたさうだ。最初に描かれたのが脩竹の繪だといふ。
 畫幅の兩脇には古煤竹に彫られた聯が下がってゐる。

  〔松下飮新酒 石上弄古琴〕

 この聯は、先生の御友人純丁老人が戯れに刻したと伺った。篆書の陰刻で緑青で色付けされた、古拙にして洒脱な書風である。先生は、純老人を當代隨一の書家と言ってをられた。
 窗の下には磁州窯で燒かれた白色の美しい缸が置かれてあった。中には朱砂魚が數尾元氣良く泳ぎ廻る。鼻孔(はな)が赤い花房のやうになって體色は黒く眼球の出た〔朱球墨龍睛〕〔紅鰭望天〕は、鰭と口、胴部は白色、眼球は紅色をしてをり、しかも上を向き天を望む。〔紅白花水泡〕は眼の下に大きな透明の袋をぶら下げ、其の袋の上面が紅色で、背中も尾鰭にかけて紅色、胴は白、宮廷で最も愛養された朱砂魚である。又、他にも、鱗が眞珠のやうに圓く、色彩豐かな〔五花珍珠龍睛〕、虎斑模樣で大きな頭をした〔五花虎頭〕、白黒模樣で、眼球が飛び出て、鼻が橙色をした〔喜鵲花龍睛球〕などがゐたが、最も珍とされる、全體が藍色で頭が大きく鼻は朱球で、鰓(えら)が捲(めく)れた〔紫藍花高頭翻鰓〕や、全體が紅色で鱗が眞珠、眼の周圍に水泡があって、鰓が捲れた〔紅珍珠水泡翻鰓〕などは先生はあまり好まれなかった。先生が最も好まれた朱砂魚は、鰭(ひれ)が極端に長く、體色は光りを帶びた青色で、泳ぎは優雅、天に踊る仙女を見るやうな〔羽衣青鳳〕だけであった。
 紫檀の飾り書棚が室の西側にある。上段には左に投壺、右に易占のための蓍(めどき)と算木が飾られてあった。この蓍は漢代の物であるらしい。竹製ではなく蓍萩(めどはぎ)である。先生曰く、易占は此の靈草蓍萩が本來、他は賣卜のための略筮に如かずと。此の蓍によって何度易占が行はれたことだろう。黒光りして人々の靈氣が付着してゐるやうだ。
 投壺と蓍に挾まれて大きな靈芝が横たはってゐる。子を二つ持つ立派なものだ。此の靈芝は庭園の老梅の根元で先生が見つけられた。先生は是れを瑞兆として大變喜ばれたさうである。
 書棚の中段には、西周の青銅器、饕餮紋鼎が小振りながら堂々として一際(ひときは)光彩を放ってゐた。青銅器の足元には、これも西周代の玉や玉穀紋璧などが置かれてあった。
 中段の左右には觀音開の書箱があって、中には稀購の琴學書が無雜作に積まれてあった。漢劉向撰『琴頌』『琴録』、漢諸葛亮『諸葛琴經』、唐陳懷撰『琴譜』、唐僧道英『琴徳譜』、唐陳拙撰『大唐正聲新址琴譜』、明冷謙撰『太古正音』、明朱權『神奇秘譜』などである。下段にも珍書があったが、床から大分離れてゐたので濕氣からは免れてゐた。また、漢趙岐注『孟子註疏解經』、唐史徴撰『周易口訣議』、唐張説撰『張燕公集』、唐顏眞卿撰『顏文忠公集』、宋張根撰『呉園易解』、宋張君房撰『雲笈七籤存』、宋王儻『唐語林』、元呉莱撰『淵穎呉先生集』、康煕刊の『全唐詩』『佩文齋書畫譜』『佩文齋詠物詩選』なども目についた書である。
 しかし、先生は何處にいらっしゃるのだらう。蘇東坡「赤壁賦」が刻された木屏風の裏に廻っても、姿が見えない。竹製の長椅子の上に帙に入った〔飛鴻堂印譜〕があるばかり。私は庭園の方へ出てみた。芭蕉林の邊りで人聲がする。近づいてみると、一羽の鶴であった。盛んに首を上げ下げしてゐる。先生は、山水の繪模樣が映る大理石が嵌め込まれた羅漢床に寢そべってゐた。鶴は私の到來を先生に知らせてゐたのだ。先生は目を開け莞爾と笑った。好い詩句は無いかと、庭に出て考へてゐたら、不覺にも轉寢(ねむ)ってしまったとの事だった。悠々自適と云ふ言葉が先生ほど似合ふ人士はゐない。先生は鶴の頭を撫で起き上がると、私を書齋の方へ導いた。早速侍童が呼ばれ茶の用意がなされた。
