『若葉』
廊下の角を曲がるとスネイプが立っていた。
身構える間もなく、視線がかち合った。灰色の双眸だけが正円を保ち、それを中心に視界がぐにゃりと歪む。
しまった…!
瞬きする間もなく、周囲の景色は一変した。
そこはもはやホグワーツの冷たい石の廊下ではなく、柔らかな月と湿った空気を持つどこかだった。
左右には広葉樹の並木。紺碧の空に朧月。そして降雪。
「違う。雪ではない」
スネイプが言う。
確かに冬にしては空気は緩んでいて、雪にしては落下する軌跡がおかしかった。
ひとつ、ひらひらと舞い落ちる花弁を掌で受ける。
それをまじまじと見つめようとすると、視界はどんどん霞んでいく。
見ようとすればするほど、見えなくなる。
……ああ、幻覚ね。
* * *
「85点」
「低い!」
下された評価にセブルスは不満を訴えた。
「百点満点で85だなどと、評価が辛すぎる」
「ううん。五百点満点で」
ジェームズは言い放った。
さらっと断じるそのセリフに、セブルスは拳を握りしめる。
「ほう…。どのへんが減点対象なのか、教えていただけますかね?」
「映像に特化しすぎていて匂いがない。細部まで具現しきれてない。立体感がイマイチ。てゆーか、色これ透けてるでしょ。バレバレ」
すぐ脇にある木の幹を、彼は一瞥した。
つまんだ花弁をそっと唇で挟む。
「うん、触感は花びらのものだよね。なかなかよろしい」
「喰うな」
「あはははは。味しなーい」
「味覚までつくってるわけが無かろう。せいぜい部屋一つ分。この範囲を視覚化するので手一杯だ」
それだって随分な技なのだが、ジェームズは妥協しない。
彼にとっての「悪戯標準ライン」は非常に厳しいのだ。
「再提出は来週まで。ま、わりと面白かったよ。それじゃ、とっとと解いてくれる?」
つい、と眼鏡を押し上げながら彼は言う。
その仕草には少々照れ隠しが入っている。
不本意にもジェームズは仕掛けに引っかかってしまった。
ここ最近のセブルスは、過去に類を見ないほど大人しかったので油断していたのだ。
なんの気構えもなく廊下を曲がるなんて、気が緩みきっていたとしか思えない。
普段通りの警戒心があれば、こんなに安易に術中に落ちるはずはなかったのに。
「僕は急いでるんでね」
「申し訳ないが、私にこの魔法を解くことは出来んのだ」
さてどうするね、ジェームズ・ポッター、と。
まるで死刑宣告でもするように、陰険さを全開にした微笑を向けるセブルス・スネイプの首をどうにかして絞められないものか。
ジェームズはうっかり本気で自分の握力を確認してしまった。
「…解けないって?」
「私にはな」
彼は肩を竦める。
“私には”ということは――
「キーワード?」
「流石、察しがいい」
セブルスは、らしくもなく指をパチンと鳴らした。
よほど嬉しかったようだ。
きっと、すげーヤな言葉が設定されてるに決まっている。
解除ワードに思い当たる節はないが、セブルスの性格の悪さをジェームズは信じていた。
「冗談じゃないぞ。誰が言うか」
「言わなければこのままだ。永久に。私もお前もな」
「…ちょっと待て。君も? 見えてるのかこの風景」
「当然だろう? 苦労して作ったのに、自分が見えないのでは意味がない」
「アホか! 自分が作った幻覚に自分が巻き込まれてどーする!」
「わかってはいたが、つまらん奴だな貴様は。こんな景色、一人で見てどうする。…それから。あくまでここは廊下だ。大声で叫ぶのは皆の迷惑ということを忘れないように」
最後の言葉だけは、マクゴナガル教授の物真似だ。
かなり上手い。
いや、そんなことはどうでもよくて。
「不特定多数が行き来する場所に幻術を仕掛けるなっての!」
「そうか? この前、ケトルバーン教授が亜熱帯にはまってたとき、勝手にそこらの教室をジャングルに変えていたじゃないか。アレと同じ事だと思うが」
「あーそんなこともあった。あの時のはすごかったよな。蒸し暑さとか、匂いとか、スコールまで再現されてたもんな。すっげー迷惑。ついでに動物まで放っちゃってさ。勘弁して欲しいくらい完璧だった。――とすると、やっぱ君のはしょぼいよな」
