『再結集』


「結束を」

ダンブルドアは強調した。
「心を開き、友情と信頼を以て結束する。我らに再び訪れた困難な時を越えてゆくためには不可欠なのじゃ」

それは正しかった。
誰もが信じたくなかった、ヴォルデモート卿の復活。
まだ信ずる者は僅かであろう。平和という時代を味わってしまった者は、暗い時代への回帰を耳を閉ざすことで拒否するのだ。

けれど、信じた者達の間でも囁かれる。
一体結束したところで、以前より強大になった“あの人”に勝てるというのだろうか?
不安と不信。恐怖の連鎖反応。

それを見越した上で、やはりダンブルドアは語調を強める。
「結束を――ヴォルデモート卿を敵とする全ての者を同じ陣営に迎えて」

古い仲間達との連携。巨人族との連絡。世界中、全ての魔法使いを結集して。
そして、その中心にはダンブルドアがいなければならない。
彼が世界で最も偉大なる者だからではなく、言い出した本人だからでもなく、彼自身がその責任を負おうとするからだ。

連絡を粗にすることがとんでもない過ちを招くことを、ダンブルドアは知っている。
他でもない彼自身が、13年前に過ちを犯したのだから。

―――ダンブルドアでも正しくないことがある。

彼とて完璧ではない。
他の誰とも変わらない、ただの悩める人間の一人なのだ。




そのことをセブルス・スネイプは知っていた。
結束を呼びかける校長の一言一言が、剱のように彼を刺し殺した。傷はこの十年塞がったことはない。


 *  *  *


シリウス・ブラックは今でもあの日のダンブルドアの表情を忘れることが出来ない。


「シリウス。どうしても教えてはくれぬと言うのなら、その理由を聞きたい」
眼鏡の奥の瞳が、優しく語った。
けれども、彼は本当のことを恩師に言うわけにはいかなかった。

「何故あいつの居場所を聞くんです? ダンブルドア。ピーターは抜けたんです。闇の陣営も、その対抗勢力も、どちらの手の届かないところへ行った。あいつの力じゃ反ヴォルデモート勢力に助力するのは無理です。だから消えた。行く先は言わないと約束しました」
「それがピーター・ペティグリューの本当の望みなら仕方がない。けれど、シリウス。聞いて欲しい。どうにも我らの中にスパイが放たれておる」
悲しげに、白い髭が揺れた。
「我らの中の、特に重要な役割の誰かが」
「…まさか。誰が裏切ると言うんです? 敵の撹乱でしょう」
「だとよいのだが…生憎と、わしの感覚がそう云っておる。そして今では証人がおるのじゃ」
「そいつが我々の中にスパイがいると言ってきたのですか? その情報自体が間違いなのでは? 本人はそう言っても、思いこまされている可能性がある。――大体、その証人とは誰なんです?」
あまりにも陰鬱な会話だった。
一片の明るさもない。疑惑と不信に満ちた応酬。

「その証人は嘘を言っていない。そして、言わされているとも思わない。名は明かせぬが」
「では」
首を振るダンブルドアに、シリウスは不快感を表した。
「…俺を疑ってるんですね。そしてピーターも」
「すまぬ。しかし、」
「わかってます。貴方は上に立つ者で、全てを疑ってかからねばならないことは。恨んだりはしません。でも校長。俺達は違う。第一、俺が奴らに通じてるとしたら、ジェームズはとっくに死んでいる」
「うむ」
ダンブルドアは深く頷いた。

シリウス・ブラックが、ポッター夫妻の『秘密の守人』であることは、彼ら二人と当の守られている者達だけしか知らない事実だった。
もし、シリウス・ブラックが闇の陣営に通じていたとしたら、彼らはやすやすとポッター夫妻の居場所を見つけだして抹殺していることだろう。
その一点だけをとっても、シリウスがスパイだとは考えられないことだった。
けれど、それはピーターの潔白を明らかにはしない。

「ダンブルドア。俺が言います。ピーターは信頼できる。今は隠れていますが、あいつがスパイってことはありえない。俺がスパイでないのと同様に」
きっぱりと言い切ったシリウスの目には確信の光があった。
彼だけが知っていた。
本当の『秘密の守人』はピーターであることを。
これは、ジェームズとピーターと、三人で話し合って決めたことだ。
ダンブルドアにも知らせていない、最高の目くらましだった。
だから、ジェームズが健在であることがピーターの無実の証明だった。もっとも、それを口には出せない。
秘密の、更に深くにしまわれた秘密。


