『記紀』の琴

−日本琴學思想史−
伏見 无家



 現代日本における琴学は既に忘れられた音楽になってしまっているが、日本の歴史の黎明期には、単に音楽を奏する楽器としてではなく、神的ともいうべくある特別な意味が付与され確かに存在していた。
 文字資料として『古事記』(七一二)や『風土記』(七一三)『日本書紀』(七二〇)などには、多く琴の記述が見られ、琴は神事にもっぱら使われ、政治的にもかなり深く入り込んでいたようであるが、それが果たして七絃琴であるか、にわかには断定できない。日本には、外来楽器として完成した構造をもって伝来したのではないとされる倭琴(やまとごと)があって、そのころの天皇、および文人貴族はおそらくこの琴を用いたのではないかというのが通説である。
(参考 東京国立博物館蔵「埴輪-琴をひく男子」)
   倭琴とは、板状のものから共鳴槽がついたものへと生成発展したもので、絃は五本から六本、長さはさほどではなく、和琴の祖形とされる。近年考古学の発見にはめざましいものがあり、倭琴の発掘例は弥生時代から古墳時代を経て、白鳳時代、奈良時代にまで及び、分類整理もかなり進んでいる。倭琴の生成においては、七絃琴をそのまま受け入れたり、その形態を取り入れたという事実の証拠は現在のところ見出し得ない。七絃琴の絃は七本であり、軫を回し調絃をする。倭琴は五本、調絃は琴柱(ことじ)において行う。そこが倭琴と琴との決定的な違いである。
 林謙三教授は『正倉院の楽器の研究』の中で、「(琴は)わが国へは奈良時代に伝えられる以前にも一部帰化の中国人の間に用いられたかも知れないが、普及するまでにはかなりの年月を要したことが考えられる」と言っており、琴学者水原渭江教授は、「日本の考古資料では、すでに彈琴俑が発掘されているから、“琴“を聖なる器としてきた殷周時代以後の中国文化の影響を受けてきたことが判る」と言っている。また、笠原潔氏は『中国古代の音楽思想』の中で「中国古代の音楽思想が、典籍の輸入を通じて、日本の文学・思想に直接・間接の影響を与えているのは周知の事実である。」と言い、明治大学日本文学専攻の西本香子氏はその論文『琴(キン)と琴(こと)』の中で、「わが国の古代祭祀における靈器として特別視されてきた「こと」の性格が「キン」に敷衍される可能性も無視できない」と言っている。「キン」とは言うまでもなく七絃琴のことである。
 隣国中国の琴学思想は、日本より歴史的にははるかに早く先駆的に発達しているのだから、奈良時代以前にも交流があったとするなら、日本在来の琴に対し思想的音楽的影響を与えたと考えるのは当然である。確かに、古代日本の琴の神事への用い方、琴への神聖視を鑑みるに琴学思想の顕現は認められるのである。そして、おそらくそれら古典籍に見られる琴の記述のいくつかは、七絃琴そのものを指すと斷言してもよいものがある。
 前掲西本香子氏の論文『琴(キン)と琴(こと)』は、『古事記』『風土記』『日本書紀』『万葉集』『古代歌謡集』に記述された〔琴〕の詳細な報告をした労作である。氏はこれら古典籍中に見られる琴字を三十四例あげる。氏の報告に導かれ、七絃琴の可能性、あるいは琴学の思想的影響があると思われる例を見てみたい。
 まず、その表記から琴(キン)、すなわち七絃琴と断定できるのは二例だけであるとしている。『風土記』伊賀國風土記逸文にある「唐琴」という話がある。
 「カラコト丶云所ハ、伊賀國ニアリ。彼國ノ風土記云、大和・伊賀ノ境ニ河アリ。中嶋ノ邊ニ神女常ニ來テ琴ヲ皷ス。人恠テ見之、神女琴ヲ捨テウセヌ。此琴ヲ神トイハヘリ。故ニ其所ヲ號シテカラコト丶云也。」
 この神女の彈いていた琴は「唐琴」という名から、中国伝来の琴であることは間違いないと思われるが、伝来琴類の中でもやはり代表的な七絃琴であるとみてよいだろう。神女が常に来て皷すためには、片手でも抱えられるくらいの琴でなければならない。しかしこの史料は、『風土記』の記事とは認めがたいということである(「日本古典文学体系『風土記』頭注)。
 また、『古代歌謡集』における東遊歌 二歌には、
「え 我が夫子が 今朝の 言出は 七絃の八絃の琴を 調べたる如や 汝をかけ山の かづの木や をををを」
 とある。七絃はまさしく七絃琴のことと思われるが、続く八絃が疑問である。七絃琴のほかに八絃琴というのがあったのだろうか。八絃の琴はまた『古事記』下巻清寧天皇に、「八絃の琴を調ぶる如、天下治め賜ひし」というのがある。八絃の琴とはどのような琴か、寡聞にして知らない。

