『エバン・ロジエール』


色褪せた煉瓦の壁に打ち付けられて、男は崩れ落ちた。
衝撃でくらくらとする頭を押さえる前に、杖腕に激痛が走るのを感じた。
悲鳴を上げ目を見開くと、こちらに向けられている杖の先端が青白く点滅しているのが見えた。

アラスター・ムーディ。

傷だらけの手に握られている杖が、自分の片腕を壁に磔にしているのだとわかる。
そして、腕はあり得ない方向に捻れているということも。
無表情で、けれど全身から憎しみを沸き上がらせて、ムーディはロジエールを見下ろしていた。

からころと、足下に転がった杖。
彼は、それを踏みつけたい衝動に駆られているように見えた。
しかし、それはできない。
エバン・ロジエールの杖は、彼が多くの許されざる魔法を使ったという罪の証明になるはずだった。


老いた闇払いは、杖を突きつけたまま声を発した。
魔法使いが二人。一人は杖を持ち、一人は空手で負傷している。
もはや結果は見えていた。

「ロジエール。…とうとう追い詰めた」

勝利の宣言だった。
声は喜びに打ち震えていた。そして同じ深さの怒りに。


「お前達が殺した罪なき人々には出来なかった贅沢を、お前にはさせてやる。選ばせてやる。死か、さもなくばアズカバンか。どちらがお前の行き先だ?」

「…死?」

呆然とした表情で、ロジエールは呟いた。
痛みよりも、その単語に頭は囚われているようだった。

「死? 馬鹿な。あり得ない」
「ではアズカバンへ行くがいい。絶望の漂う場所で、生まれてきたことを悔恨せよ」
「悔恨?」

ロジエールは反復した。これが彼本来の姿だとしたら、随分と鈍い頭である。
けれど、ムーディはロジエールを知っていた。
この壮年の男が、いかに狡猾で、いかに“あの人”に忠実であったか、彼はよく知っていた。

「まだわからんのか」
蔑む口調で彼は言う。
「闇の王は死んだ。街に溢れる祝いの声を聞かなんだか。『生き残った男の子、ハリー・ポッターに乾杯!』。まったく乾杯したい気分だ。わしはこの名前を忘れんよ。ハリー・ポッター! ポッター家の最後の一人」

「嘘だ!」

弾かれたように、男は叫んだ。

「あの方が死ぬはずはない。亡くなられるはずがない。ヴォルデモート卿こそが選ばれた方。何故ポッターなどに…しかも何の力もない赤子にあの方が敗れるというのだ!」
「選ばれただと? 一体、誰が選ぶというのだ。あの殺人鬼めを」
「選ばれた方だ」

ロジエールは繰り返した。

「サラザール・スリザリンが我らに遣わした、魔法界の救い主だ。あの方が我らを救ってくださる。私一人では出来ぬ事を、誰にも出来ないことを、あの方は成し遂げてくださる…!」

「だがやつは死んだ。死なないまでも、生きてはおれぬほどに力を失い幽鬼となり果てた。生き物ですらない醜悪な姿で逃亡を続けている。いっそやつの死体を見た方が、まだ目が腐らぬというもの」
ムーディは冷たく吐き捨てた。
「狂信者め」


狂信。
まさにそれが彼を表す言葉だった。
ホグワーツの在学中から、すでにエバンはヴォルデモート卿に傾倒していた。
心酔していたと言ってもいい。
己にはない眩い資質と、そして資格。
早く卒業して欲しかった。一秒でも早く。トム・リドルの名を捨ててヴォルデモート卿を名乗り、主として君臨して欲しかった。
偉大なる友に膝を折ることを、彼は夢見ていた。

たとえ闇の魔術を身に付けて、見る影もなく変わり果てても、それでもヴォルデモート卿は神聖だった。
彼を醜いと言うくらいなら、エバンは自分のブロンドを全てまだらにしただろう。

―――なのに、なんだこの状況は。



「あるわけがない…」
ぶつぶつと、もはや正常さを失った瞳で、彼は笑い出す。

「あるわけがない。あの方が滅びることなどあってはならない。悲願だからだ。魔法族がずっと待ち続けていた存在だからだ。…なくなられるはずがない。お戻りになられる。きっと…必ず。あの方は約束なさった。私に。答えを見せてくださると――」

「ならば、アズカバンへ行け。お前に相応しい牢獄だ。永劫に戻らぬ相手を、死ぬまで待ち続けるがいい」


ムーディは杖をねじった。
同時にロジエールの体も捻れ、またしても激痛が襲う。
が、彼は素早くもう一方の手を懐に差し込んだ。
逃走の最中にぼろぼろになったローブの中にはもう一本、細く小さな杖が隠されていた。

逆の手で杖を握る。

しかし、ムーディの二つの目がそれを見逃すはずはない。
闇払いが杖を振りかざし、死喰い人は杖を突きだした。


音が生まれる。許されざる呪文が使われる時に広がる、禍つ風だ。


呪文を唱える暇はほとんどなかったが、ロジエールの杖から飛び出した塊はムーディの顔を撃った。
弱々しい光だったから、せいぜい彼の鼻を削るくらいが関の山だったろうが。








緑の閃光が駆け抜ける一瞬、いまわの際に彼は振り返った。








ずっと前のことだ。
長い組分けが終わって、スリザリンのテーブルに座った黒髪の同級生。
痩せていて、そして小さかった。
弱々しいとさえ思った。
監督生に先導され、寮へと向かう道筋で初めて話しかける。


「お前、ハーフなんだって? 混血がスリザリン寮とは、恐れ入るね」








……どうしてあんなことを言ったのだろう。


光に打たれて魂が潰える前に最期の思考をする。













最初にかける言葉だから。

最後に思い出す言葉だから。


あなたをたたえることばがよかった。