 白泥翁梅亭三峰爐の上の湯罐に、交趾緑釉の水注から汲み立ての湧水が注がれ、先生手づから茶棚から茶瓶を取り出された。供春製の六瓣圓嚢壺である。蓋は小さく注ぎ口が優美な形をしてゐる。茶棚の中には未だ澤山の名品が覗かれた。供春〔樹瘤壺〕〔龍帶壺〕、時代彬〔玉蘭花六瓣壺〕〔蓮瓣僧帽壺〕、陳鳴遠〔束柴三友壺〕〔葵花八瓣壺〕と、それらが整然と並べられてあった。
 先生は武夷岩茶を最も好まれた。この間伺ったときには大紅袍をいただいたが、今日は肉桂の好いのがあるとの事。湯が蟹眼から魚眼、松風に至るのを待って、徐(おもむ)ろに茶瓶へ湯を注ぐ。その時、芭蕉の葉ずれの音と共に涼風が室に入って來た。先生は悠然と成化年製青華白磁茶碗東坡看月に茶を注いだ。室中を、清澄なる茶の香氣武夷の岩韻が充満してゆく。碗を手に取る前に、全身が茶の香氣に包まれたことに私は驚いた。思はず目を瞑り、其の香氣に全靈を委ねた。目を開けるとにこやかな顏をした先生が私が碗を取るのを待ってゐてくれる。私は蝙蝠の透かし彫りのある錫の托と共に茶碗を手にし、改めて茶の香を聞く。一口含めば恰も碧山をその儘喫(の)むかのやうである。暫し陶然。この茶を啜りながらの先生との清談は塵世を全く忘却させた。
 先生は思ひ立ったやうに、急に大きな聲で侍童を呼び寄せた。琴を持って來させるためだ。先生はこちらから望んでも琴を彈じない時がある。無理に頼めば尚更彈かない。縱(たと)ひ高貴の方の依頼でも、自己の氣が向かなければ、相手が誰であらうと斷じて彈くことは無いのだ。
 先生は琴人と呼ばれるより詩人と呼ばれることの方を喜んだ。しかし詩人としての評判はあまり芳しくはなく、却って先生は琴の名手として世に聞こえてゐた。それでも伶人としての琴人は先生の最も嫌惡すべきものであった。先生の琴に對する並々ならぬ思ひは、埋葬する際は琴を抱かせてくれ、といった言に窺(うかが)へる。〔濁酒一杯彈琴一曲志意畢矣〕は先生のいつもの口癖である。
 先生の蓄へるところの琴は梅花斷美しい雷氏琴。宋代に刻された銘と思はれるが、隸書で〔碧天鳳吹〕と讀める。そして〔雪夜鐘聲〕と銘のあるこれまた唐琴。この琴には牛毛斷と蛇腹斷が綺麗にあらはれ、梅花斷も處々垣間見える。宋琴では僅かに龍紋斷が出てゐる〔玉玲瓏〕。元琴では朱致遠製の〔山水趣〕。明琴では、惠祥、高騰の製の仲尼式琴、列子琴や、祝海鶴の芭蕉琴などがあった。先生がいつも好んで彈ぜられた琴は〔玉玲瓏〕である。底光りのする美しき黄褐色を呈し、極めて薄く製せられた仲尼式琴である。徽は珠蚌が用ひられてゐるが、雁足と軫は白玉である。その琴音は玲瓏重厚、散音は雷の如く、泛音は玉の如くである。
  維摩式の琴案に薦を敷き、先生は極めて注意深く其の上に琴を載せた。私は香案を媒に置き、やや離れた處に座を位置した。侍童により蓬莱香が焚かれた。少しの沈黙。深く一息吐いた後、先生は彈奏を始める。嚴肅な氣分にさせる古拙なる〔招隱〕の曲である。裝飾音は一切無く、澁く、まさに先生の姿を彷彿させた。續いて〔佩蘭〕の彈奏。〔淡欲合古〕と云ふべき曲である。佩蘭とは蘭を身に帶ぶ古代の風習である。蘭とは蘭花のことでは無く、澤に生える蘭草の謂である。先生は今の時代に合った曲の解釋と云ふことを決してなさらない。何故なら其れをすれば必ず古人の高風を瑕つけることになってしまふからと。先生はいつも古へに歸すことを願ってゐた。
 窗の外を見ると、陽は將(まさ)に暮れなんとして、鳥たちの聲が喧(やかま) しい。最早この仙境から辭さねばならない時が來た。私は何度も再會を約し、相ひ與(とも)に塒(ねぐら)へ還る飛鳥を追って、先生の書齋を後にした。






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