『不運』
「おっと危ない」
一度あることは二度ある。
二度あることは三度ある。
前回の『忘却薬』騒動に非常に懲りたアーサー・ウィーズリーは、出来うる限り宙を飛び交う怪しげな薬品群から隣を歩く人物を保護することに決めていた。
しかし、結論から言えば、彼等は初めから迂回べきだったのだ。
たとえ下級生同士の大騒ぎが繰り広げられているというその程度で、通り道を変えることが癪だったとしても。
教科書『未来の霧を晴らす』で、飛んでくる試験管を叩き落とす。
けれど、まさか時間差で二本目が来るとは思っていなかったアーサーは、まともにその薬を浴びてしまった。
「あ、」
僅かだが、透明な液体が口の中に入ったのを見届けたルシウス・マルフォイは、黙って数歩横にずれた。
魔法薬というのは何を引き起こすか分からない。
ましてや、ポッターらの「寮対抗魔法合戦in廊下」で使用される薬物である。無害であるはずがない。
状況を判断したルシウスは、そのまま被害者を見捨てて部屋に帰ろうと決めた。
しかし、さっさと歩みを進める男の背後から、グリフィンドールの監督生の大声が廊下に響き渡ったのである。
「あ〜それにしてもルシウスって可愛いよなあ」
魔法でなくても時は止められる。
現場にいた一人は、後々になってから、感慨深げにこの時のことを思い出して語った。
「いや。顔は可愛いというよか綺麗って形容の方が相応しいんだけど。態度がね。普段は北極南極レベルに冷たいんだけどさあ。たまーに。たまーに甘えてくるところなんかが。可愛いんだよな。昨日もね。ああ、勿論夜のことだけど。ふっと気が付くと寝てるんだよな。隣で。しかも肩に頭預けて。寝顔っていつものせせら笑いが消えてるからそりゃもう美人でさ。無防備にそんな顔晒されたら襲うね!俺は!だからこっ(以下十数行省略)」
べらべらべらべら。
と、口から出てくる言葉はラジオの如く、しばらその場に垂れ流しにされていた。
最初に正気に戻ったのは、この事件で一応被害者に分類されるルシウス・マルフォイである。
彼は振り返りざま僅か三歩で音声源に辿り着くと、持っていた辞書の角でその赤い頭を殴り倒してから、昏倒した相手の顎を思いっきり蹴り上げ、杖を取り出して気絶呪文を掛けた上で、「黙れアーサー!」と叫んだ。
明らかに行動の順序がおかしかったのだが、この際それは言わないことにしておく。
それはきっと、世の中一般では“動揺”と呼ばれる類のものだったのだろう。
はらり、と髪を束ねるリボンが地に落ちた。
ルシウスは振り返らない。
ただ背中越しの威圧が五人をその場に縫いつける。
「逃げよう」…とセブルス・スネイプでさえ直感的にそう思った。
しかし足は硬直して動かない。
「どちらだ?」
努めて冷静な声。
けれども、彼は振り返らない。俯いたまま微動だにしない。
解けて広がった髪の間から覗く肩は、怒りで震えてはいないのに。
「ジェームズ・ポッター。セブルス・スネイプ。この『真実薬』はどちらが調合したものだ?」
不運なことに、それは放課後の出来事だった。
不運なことに。
せめて休み時間であったのなら、昼休みであったのなら、すぐにも教師達が異常に気が付いただろうに。
しかし、それは放課後の出来事だった。
運悪く、ルシウスの正面方向から廊下を歩いてきてしまったハッフルパフの女生徒は、数日後「もう二度とスリザリンには近付かない」とやっと一言声を漏らした。
運悪く、ジェームズ達の後ろから走ってきたグリフィンドールの下級生は、その場の雰囲気に気圧されて…すっ転んだ挙げ句に、地に伏せたまま立ち上がれなかった。
運悪く、両者の真横の教室から出てこようとしたスリザリンの最上級生は、「うおっ」と言ったきり即座に扉を閉めて、人が散ったあと数時間も、そこから出て来なかった。
セブルスは、右手に二本、左手に四本、試験管を持ったままだった。
リーマスは口元を手で覆ってそのまま動かなかったし、シリウスは口を開けたまま表情が凍っていた。
ピーターは既に泣いている(それでも声は出せなかった)。
まさか「僕がやりました」とジェームズは名乗れなかったし、ずり落ちそうな眼鏡を押し上げることもできなかった。
セブルスが「私じゃありません」と一声発することすら出来ないままに時間は経過した。
『ホグワーツの歴史』にはその日のことは記載されてはいないが、セブルス・スネイプ以下数名の脳裏には、あの日発生した重力場のことがはっきりと刻み込まれている。
そう。まさかのことではあるが、アーサー・ウィーズリーが「痛ってー。何すんだよルシウス」と顎を押さえながら復活を果たすまで(そしてその後再び沈められるまで)の27分間、事態は収拾されなかったのである。