『自己愛』
階段を上りきった少女は、呆気にとられた表情で、その先を見つめることになった。
驚いたことには驚いたが、それは驚嘆や感歎とは全く異質のものだった。
空気の壁に塗り込められたような、退くことが許されぬ衝撃。
微塵も期待などしていなかった、万に一つのような可能性に巡り合ってしまった驚き。
彼女は出会ってしまった。
ただそれが衝撃だった。
だから、その事実に意味付けするのには、少しの時間を必要とした。
状況を理解するまでの十数秒、彼女はずっとぽかんと口を開いたままだった。
これほど長く思考回路が止まったのは、彼女の一生のうち初めてのことであり、また最後のことでもある。
授業以外では使われない天文塔を私的に利用している生徒が、自分の他にも数人いるのを彼女は知っていた。
それぞれ配慮があるらしく、擦れ違うこともかち合うこともなかったが、こーゆーことは気配で分かるのである。
しかし、まさか顔も知らぬ共犯者の中にルシウス・マルフォイが名を連ねているとは思いもよらぬことだった。
そして、まさかここで出会うことになろうとは。
まさか、泣いていようとは。
実際のところ、真相は不明である。
しかし、石の窓枠の下に身を縮めるように座り込んでいるその人は、見るからに痛撃に打たれた後だった。
広い片手で顔を覆う。
その上から長い髪がこぼれ落ち、憔悴という表現がぴったりだった。
苦痛か悲嘆に耐えているか、それとも絶望に身を浸しているのか。
どちらにせよ、誰の人生においても滅多にあることではない。
興味本位で首を突っ込んでいいことでもない。
しかし、見なかったことにして踵を返すには、相手に対しての興味がありすぎた。
なにしろ、ルシウス・マルフォイである。
魔法界において、マルフォイの名を知らぬ者はない。
無論ホグワーツにおいても。
この銀の髪の最上級生に関心がないスリザリンはいない。
例に漏れず、彼女もルシウスに興味があった。
監督生である彼は、同寮の下級生であるが故に、彼女の名前くらいは知っていただろう。だがそれ以上ではありえない。
存在するのは常に彼女からの一方的な興味であり、一方的な羨望だった。
繰り返すが、マルフォイである。
名高き旧い家柄である。
ナルシッサの名は史書に残ることはなくとも、ルシウスの名は必ず記録され、後世に伝えられるだろう。
そのくらい、少女と彼の間には隔たりがあったのだ。
ナルシッサは、よく愛想無しと言われる子供だった。
両親の受けはよくなかったし、同室生も「何か壁があるのよね」と肩を竦める。そんな生徒だった。
しかし、彼女とて人生楽しんでいるのである。
端からはそうは見えないだろうが。
毎日が楽しい。
毎日着々と時間の針が進んでゆくことが楽しい。
時代が動いていることを感じるのが、彼女の一番の楽しみだった。
今のところ誰とも共有できない、孤独な趣味でもあるのだが。
そして目の前にいるのはルシウス・マルフォイである。
歴史の渦中にいる人だ。
まさしく、渦中にいる人だ。
そんな人が傍にいて、動いて喋って同じ空気を吸っている。
他の多くの少女と明らかに異なる理由から、けれども同じように心をときめかせながら、彼女はルシウスを観察<>・・していたのである。
さて、どう話しかけるべきかしら。
彼女はもう決めていた。
この機を逃してなるものか。
たとえ手討ちにされようが、こっぴどく無視されようが、これは巡り合わせなのである。
千載一遇を目の前に示されて、行動しないなどとは歴史の神がお怒りになるのである。(彼女は無神論者だ)。
小娘の浅慮の末の行動でいい。
この一言のせいで命を落としてもいい。
わたしは今ここで行動せねばならない。
そこに渦の中心があるのだ。
手を伸ばせば届きそうな距離に。
「今晩は」
その言葉は、洗練された表現にはほど遠く、少女は内心落胆した。
やっぱり、普段から会話をしない人はダメね。