己の目を見つめながら「信じよう」と、そう言ったダンブルドアの表情を、彼は決して忘れない。
どうして忘れることが出来ようか。
あの晩の自分は知らず、その信頼を裏切っていたというのに。


 *  *  *


「それで、」
セブルスは大きく頭を振った。
「結局徒労に終わったと? 校長、我輩は確かなことを申し上げているのです。ピーター・ペティグリューが裏切って卿の側に付いている、と」

「シリウスは、その証人が情報に踊らされているのではないか、と言ったのじゃ」
「――だったら、何故私はここにいるのです!」

まるで仇敵に出会ったかのように、セブルスはダンブルドアを睨んだ。
「結局貴方は我輩を信用なさっていないのですな」
「セブルス」
ダンブルドアが咎めた。
「勿論――わしは君を疑っておる。しかし、同じだけシリウスをリーマスをピーターを疑っておる。わし自身でさえ、今ここに服従の呪文を掛けられているわけではないと真に言えるじゃろうか?」
「裏返せば、それは信頼と呼べましょうな。全ての人物を一通り疑った上で、それでも信じるというのなら」
セブルスは、目を細めた。

ダンブルドアは嘘を見抜く。
そして、闇の陣営から抜けようとした自分を真っ先に信じてくれたのは、他ならぬ彼だった。
他の魔法使い達を説得し、逆に間諜としてヴォルデモート陣営に居続けるよう指示したのも彼だった。
もっとも、その提案を行ったのはセブルス自身だったのだが。
いったい誰が自分を卿のスパイではないと言えるだろう。
裏切った素振りで、反ヴォルデモート勢力に潜り込んでいるのかもしれない。
自分ですらそう考えるのに、この校長はそれでも自分を信じると言ってくれた。
彼には少なからぬ恩義がある。

と同時に、不甲斐なさを感じるのも事実だった。
自分を信じるのと同様にペティグリューを信じられては、自分の報告は何の意味を成すというのだろう。
間違いがあろうはずがない。

ヴォルデモート卿に、「ジェームズ・ポッターを陥れたければ、糸口は三人だ」と告げたのは当のセブルスだったのだ。
誰にでもわかりそうなこと。
ジェームズ・ポッターという重要人物が『忠誠の術』を使って隠れている。ならば、『秘密の守人』は誰か。
簡単だ―――ダンブルドアか彼の友人達。セブルスでなくともすぐに見当が付く。
そしてそのうちの一人を陥落させれば、『秘密の守人』が誰かということはすぐにわかるはず。あとは拷問でも何でもするだけだ。

唆したと言ってもいいかもしれない。
セブルス・スネイプは、自分のためにヴォルデモート卿を動かしたのだ。

そして結果を手にしてしまった。
失望を。

「シリウス・ブラックはペティグリューが裏切っていないという確信があると言った。ならば、こういうことでしょう。ブラック共々奴らは裏切っているのです。三人とも、かもしれない。とにかく、誰か一人は裏切って向こうの側に付いた! そうでなければ手に入らぬ数々の情報が入ってきたのです。あの三人でなければ知り得ない―――だから私はこちらに来たのです」

どん、と彼は思いきり拳を机に叩き付けた。
机はたわんでぶるぶると震える。激しい怒りが今や顕わにされていた。

「それは、ピーター・ペティグリュー本人の姿を確認したわけではないということじゃな」
「けれど校長っ」
「スパイはいる。確かに情報が漏れておる。しかし、まだ誰かはわからない。何故名指しするのじゃ? 君は他に何かを知っているのではないか?」
「…それを言えば、私は貴方の信用を失います。だから言いません」
私がヴォルデモート卿を唆した張本人です、などと。
「セブルス。君がここに戻ってきた理由を、わしは本当の意味で理解できない。しかし、言葉は真実だと思っている。…嘆かわしい。わしは何を選び取ればいいのかわからぬのじゃ」

眼鏡を外して沈黙する校長に、彼は何も言えなかった。
まさか今更言えるはずもあるまい。
「私を信じてくれ」などと。

「校長、私はスリザリンです」
彼は踵を返すと、部屋の出口へと向かった。
数ある密会場所の一つから、足を踏み出す前に彼は振り返る。

「スリザリンにはスリザリンの理由があるのです」


 *  *  *


自由に動ける時間は、瞬きするほど短かった。
活動の合間を縫って捻り出した密会。けれどダンブルドアを説得できなかったことで、全ては潰えた。
死喰い人として活動しつつ、もう一度ダンブルドアに個人的な連絡を取ることは不可能だった。


セブルスは、結局一度もジェームズ・ポッターの居場所を問わなかった。
問うてどうなるというのだ。
会うことも出来ない。
いや、会ってどうするというのか。

何と言えばいい?
お前の友人達には失望した、と?