   次に、琴学思想の影響が認められる例をあげる。
 『日本書紀』雄略天皇十二年十月の条に、秦酒公(はだのさけのきみ)が琴の声をもって天皇の過ちを悟らせようとして、琴を彈じたという話がある。
「天皇、便に御田を、其の采女を奸せりと疑ひて、刑さむと自念して、物部に付ふ。時に秦酒公、侍に坐り。琴の聲を以て、天皇に悟らしめむと欲ふ。琴を横へて彈きて曰はく、
神風の 伊勢の 伊勢の野の 榮枝を 五百經る析きて 其が盡くるまでに 大君の 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや是に、天皇、琴の聲を悟りたまひて、其の罪を赦したまふ。」
 琴によって過ちを悟らせるというのは、『白虎通』に「琴は禁なり。邪を禁止し以て人心を正しうすなり。」とあり、琴の徳が人の心に及ぶことが説かれている。徳敦き琴の声が天皇の心に感応し、その邪心を改めさせたというのであろう。ここで弾かれた琴は、「横へて」というところから、大型の琴であった可能性が強い。あるいはやはり和琴であったろうか。七絃琴は机上に置いて弾くか、膝の上に載せて弾くしかない。横たえるとは七絃琴の場合、すなわち脇に寄せ、弾くのを止めることである。この記述は、和琴と七絃琴の混同あるいは、融和があったことを窺わせる。
 『古事記』仁徳天皇に「枯野」という話がある。
 「此の御世に、兔寸河の西に一つの高樹有りき。其の樹の影、旦日に当たれば淡道島に逮び、夕日に当たれば高安山を越えき。故、是の樹を切りて船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時に其の船を号けて枯野と謂ふ。故、是の船を以ちて旦夕淡道島の寒泉を酌みて、大御水献りき。茲の船破壊れたるを以ちて塩を焼き、其の焼け遺りし木を取りて琴に作りたりしに、其の音七里に響きたりき。爾に歌ひて曰はく、
 枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ 浸漬の木の さやさや
 とうたひき。此は志都歌の歌返なり」
 これと同じ歌が『日本書紀』応神天皇にある。
「初め枯野船を、鹽の薪にして焼きし日に、餘燼有り。即ち其の燒えざることを奇びて獻る。天皇、異びて琴に作らしむ。其の音、鏗鏘にして遠く聆ゆ。是の時に、天皇、歌して曰はく。
                                    枯野を 鹽に燒き 其が餘琴に作り 掻き彈くや 由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ なづの木の さやさや」
 この「枯野」の記述は、古くからその出典を『後漢書』蔡ゆう伝にあることが指摘されている。
「呉人に桐を燒きて以て爨ぐ者有り。火の烈しき聲を聞き、其の良木なるを知り、因りて請ひて裁ちて琴を爲る。果して美音有り。而して其の尾猶焦げたり。故に時人名づけて焦尾琴と曰ふ。」
 蔡ゆう(一三二 一九二)は後漢の人。琴を善くし、著書に『琴操』二巻がある。自らも琴曲を作り、「秋月照茅亭」「山中思友人」「碧天秋思」などが後世に伝わっている。
 ここでの琴の演奏法は、「掻き弾く」ということから、七絃琴と同じように指で爪弾いたと思われる。「鏗鏘にして」とは『禮記』樂記第十九に「君子の音を聴くは、其の鏗鏘を聴くのみにあらざるなり」とある。「鏗鏘」はかん高い金石の声を言う。また琴の声、余韻のことを「鏗爾」「鏗戞」「鏗錚」とも言う。七里まで響く琴とは、多分に誇張的であるが大型のものであったろうか。しかし逆に、この琴の音が小さく微なるがゆえに却ってその余韻が「鏗鏘にして遠く聆」えたとも考えられ「枯野」がはたして何の木材でできた船か特定できない。蔡ゆう伝にははっきり「桐」となっている。「桐」は琴を作るに最も相応しい。しかし船に作るとなると柔らか過ぎると思われる。「浸漬の木」とは潮に漬かった木のことを言い、それは海に浮かぶ船との類似をいうだけかも知れない。

