『既往』


「貴方、向いてないわよ」

まだ適齢期を過ぎていなかった頃の彼女にそう言われたことがある。





ポッター一味に叩きのめされ、いつもの通り保健室のベッドの上で目が覚めた。
夕食の時間はとっくに過ぎており、傍には無駄な時間などないのだという風に、十数本のレポートに目を通しているグリフィンドールの寮監が控えていた。

「先生…」
「起きたのね、ミスター・スネイプ」
「何時ですか?」
「九時半。減点は双方十点ずつ。罰掃除は六階の窓拭き。ただし気絶している貴方は免除。感謝なさい」

聞きたいことだけを素っ気なく伝えてくれる。
だからこの人は嫌いではなかった。
たとえ、あの粗忽者集団の寮監だったとしても。


起きあがろうとして頬に痛みが走り、片手で押さえる。
まぁ、この程度の怪我なら明日の朝には完治するだろう。

ホグワーツの保険医は、その置かれた環境故に、常に優秀だった。
特にセブルスの世代が入学してきてから、怪我と呪いに関する治療の腕は格段に上がったと教師陣の語り草である。
生徒の健康第一を考える当の保険医本人には納得できない状況らしいが。




「スネイプ。今日はここでお休みなさい。毎度の事ながら、傷害を甘く見るのは禁物です」

教授はそう告げると、散らばった羊皮紙をかき集め、撤収の準備を始めた。
特に逆らう理由もないので、セブルスは黙ってその様子を見ていた。
グリフィンドールの生徒が起こした騒動の収拾は、最後には常に彼女の役割だった。


「貴方は将来、闇の陣営に行く気なの?」

席を立つに際して、彼女は不意にそう問うてきた。
あまりに唐突で、セブルスにはそもそも質問の意味が理解できなかった。

「は?」
「デス・イーターになるつもりなのかと聞いているのよ」
「…は?」

他意は感じられない。
かまを掛けたのではなく、正真正銘、ただの疑問文らしかった。
行きたいのなら止める権利はないという風に、淡々と告げる。


「賭けてもいいけど、貴方、向いてないわよ」

「…死喰い人に向き不向きがあったとは知りませんでした」


皮肉を込める隙間すら見つからず、セブルスが返せた言葉はせいぜいそれくらいだ。
けれど彼女は小さな子供を諭すように言葉を続けた。

「年長者の言うことは聞くものよ。貴方、向いていないわ。それもとびっきり。ジェームズ・ポッターと殴り合った回数を数えてごらんなさい。入学以来の総合減点数は? 罰掃除の数は? いくら貴方が呪いに詳しかろうと、そういう家系だろうと、向いていないものは向いていないのよ。残念かもしれないけれど、諦めなさい。それが一番だわ」


わけがわからない。
一体どーゆー理屈なのだろう。

「…真正面からしか生きられない人もいるのね」
「私が?」

それはまた、随分と買い被られているのではなかろうか。

「私は卑怯者と言われる類の者なのですが」

彼は、やっと自分のペースを取り戻せたと思った。
けれど、彼女は首を振る。

「…やっぱりわかってないわね、貴方。本当に卑怯な人は、卑怯者、と指を差されたりはしないものなのよ。少なくとも公には。堂々と『卑怯者』をしているような貴方に死喰い人なんて出来るわけがないのよ。わかるかしら?」
「わかりません」

あまりにも自然に言葉は口をついた。
その早さに、彼女は軽く吐息を漏らす。


「セブルス・スネイプ。貴方はここにいるべきだわ」
「ここ?」

…というのは何処のことだ。

「出来ればホグワーツ。駄目でもせめてここに近い場所に。学業を修めたら、帰ってらっしゃい」
「何故スリザリンの私に?」
「それは、危なっかしいから」

こんなにわかりやすい子もそうはいないわ、と黒髪の教授は首を振る。

「はぁ…」
「十年…いえ、二十年経てば分かることよ」
「生憎と、そうそう気長に生きられない体質です」
「仕方がないわね。……でも忘れないで。私がこう言ったことだけは。迷ったときに思い出して。貴方は『向いていない』のよ」


なんなんだこの人は。
どうしてこんな話をするのか…意図が分からない。
スリザリンからの人材の流出を少しでも防ごうというのか。



――強烈な不信感。

その時はその程度にしか思わなかったのだが。



 *  *  *



「見事に戻ってきたわね」


軽口で迎えられて、少々戸惑ったのは事実だ。

なにしろ経歴が経歴である。
ホグワーツの教師として、歓迎されないのは分かりきっていた。
けれど、彼女は…ミネルバ・マクゴナガル教授は、かつてと変わらない表情をセブルスに向けた。

「来てくれて嬉しいわ」
「正確には監視されに、ですがね」

苦く告げる。
ダンブルドアの擁護は、制限付きで認められた。
元死喰い人を野放しにして置くほど、魔法省は甘い組織ではない。
いや、それはむしろ魔法界全体の怯懦だったのかもしれない。


「それでも貴方を歓迎します。例の六人のうち、残ったのは貴方だけね」

三人は死んで、一人は処断され、一人は行方不明。
グリフィンドールの五人は誰も残らなかった。


彼女は悲しく笑った。
きっとこの人も泣いたのだろうと思った。
堪えきれずに落涙し、だから今ここで少しだけ笑えるのだろう。







「セブルス。私たちはここに骨を埋める気よ。貴方は?」
「………言われるまでもなく」

償おうと思った。
自分のために。
せめてそれくらいはしなければ、今呼吸をすることすら己が許さない。

誰よりも自分が、自分を許せない。






誓約を受け取ったかつての恩師は、今や上司として彼の前に立っていた。
そして、静かに過去を反芻する。

「向いていないと思ったのよ、セブルス」

――だって貴方は常に誤りを正そうとする子だったもの。



「一緒に働けて嬉しいわ」
「…どうぞよろしく。ミス・マクゴナガル」

彼は軽く会釈した。
今はそれが精一杯なのだろう。


「ミネルバでよろしくてよ」


ホグワーツの副校長。
今でもグリフィンドールの女史かたぶつと呼ばれている彼女は、思いの外柔らかい表情でそう告げたのだった。