ジェームズはすいっと左手首を回して、頭の上に降り積もった花弁を払った。
セブルスの右手は怒りで痙攣していて、彼はそれを押さえ込むのに必死だったようだが、表情はあくまで笑顔である。
そういえば、同じ頃だった。
ふと思い出す。
そう、確か『薬草学』の時間だ。
ジェームズが失言をやらかしたのは。
* * *
「大体、言ったのはお前なんだ」
「あぁ、うん。今思い出した」
一斉に散る花って、見てみたくない? そう呟いたのだった。
「ならば、こちらの意を酌んで欲しいものだよ」
「………」
確かに言った覚えはある。
だが、ジェームズは「見たい」と洩らしただけで「見せてくれ」と言ったわけではない。
改めて辺りを見回す。
壁があった場所には太い幹が、抱えきれないほどの淡い花を支えていた。
頭上に目を凝らせば、遙か暗闇の奥から、‘それ’が舞い落ちてくるのがわかる。
薄紅色の花弁。
それらが、ひらひらと舞い降りて、床を覆っていた。
天気に例えるならば、現在は吹雪かつ10センチの積雪である。
足下を覆い尽くして、更に降り積もっていく淡色。
「苦労はしたぞ。極東から資料を取り寄せて、平面を立体化させて情報を盛り込むのにどれだけ手間と経費が掛かったか」
「経費?」
なんだか、周囲の雰囲気と合いそうにない俗な話である。
「166ガリオンほど」
「は!? 高すぎだってそれ」
「九割は私の時給だがな」
「…ちなみに、時給いくら?」
「5ガリオン」
「ぼりすぎー。…ってか、え? てことは、一週間近くも掛かり切りだったのか、これに」
どうりで、ここ最近見かけなかったわけだよ。
部屋に籠もってこつこつ研究してたってことかい。ホント、こいつって好きだよなそーゆーの。
おかげさまで術者共々幻覚の中に閉じこめられて、出ることができない。
解除方法は初めから術者によって限定されている。
キーワードだ。
お前の言葉でなければ解けないよ、と彼は言う。
ざまあみろ、と笑う。
わかっている。彼は報酬が欲しいのだ。
ちくしょー足下見やがって。覚えてやがれ。
「It’s beautiful!!」
* * *
やけっぱちな気分で叫ぶ。
「ああとても綺麗だとも! わざわざこんな僕のためにありがとうございます。スネイプ様! どうかここから出してください! ついでに、一発殴られてくれると尚嬉しいです!」
おまけとして右ストレートを繰り出したが、これは避けられた。
そのころには、部屋を埋め尽くしていた薄紅は溶けるよりも早くに霧散し、最後のひとひらすら残らなかった。
「…少し勿体なかったか」
「そうだね。惜しかったかも」
そこはもう月の光も差さない。松明で照らされた重苦しい石の廊下だった。
幻だとはわかっていても、先刻のこの場所は四方にひらいていたのに。今は。
「美を惜しむ心がお前にもあったとは、意外だったな」
心底がっかりしたように、セブルスは不平を洩らす。
「君が僕をどう思っているのか、よーくわかったよ」
ところで、とジェームズは付け加えた。
「結局、どれが当たりだったわけ? “Thank you”? “Please”?」
「いいや」
セブルスは首を振って、極つまらなそうに言った。
「It’s “Beautiful”」
「…そのキーワードを設定するセンスが君にあったとは意外だったよ、うん」
「お前が私をどう思っているか、よぉくわかったとも」
* * *
セブルスは割れた眼鏡を拾い上げ、魔法を掛ける。
ジェームズは、散らばった紙束を一枚一枚拾い上げながら、腫れた頬をさすった。
「さっきの木は、」
不意に、セブルスが呟く。
「一斉に開花し、一斉に散って、一斉に青葉になり、一斉に色づいて、冬には全ての葉が落ちる。そういう木だということだ」
「それはまた、なんともはや」
「豪快な花だろう?」
別れ際。
眼鏡を直し、散らばったレポートをかき集め、切れた唇を舌でなぞり、千切れたボタンの行方を捜し、
好ましい、と最後に笑い合う。
前だけを向いて歩く少年たちには、一斉に咲いて一斉に散る花は、強く潔いものとしか映らなかった。