連中に、何故裏切ったのかを問い詰めたかった。
セブルスはセブルスなりに、信じているものがあったのだ。

けれどそれは、彼個人に対する失望には繋がってはいなかった。
どこかで、まだ信じているのだ。
ジェームズはジェームズだと。

信じたい。

「僕は君の期待する僕でありたい」と言ったあの男を。

彼の友人が裏切った。
それは、ジェームズ・ポッターが裏切られるだけの人物であることを意味していた。少なくともセブルスにとってはそうだった。
グリフィンドールは輝かしい場所ではなかった。
彼の築き上げたものは純粋な光ではなかった。

…どうして信じさせてくれなかったのか。

純粋な光があると思えばこそ、この身を闇に沈めることを望んだのに。
全ては対極にありたかったからだというのに。

けれど光がくすんだ今、自分が闇の中にいることには意味がないと思われた。
まったく無意味なことだった。
世の中は、黒も白もなく、境界線など無く、どこまでも灰色が連なっているだけなのだと気付いてしまった今となっては。


苛烈に生きたかった。
あの男に追いつくにはそれしかないと思ったのだ。
なのに。



「死ぬ」と口は動いた。

間に合わない。『秘密の守人』が誰なのか、セブルスは知らなかったし、ダンブルドアは話す気がなかった。
それはその人物とダンブルドアの秘密であると言うから。
では、守人はダンブルドアではないのだ。
裏切っている可能性のある三人のうちの誰かなのだ。

可能性は高い。
ジェームズは死ぬだろう。リリーも、その息子も。
卿と対峙して生き残れる者などそうはいない。強大な魔力を間近に見てきた故に、その予感は鮮やかにセブルスを支配した。


自分は何をしているのだろう。
「だから君は、僕の期待する君で居て欲しい」。
その望みに、適っていなかったことに気が付いて。
彼は光などではなかった。
だから、己が闇でいる必要などどこにもなかったというのに。
けれど全てはもう遅く。

セブルスが言わなくとも他の誰かが告げただろう。誰でも簡単に推察できる答えだ。
けれど、紛れもなく囁いたのは自分だった。

『ジェームズ・ポッターを陥れたかったら―――』

ああ、陥れたかったとも。
けれどこんな意味ではなかった。

愚かだったのは自分。

まだ生きている彼らの死を肌で感じる。
残された長さも知らぬまま、刻一刻と過ぎていく時間。
訃報が届くまでの、死喰い人に混じって過ごす時間が、自身への断罪だった。

いっそ終わってくれと、願ってしまうことを己に禁じながら。


 *  *  *


半壊した家を目の前にしても、シリウスはそれが現実だとは思えなかった。
よろよろと歩みより、壁の漆喰のひとかけらを拾い上げてさえ、こんなことが起こるはずがないと心が叫んだ。
黒い大きな人影が近付いてきたのにさえ気が付かなかった。

「…シリウスでねぇか」
野太い声が彼を呼ぶ。
「………ハグリッド?」
「おめえさんも聞いたのか…。なんてこった。なんてぇひでぇこった。ジェームズもリリーも死んじまった!」
「嘘だ!」

反射で彼は叫んだ。
そしてそのまま視線はハグリッドの抱える汚れた布の固まりへと移った。

「…それは、ハリー? 生きて…」
「そうだ。ハリーだけが生き残った。ダンブルドアは、例のあの人はもういないと言った。ハリーが、可哀相なハリーがあいつを破ったんだと」
「まさか…そんな…」
真っ青になって震えているシリウスの肩を、ハグリッドは叩いてやった。
「言わんでええ。言わんでええよ。シリウス。泣きたいのは誰も一緒だ。悲しい。ほんっとうに悲しい」
「…ジェームズ? リリー? 嘘だろう…?」

ハグリッドのすすり泣きが夜の闇の中に吸い込まれていく。
こんな凄惨な現場だというのに、辺りには野次馬一人居なかった。
誰も、例え例のあの人が居なくなったと聞いて、にわかに信じたりはしなかった。
ここに集まってくるはずのポッター夫妻の友人達の中で、彼らが最も早くに到着した二人だった。