あまりの拙さに、彼女は自分の希薄な交遊関係を見直そうとまで思ったくらいである。
しかし、どんな一言でも、訪問者の存在に気が付いていなかったルシウスには同じ事だった。
彼は顔を覆った指の隙間から、夜の挨拶を投げてきた相手を覗いた。
伏せた顔の白い指の置くからギロッと片目が動き、彼女は思わず身震いした。
…絵になる人。
ナルシッサにとって、この監督生は常に観察<>・・>の対象なのである。
髪を掻き上げたルシウスは、疲労を隠そうとはしなかった。
一度目を開いて、同じ速さで伏せる。
「何の用かね」
「なにも」
とん、と両足で足踏みし、彼女は背中の後ろで指を絡める。
「わたし、あなたに用はありません。ただこの場所を使いたかっただけで。退いていただけますか?」
目一杯の笑顔を作って、言う。
ルシウスは指一つ分、顎を上げた。
無理もない。
彼に向かってそんなことを言うのは、あのアーサー・ウィーズリーを除けば彼女が初めてだろう。
「私は邪魔かね?」
「邪魔です」
「…ナルシッサ、だったな。スリザリンの二年生」
「あら、ファーストネームまで覚えていただけて」
「ここは立入禁止の場所のはずだが」
「ええ、同罪ですね」
ころころと笑う少女にルシウスは何を思っただろう。
魔女特有の不気味さか。
それとも少女だけが持つ不可思議さか。
さくさくと会話を進めながら、彼女は自分の言葉の鋭さに驚いていた。
確かに憧れだったのである。
姿を見るたびに心が躍った。談話室での会話を、他の女生徒たちとこっそり盗み聞いたこともある。
恋に近いと思っていた。
しかし、結局のところわたしはこの人を観察したいらしい。
一番身近に生まれた史上の人物として。
傍にいたい。見ていたい。憧れる。
けれども、わたしがルシウス・マルフォイに捧げるものは、観察の末の批評でしかない。
だから、こんなにも簡単に、素っ気ない言葉が出てくる。
がっかりだ。
歴史の渦中に手を伸ばす二度とはないだろう機会に、わたしはわたしであるが故に媚びることが出来ない。
本当は、どんなに言葉を尽くしてでもこの人に気に入られて、傍にいられる資格を手に入れたかったのに。
けれど目的が観察である以上、結果として出てくる台詞は常に平淡だ。
無愛想と非難されるのは、自分に正直に生きてきた結果だと思っていたのだが、今になってそれを後悔する。
歯が浮くような社交辞令が今この口から出ないことに。
しかし、何故かナルシッサの口調はルシウスの琴線に触れたらしい。
「―――君ならば」
どんな心境の変化があったかはわからない。
けれど、座ったままのルシウスは、加えて少し顔を上げた。
やっと見下ろす彼女と視線が合う。
「君ならばどう思うか、知りたい」
「何をですか?」
「…………」
再びルシウスは目を伏せて首を振った。
表情のない顔が、何よりも苦しみを語っていると思う。
「斯くも酷い裏切りを、私は知らない」
切れ切れに嘆きと怒りを繋げる。
「サラザール・スリザリンはホグワーツを出ていった」
「秘密の部屋という伝承を残して」
「何故?」
「何故彼は出ていった?」
「何故戦わなかったのか」
「杖持て戦い、ホグワーツを支配しようとしなかったのか」
「彼は逃げたのだ」
「初めから」
「とんでもない裏切りだ」
「純血主義を唱えながら」
「何故そうしたかと思うと、私は腹が立つ」
そこまで聞いて、彼女はやっと彼の言わんとすることがわかった。
同時に、心が震える。
指先までにしびれが伝わるほどに。
やっぱり私はこの人を見ていたい。
サラザール・スリザリンの裏切り。
初めて聞いた。初めて見つけた。
この、純血主義を掲げるマルフォイの当主になるべき人が、それを見つけた。
これほどの岐路があるだろうか。
「…貴方がそれを裏切りと感じるのは、貴方がそう思いたいからでしょう」
サラザール・スリザリンは他の三人の創設者と意見対立し、ホグワーツを去った。