 帰化人が琴を弾じたという例を見てみる。
 『日本書紀』巻第十四 雄略天皇の条。
「秋七月に、百済國より逃げ化來る者有り。自ら稱名りて貴信と曰ふ。又稱はく、貴信は呉國の人なりといふ。磐余の呉の琴彈彊手屋形麻呂等は、是其の後なり。」
 「呉の琴」とは百済伝来の「玄琴」「伽耶琴」および大陸の「箜篌」とも言われ、定説はない。西本香子氏は言う、「明らかに倭琴とは思えない大陸系の琴類にも「琴」の字をあてることがあった事を知ればよい。少なくとも、『記紀』の琴の全部が倭琴であるとは言い切れないことが分かる」と。また、林謙三教授の言うとおり、やはり琴は奈良時代に伝えられる以前にも一部帰化人の間に用いられたと考えられるのである。

 最後に、琴が神靈との交感に用いられた例をあげる。
 『古事記』上巻大国主命に、
「ここにその神の髪を握りて、その室の椽毎に結い着けて、すなはちその大神の生大刀と生弓矢と、その天の詔琴を取り持ちて逃げ出でます時、その天の詔琴樹に拂れて地動み鳴りき。」
 という話がある。大国主命が大神の持っていた生大刀と生弓矢と天の詔琴を持って逃げ出すというのである。天の詔琴とは、日本古典文学大系『古事記・祝詞』の倉野憲司氏の頭注において、「〔天の〕は美称、〔詔琴〕は託宣の琴の意で、神懸りの際には琴が用いられた。従ってこの琴は宗教的支配力を象徴したものと解すべきである。」とある。
 また『古事記』中巻の神功皇后の新羅征討において、仲哀天皇が熊襲を撃つために神の命を給わんとして琴を弾いたが、神より下された託宣が間違っているとし、琴を弾くのをやめてしまう。それが神の忿りをかい、仲哀天皇は殺されるという話がある。
「その大后息長帯日売命は、當時神を帰せたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。ここに大后神を帰せたまひて、言教へ覚し詔りたまひしく、『西の方に國有り。金銀を本として、目の炎耀く種々の珍しき寶、多にその国あり。吾今その国を帰せたまはむ。』とのりたまひき。ここに天皇答へて白したまひしく、『高き地に登りて西の方を見れば、国土は見えず。ただ大海のみあり。』とのりたまひて、詐をなす神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、黙して坐しき。ここにその神、大く忿りて詔りたまひしく、『凡そこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず。汝は一道に向ひたまへ。』とのりたまひき。ここに建内宿禰大臣白しけらく、『恐し、我が天皇、なほその大御琴あそばせ。』とまをしき。ここに稍にその御琴を取り依せて、なまなまに控きましき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞こえざりき。すなはち火を擧げて見れば、既に崩りたまひぬ。」
 ここでの琴の演奏法は、「控かして」ということから、琴軋(ことさき)、あるいは棒状のものか何かで絃を叩いたのではないかと考えられる。この奏法は琴柱のある琴において東アジアに広く見られる。また「大御琴」から大きな琴、瑟のごときものが考えられ、小型の倭琴、七絃琴ではないだろう。
 無理に琴を弾かせるという事例は、『史記』樂書第二に、徳義の薄い晋の平公が師曠に無理に琴を弾かせたため、国が大禍に見舞われた、というのがある。
「師曠曰く、……今君の徳義薄し、以て之を聴くに足らず。之を聴かば、將に敗れんとす。平公曰く。寡人老いたり。好む所の者は音なり。願はくは遂に之を聞かんと。師曠巳むことを得ず、琴を援りて之を鼓す。一たび之を奏するとき、白雲有り西北より起る。再び之を奏するとき、大風至りて雨之に随ひ、廊瓦を飛ばす。左右皆奔走す。平公恐懼し、廊屋の間に伏す。晉の國大いに旱し、赤地三年、聴く者或は吉に或は凶なり。夫れ樂は妄りに興す可からず。」
 また、『日本書紀』巻第九 神功皇后攝政前紀九年三月の条、神功皇后が齋宮に入り神主となり、武内宿禰に琴を弾かせて、仲哀天皇に託宣を下した神の名を問うため祈願したという話がある。
