『騎士』


尊敬する人物は?

そう問われたとき、ビルは少し考え込んでから、「アーサー・ウィーズリー」と答えたのだった。


 *  *  *


彼は今年、ホグワーツの最上級生になった。
寮は一族揃ってグリフィンドール。
騎士道よろしく勇猛果敢…とまではいかなかったが、彼はグリフィンドールのもう一つの特性(即ち無茶と無謀)をそこそこに押さえ込んだ人当たりのいい生徒である。
成績は常に上位で、今年は主席を取り、飛行術の成績も悪くはない。
加えて容姿も不自由なく、友人からも後輩からも“教師からも”好かれている。

つまるところビル・ウィーズリーは、純血の名門一家の長男として家名を落とさない程度には優秀な青年だった。




「それがどうだと言うんだ」
一族の遺伝である真っ赤な燃えるような髪を掻き上げて彼は言う。
「グリフィンドールだとかウィーズリーだとか、そういう分け方は全然役に立たないんだよ。僕は僕に問いたい。僕はいったい何なのか―――」


「ならば答えん。汝はサー・ウィーズリーである!」


灰色の仔馬から落馬したばかりの騎士が、鎧の音を響かせつつ、絵の中から叫んだ。


 *  *  *


曰く「いかれた騎士の絵」と、彼が出会ったのは七年生の秋のこと。


休暇が明けて新学期。
とうとう最高学年になってしまった僕らに、そろそろマクゴナガル教授がお説教を始める。

「さあ、皆さん。進路の希望は決めましたか? 例え名門と呼ばれるホグワーツ出身だからといって、全てが希望通りにいくと思ったら大間違い。この一年の努力が全てを決するのですよ!」

寮監として、変身術の教授として、ホグワーツの副校長として、彼女はキリキリと僕らを勉強へと駆り立てる。
けれど教授。その「希望」がない場合はどうしたらいいんでしょう?

何をしたい。何になりたい。そんな希望が一切ない僕は。



流石に新年度初頭から主席の生徒が寮監を煩わせるのもどうかと思い、心中を誰にも告げずに次の授業の教室へ。
「占い学」は北の塔。
晴れない気持ちを抱えたまま、がりごり動く気まぐれな階段を上っているうちに、体以上に心が疲れてきた。
歩きながら、どうでもいいな…と思った。

グリフィンドール生。主席。ウィーズリーの長男。
それ以外に僕を形容する言葉があるだろうか。
それらを抜きにして、一体僕が何処の誰で何者なのか、語れるだろうか。
人当たりがいいというのは、当たり障りのない生き方をしているからではないのだろうか。

―――だから、結局何も残らない。

そう思ったら、歩く気が失せた。
徐々に足は重くなり、とうとう八階の踊り場で動かなくなる。
生徒のやる気の無さを察したのかどうか、下に降りる階段はごごごごごと軋んだ音を立てて沈んでいってしまった。

「ま、いっか」

遅刻だ。
いや、むしろ自主休講。
今日はもう、勉強する気になれない。

冷たい床の上に座り込んで、目の前に掲げられた草原の絵を見る。
のどかな、どこまでも広がる草地には灰色葦毛の仔馬がしっぽを振りながらとことこ歩いていた。

平和。
空が青い。
何もない草原。

そんな場所へ行ってしまいたいたかった。




が、次の瞬間空虚な気分は吹き飛んでしまう。

「やぁやぁ、汝は何者ぞ! 我が領地を侵したる悪党め!」


灰色のずんぐりポニーに乗った小さな騎士が、ビル・ウィーズリーの気怠い憂鬱をぶち壊しにしてくれた。


 *  *  *


「だから僕は思ったんだよ。これって長男特有の悩みじゃないかって。でも、父さんはそうでもなかったみたい」

ビルは階段に腰掛けながら、枠の中の草原に向かって話していた。
今日のカドガン卿は、三度目の落馬の後、灰色の仔馬に逃げられてしまっている。
「我が乗馬を捕らえるのは後日にいたす」と初老の騎士はふんぞり返った。

「おお、卿は嫡男であるか! ならば土地と民とを継がねばなるまい!」
「うち、そーゆーものはないんで…。継ぐものと言ったら、せいぜい自宅かな? でもアーサーがいるし、僕はきっとあの家を出ていくことになると思う」
「父は息子を追い出されるか! なんたる悲劇! さらば立ち上がるべし!」
「…え? ああ、そうか、それが嫌だったのかな」