シリウスはふるえの止まらない両腕を抱えつつ、ハグリッドに告げた。
「ハグリッド、ハリーを俺に渡してくれ。俺が名付け親だ。俺が育てる―――」
けれど彼は首を振る。
彼はダンブルドアから必ず言いつけを守るように言われていた。
「ダメだ。ダンブルドアがハリーはおばさんとおじさんの所に行くんだって言いなさった」
「けれど、ハグリッド。俺には………いや、そうだな。その資格はないだろう。そして他にするべき事がある」
彼は疲労の積み重なった表情で、無理矢理笑顔を作りだした。

「このバイク、使ってくれ。速く安全に付けるはずだ。俺にはもう必要がないだろう」
「うん? 貸してくれるのか」
「ダンブルドアに伝えてくれ。ハリーを頼む、と」
「おお。ダンブルドアが守ってくださる。ハリーは安全だ。シリウス…おめえさんも後から来いや」
「…………ありがとうハグリッド」

シリウスは夜空に飛び立つバイクに向かって手を振った。
そしてハリーの寝顔を思い出した。

すまない。

誰に詫びればいいのか、全くわからなかった。
ジェームズにもリリーにも、謝る資格などが自分にあるのだろうか。
ダンブルドアは、スパイがいると(しかも証人まで用意して)言っていたのに。

まったく愚かだった。
愚かさが取り返しの付かない事態を招いた。
今の自分に出来ることは、せめてあいつを捕らえて粉々にしてやることだけだ。

―――ピーター・ペティグリュー。


  *  *  *


そして真実は12年もの間、アズカバンの石牢の上に横たわっていた。


  *  *  *


ダンブルドアが二人を引き合わせなかったのは、不和と不信を防ぐためだった。
あまりにも簡単に、結束というものは割れる。
隣人が信用できない時代だった。笑っている目の前の相手が死喰い人なのかも知れなかった。
数知れぬ魔法使い達が闇のただ中へと走り去っていく時代に、なによりも重要なのは組織力を維持することだった。

そして、二人は特に不信が根深い。
今の組織の状態を保つために、互いに互いを信用せず、憎しみあっている間柄の彼らが、組織の中枢で傷つけ合うのを避けねばならなかった。



そしてそれは、本当に愚かしい過ちだった。
全てが終わって、…13年後にシリウス・ブラックが脱獄してから明るみに出た真実は、かつて以上に知った者達を傷つけた。


―――間に合ったかも知れないのに。
―――いや、確実に間に合ったはずなのだ。

あの時、もし全てを明かしていれば。
腹のさぐり合いなどせずに、相手を信じたのならば。

シリウス・ブラックは、『秘密の守人』をこっそり代えていたことをダンブルドアに告げなかった。
セブルス・スネイプは、『秘密の守人』候補…グリフィンドールの三人を名指しで死喰い人に勧誘させしめたことをダンブルドアに告げなかった。

そしてアルバス・ダンブルドアは、配慮と称して二人の嘘を暴かなかった。


  *  *  *


誰がダンブルドアを責められよう。
不和と敵対関係を蔓延させるヴォルデモートという存在を激しく警戒した彼を。


罪人は自分だ、と二人は思った。
そして同じ強さで相手を憎んだ。
突き詰めれば、その憎しみすら、行き着く先は自分自身だった。

「結束を」

今度こそ過たぬために、ダンブルドアが呼びかける。
苦い記憶を呼び覚ましつつ、彼らは再び向かい合うことになった。

「わしは二人とも信頼しておる」
ダンブルドアが言う。
「そろそろ二人とも、昔のいざこざは水に流し、お互いに信頼しあうべき時じゃ」

ハリーは奇跡とそれを形容した。
その通りに、信頼などは不可能だろう。
彼らは互いの愚かさを憎んでいる。

それでも彼らは結束しなければならないことを知っていた。
おめおめと生き延びたからには、真実を知る者の責任を果たさねばならない。
…それが手向けでもある。


ゆっくりと、睨み合いながら手を握り、即座に放す。


互いの手の感触。
その後味の悪さは、未来に対する警鐘に違いない。
二度と愚挙を犯さないために。


  *  *  *


偉大なる魔法使いの呼びかけで、再び多くの者が集うだろう。