「皇后、吉日を選びて、齋宮に入りて、親ら神主と爲りたまふ。則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主を喚して、審神者にす。因りて千繪高繪を以て、琴頭尾に置きて、請して曰さく、『先の日に天皇に教へたまひしは誰の神ぞ。願はくは其の名をば知らむ。』とまうす。」
 ここでの琴の演奏法は、「撫かしむ」ということから、絃を指で弾いたと考えられる。「撫琴」とは、七絃琴の演奏という意味によく用いられる表現である。「琴頭尾に置きて」は不詳。 前掲『日本書紀』下巻 清寧天皇の「八絃の琴を調ぶる如、天下治め賜ひし」などとともに、これらの記述は、琴が神靈、あるいは天と交渉にあたるための靈器であったことが確かめられる。荻美津夫氏は『日本古代音楽史論』の中で、日本の琴を「古代において神懸りへの手段として神事的に重要な楽器であった。」と言っている。
 中国の琴学思想においては、琴と天、あるいは神との関係よりも、ずっと現世的実際的な道徳的価値が強調されていると言える。琴はなによりも、修身理性というべく徳を養う器であった。よく琴の徳を知るものは独り至人だけである。しかし、琴を彈じ、神靈と交感するという考え方が見られないわけではない。たとえば『禮記』樂記十九に「大樂は天地と和を同じくす」「樂は天に由りて作る」「禮樂の金石に施し、山川神仙に事ふる」「樂は和を敦くし、神に率ひて天に従ふ」「聖人樂を作して以て天に応ず」とあり、音楽の形而上的存在の意義が説かれている。前掲『史記』樂書第二は、琴と天が感応するという明確な事例であろう。馬融(後漢)の『琴賦』にもそのことが述べられている。「昔師曠三たび奏して、神物下降す。……何ぞ琴徳の深きや。」深い琴徳があるならば、神物とも感応するというのである。また、桓譚(後漢)の『新論』の「神農氏始めて桐を削りて琴と爲し、絲を縄へて絃と爲す。以て神明の徳に通じ、天地の和に合せり。」『風俗通』(後漢)「舜は五絃の琴を彈じ、南風の詩を歌いて天下治まる」とあり、けい康の『琴賦』(『文選』巻十八)には「天呉は重淵に踊躍し、王喬は雲を披いて下墜す。●●を庭階に舞はし、游女飄焉として來り萃る。天地を感ぜしめて以て和を致す、況や 行の衆類をや。」(天呉は水の神、王喬は仙人の名、●●は神鳥の名、游女は漢水の神)とある。
 『文選』所載のけい康『琴賦』は、琴の徳を詩的に高らかに歌いあげた琴論の賦であり、その半分以上が琴が奏でる音楽そのものの言語化のために費やされているといってよい。従って、琴を実際に耳にしなかった者、琴の実体を知らない者にとって、この記述は琴の神秘性をますます強調することになっただろう。このように最上級の言葉で褒めちぎられた楽器が、神や天と通じる靈器と考えるのは当然のことと思う。『文選』は古代日本おいて、五経とならび特に尊ばれた書であり、『琴賦』は日本の琴学を考える上で、最も重要な文献といってよく、その影響は古代日本文学の中に著しく色濃く見られるのである。

 古代日本の琴学思想の特徴をあげれば、音楽の享楽、あるいは音楽による道徳的修養というより〔琴〕は神の音楽に属し、祭礼的だったと言えるだろう。それは礼楽として儒教的な音楽というのではなく、「天の詔琴」や芸能の神である秦酒公の琴、あるいは『風土記』に見られる、洞窟の中の大神の琴、神女の琴といった記述により多分に道教的な音楽として扱われていたように思う。
 その後の日本において、神との関係では琴は奏さなくなる。琴占などにその片鱗が窺えるが、音楽性は全く欠如している。独奏楽器として琴は用いられなくなり、かわりに和琴が雅樂に取り入れられ組織化され、神前において簫や篳篥などの諸楽器と同じ扱いを受けるようになる。琴だけが靈器として特別扱いはされなくなるのである。
 『源氏物語』若菜下に「……(琴によって)昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、……明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雨を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。」と言うように、琴が靈器として生きていたのは「上りたる世」すなわち上代までだったのである。その後琴は廃れ、平安末期に絶音した。





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