「史実は一つ。けれど解釈は人の自由」
闇の魔法に長けた彼が、その力を振るおうともせず。
「他の可能性だってある。でも貴方はその中から自分が信じたいことを選んだのだわ」
三人の生きている間には発動しない秘密を残して、一人消えた。
「サラザール・スリザリンの心の内なんて誰にもわからないのに」
純血主義を提唱したその責を負わず。
「ただ臆病だったのかもしれない。勝ち目のない勝負はしない人だったかもしれない」
己の名を冠した寮を残したまま、逃げた。
「それでも貴方は、スリザリンが他の三人を殺せなかったのだと考えるのなら」
彼は争わないことを選んだ。
「私たちは捨てられたのだと、貴方が思うのなら」
残された我らが彼の遺訓を信じ、叶えようとするのは何と滑稽なことではないか。
「貴方がスリザリンを思いを叶えられぬのではなく、スリザリンが貴方の思いに叶わぬ人だったと感じるのなら」
それに気付いてしまったから。
「貴方は失望したかったのではなくて?」
やっとそこから、自分の道が始まる。
ルシウスはひどく驚いた表情で、少女を見上げた。
今度こそ、真剣に。
真正面から見据えた。
灰色の双眸を綺麗だと思う余裕は彼女にはなかった。
―――やはりわたしはこうでしかない。
この人に付いていきたい。傍にいたい。見ているために。
確かめたい。
これが歴史の境目かどうか。
絶対、ここにいれば、わたしの見たいものが見られるはず。
「わたし」の。
自分は自分だから、曲げることは出来ないと思った。
でも、どんなに媚びえてでも、この人に付いていくべきだと思った。
わたしの研究課題だ。わたしの一生の。
どうか見ていさせて。
そのために、いま、貴方に甘く媚びたい。
そんなことば、思い付きやしないくせに。でも、それでも。
…何故今まで人に迎合するということを学ばなかったのだろう。
内心とは裏腹に、彼女は微笑みを崩さなかった。
それを顔に張り付けておくこと以外に、出来ることがなかったから。
本当は泣きたかった。
なんて大損なのだと。
彼女の葛藤をよそに、ルシウスは立ち上がり、制服の埃を払った。
手櫛で髪を梳き、ゆらっと一度首を回す。
「ミス・ナルシッサ。一ついいかね?」
「ええ。一つでも二つでも」
「私と結婚して欲しいのだが」
「ご冗談を」
おっとり笑っているように、彼には見えたろうか。
「確か、貴方には婚約者がいらっしゃいました」
「そのあたりは十年ほど経てば何とかなっている予定でね」
身をかがめ、膝を折り、少女の指先に口付ける。
「…わたしはわたしのためにしか生きないわ」
「奇遇だな。私もだ。だから、これは私の都合でね。君の都合が合うのなら返事を頂きたい」
「今ここで?」
「私の都合だからね」
「それでは、“承りました”」
「ありがとう。お互い都合がついたことは望外の幸運だ」
「つーかさー。どーしてそう淡々と話が進むわけ? 何? それってスリザリン流?」
ルシウスは振り返り、先刻まで自分がいた場所の一歩分左隣に座っている男を見下ろした。極めて高圧的に。
「そういえば、いたんだな。お前も」
「お互い校則違反ですから、共犯者ですわね」
「…絶対あんたら会話が噛み合ってないと思う」
「そんなことはない」
「そうかねえ?」
「この件は他言無用だぞ」
「わかってるって。マルフォイのお家騒動に巻き込まれるなんてまっぴら御免だね」
「馬鹿め、私が騒動になるようなヘマをすると思うのか」
「ないだろうな。ええと、ナルシッサ、だっけ? よくわからんが、とりあえずおめでとう。こいつ頭はいいけどアホだから色々大変だろうけど、まあ君一人くらいは幸せに出来るだろうさ」
赤毛の他寮生は、皮肉を込めて少女に笑いかけた。
それから、やおら表情を一変させ、同級生に向き直る。
「それと、ルシウス。お前にも一言言っときたい」
「なんだ?」
「ロリコン」
この後の話は、敢えて割愛させていただく。