『出藍』
胸騒ぎと共に、朝日は昇った。
引き留めるミネルバに、「行かねば」の一言を放って、その日のことは彼女に任せた。
「夜までに帰る」とはどうしても言えなかった。
それほどまでに、前夜の星は乱れていた。
彼女もそれを承知していて、ただ恩師の身を案ずるが故に引き留めたのだ。
けれどダンブルドアは…ホグワーツの学校長は、新学期最初の日であるにもかかわらず、己の居場所を留守にせねばならなかった。
ローブの内ポケットには、黒紙に白字という奇妙な手紙が一通、収められていた。
彼の人の直筆。
その筆跡をどうして忘れられようか。
彼が旅立ち姿をくらましてから、遙か月日は流れても。
悔恨のみが未だ暗く影を落とす。
黒い便箋の上に蜘蛛の糸のように細く踊る文字は、細やかに場所まで指定していた。
通りの、赤い時計塔の見える宿から九ヤード。石畳の中央にて。
お待ちしております、と丁寧に書かれてはいたが、それは薄ら寒い誘いに過ぎなかった。
言葉を尽されれば尽されるほど、背後に怨嗟と呪詛の混じった攻撃的な匂いが感じ取られる。
これほど明確な布告文はなかった。
『貴方を殺したいのです』
いっそ、そう書かれていないことが不思議だった。
明記しなかったことが彼の妙趣なのかもしれないし、無意識のことかもしれなかった。
別段文字にするほどのことではなかったのかもしれない。
まだ夏の色の残る街の風景の中を、アルバス・ダンブルドアは静かに歩いた。
魔法省の傍を通り過ぎるとき、何人かの役人が、驚きと共に彼を凝視した。
ここにいるべき人物ではなかったからだ。
「先生!」
駆けてきた赤毛の青年は、数年前の卒業生だ。
「どうしてこちらへ…今日は新学期では?」
「うむ。まだ宴にまでは時間があるでの。所用を片付けに」
ダンブルドアは表情を取り繕った。
それでも、いつもはキラキラと揺れる水色の目が輝くことはない。
「よろしければ、大臣室までご案内しますが」
「いぃや、アーサー。今日は魔法省には寄らぬつもりじゃ。なかなか時が経つのは早くての」
「まぁ、お役所のやることですからねえ。非能率的なのは、役所の特徴の一つですよ。って、当の役人の俺がそう言っちゃ駄目ですね。あはははは」
頭を掻き、彼は一礼して玄関へと戻っていく。
石造りの重厚な趣の建物は、夜には魔法で幾列もの明かりが灯され、周り一帯の景観の特色にもなっていた。
通りの、赤い時計塔の見える宿から九ヤード。
指定した通りの場所に、その人物は立っていた。
道の中央。けれども、誰もその人物を目に留めようとはしなかった。
見てはいても、見えていないのだ。
それとなく避けて通る人々には、まさか石畳の真ん中に深くフードを被った剣呑な雰囲気の魔法使いが立っているなど、思いもよらぬ事だった。
魔法による意識操作。二人分の存在を衆人の目から隠すくらい、彼には造作もないことだろう。
「お久しゅう。ダンブルドア」
かつて師事した者は、フードを脱ぎ去って大恩ある師に微笑を向けた。
無惨、と。
そんな単語が老人の脳裏に浮かんで消えた。
顔色は蝋よりも白く、瞳孔は真紅へと変色していた。削られたように平たい鼻は、容姿を“蛇のよう”と形容するに足りた。
左目の周囲には焼け爛れたような跡が広く顔に貼り付いている。
彼はそれをさらりと撫でた。
愛しげに。
闇の魔法を身に受けた、その結果に違いなかった。
「リドル…か。いやはや変わり果てたものじゃ」
「どうぞ、ヴォルデモート卿と。呼ぶことを許しましょう」
この年月を経ても変わらない慇懃無礼な態度は、艶やかな黒髪の少年を思い出させた。
「ではヴォルデモート。君の名は昨今、夕闇の翳りの中でよく囁かれる。好ましからざる者として。…何が望みじゃ」
卿は、ゆるゆると首を振って「いまさら」と言った。
それは彼がよく使う言葉だった。
使うことで、自省と反芻を拒否し、可能性を否定する。そういう言葉だった。
「今更問うことに意味があるとは思えない。ご存じでしょうに。我が望みがなんなのか」
ダンブルドアは口元を手で多い、人差し指で半月形の眼鏡を押し上げた。
「……リドル家の人々が亡くなったときに、わしは後悔したものじゃよ。お主を引き留めなかったことにな」
「それは自信過剰というもの。貴方の力を以てしても、ヴォルデモート卿を止めることなどできはしない。…今日は、それを証明に来たのです」
仰々しく一礼。
今やヴォルデモート卿が頭を下げるのは目の前の相手、ただ一人だった。
それすらも、道化じみた芝居に過ぎないのだが。
「どうぞアルバス・ダンブルドア。お受け取りを。ヴォルデモート卿から貴方への、宣戦布告です」
手を挙げる。
魔法ではなかった。
見ていたダンブルドアが一番よくわかった。
それはただの合図に過ぎなかった。
轟音。
空気が震え、背中を押した。
驚愕が街を走りぬける。
脊髄を稲妻のように駆けめぐったのは果たして恐怖だったろうか。
白髪の後ろから、石が砕ける音。瓦礫が崩れ落ちて地に沈む気配。塵灰の匂い。数瞬遅れて、人のざわめき。更に遅れて悲鳴。そののち、初めて言葉が生まれる。
「魔法省が!」
「…流石だ」
陶酔を隠そうともせず、ヴォルデモート卿は薄い唇に生気のない青白い指を絡めた。
右手には杖が握られている。イチイの木で作られた、ダンブルドアとの因縁浅からぬそれ。
老人の心臓に向けて、杖は突き出されていた。
グラガラと、今も背後で続く崩壊の音。
それに気を取られて振り返っていたならば、彼の命はなかっただろう。
既にダンブルドアは悲しみに浸る老人ではなかった。
眼鏡の奥の水色の瞳は、煌めくことなく静かに濁っていた。
「ヴォルデモート…」
「行ってやったら如何です? 今ならまだ助かる者もおりましょう。生きる価値もない者達だが」
侮蔑。
衆人は、彼にとっては支配の対象に過ぎなかった。
減ろうが増えようが構いはしない。数値として換算するだけの存在。
「何を望む?」
ダンブルドアは繰り返した。
卿は唇の端をつり上げ、まだ問うのかと嘲りの口調で答える。
「僕が僕であることを。私が私であることを。ヴォルデモート卿がヴォルデモート卿であることを」
目の奥の赤い光がちらちらと揺らいだ。
「おわかりでしょう、ダンブルドア。私は私を否定した貴方を排除せねば生きられない。貴方が正しいと思うものを全て塗り替えねば。私はサラザール・スリザリンの子孫として、為すべき事を為すでしょう」
「それでも、トム・リドルが混血であったという事実は変わらぬというに」
「関係ないね。もはや血は続かない。世代は移り変わらない。スリザリンの最後の子孫は私。スリザリンの望んだ結果が私。ヴォルデモート卿は永遠の命を以て魔法界に君臨する」
「ぬし、ここで死ぬか?」
「プロフェッサー。わざわざ危険を冒してまで恩師の前に姿を見せたというのにつれないではありませんか。…まぁ、タダで死ぬ気はありません。ロンドンが吹き飛んでもよいのならそうなさるがいい」
悠長に構えているようでいて、彼らは周囲の空気の流れを固定していた。
じり…と間合いを計る。
どちらも、仕掛けるわけにはいかなかった。
魔導師という点ではダンブルドアが有利だった。けれど周囲への被害を考慮して、彼は行動に出ることは出来ない。
差し引きならない事態の一歩手前。
引き際というものを彼らは計っていた。
「次に会うときは是非とも貴方の屍の前で」
別れの挨拶らしき言葉を口にする卿に、老人は唸った。
「許さぬよ。お主を」
受け取った相手は興ざめしたように肩を竦める。
「今更それを言葉になさらずとも。………ああ、一つ、学生時代に貴方に言えなかったことがありました。最後に聞いていただきたい」
姿くらましのために杖を振る直前、かつての生徒は「やっと貴方に」と呟いた。
去り際に一言。
本来もっと早くに伝えるべきだった言葉を、恩師に捧げる。
「―――くたばりやがれ!」
翌朝。無残に砕かれた魔法省の写真と共に『ヴォルデモート』の名が印字された日刊予言者新聞が、英国中の魔法使いの家庭に届いた。
数年後。もはやその名は活字として配布されることはなくなった。誰もが恐怖とともに『例のあの人』、と声を潜める。
それは卿本人の満悦を誘った。