カドガン卿の物事の捉え方はいつも大袈裟であり、加えて的はずれだったが、ビルはそれを楽しんでいた。
時たま、ヒントになるような言葉をくれることもある。

「僕は家を出たくないのかも。…まぁ、別に無理に出なくてもいいんだけど。けど、出なければならないような気がするんだ。何故だろう?」
「げに恐ろしきは魔の呪い。汝が蒙昧を打ち払い、競って立つのを我は助けん!」
「いや、そーゆーことじゃなくてね」

思えば、最初から人の話を聞かない人だった。
いや、肖像画だから正確にはヒトではないのだけれど。
「ここでちょっと休んでるんです」と、そう言ったビルに「決闘者ではなかったか! 然からば我が朋輩よ。ここでしばし翼を収め、再び飛躍の時来たらば、我何処までも供をせん」と、熱く叫ばれて、やや逃げ腰になったのはつい最近のことである。
以来、彼は放課後になるとちょくちょく人の輪を抜け出しては、この絵の前に来ていた。
この時代錯誤で勿体ぶった格好悪い騎士が、何故か好きだった。


彼はビルのことを「朋輩」と呼ぶ。
目に入った瞬間に決闘しに来たと決めつけた自分を、である。

他人の話を聞かない人だ。
この人は、誰にでも決闘を挑み、誰もを朋輩と呼ぶのだろう。
そう思うと少しホッとした。
前者の行為は羨ましかったし、後者は自分に似ていた。


彼はこの年になるまで、喧嘩というものをした覚えがない。
むしろ兄弟間の喧嘩を止めるのが彼のポジションだった。
学校では、標準的グリフィンドール生としてスリザリンに対して一通りのイヤミを言ったことはあるが、特定の誰かと口論になったことはなかった。

型通りの優等生だった。
長男で主席。なんでもわりと出来る方。
でも、勉強は好きってわけでもない。

ただ、僕は「お兄さん」だったので。
なるべく両親に負担を掛けたくなかった。
だから出来る限りのことはした。――それだけ。


「カドガン卿。貴方には家族はいる?」
「左様。この草原の、向こうの山のさらに向こう。我が家に皆は揃っておる」
「いいねぇ。僕も絵の中に住みたいよ」
「なんと、生きている者よ! それは口にするを許されざることなれば」
「貴方こそ、絵のくせをして随分と元気だね。毎日は退屈じゃない?」
「我の先にあるは指命。覇気を失うは重罪なりて!」
「その指命、誰が決めたのさ」
「無論我である。我が望む故に我はここにあり。さあ、いざ進みたり。生きている者が留まることは許されぬ! 汝らが足を止めるのは、道先を決めかねているときのみ!」
「………はぁ?」

イカれた人だ。

そんな「問題アリ」の絵やゴーストはホグワーツには少なくない。
彼はやかましいから、きっとこんな人気のない踊り場なぞに追いやられているのだ。
管理人のフィルチが渋々と絵を運んでいる様を想像してくすりと笑う。



「己が何に成り得るかは、己が何に成るを望むかに掛かっておる。汝の尊敬を受ける御仁はいずこにおわす」


大声で聞かれて、ビルは少し考え込んでから、「アーサー・ウィーズリー」の名前を挙げた。


 *  *  *


「ビルは良い子ね。それに比べてあのそっくりさん達はどうでしょう? 今から将来が心配だわ」

母は口癖のように、家でそれを繰り返す。
確かにあの双子達の勢いは尋常ではない。二人で家中を引っかき回して笑っている。
そんな彼らに比べたら、ビルもチャーリーもパーシーも、両親にこれといった面倒を掛けたことがなかった。
個々の性格もあるだろうが、多分それは自分たちが「兄」だったからだ。
ただでさえ大家族を支えるのに苦労している両親に、これ以上負担を掛けたくなかった。
その中でも、長兄の自分は最も無難に全てをこなしてきた。

けれど思う。
僕が例え成績が悪くたって、素行がちょっと頂けなくたって、きっと両親も家族も変わらず愛してくれたろう。
欲しいのは見返りではなかった。
ただ、父と母と弟たちと妹。彼らが少しでも幸せであってくれれば良かった。
僕が入学する前後の魔法界はとても揺れていて、暗い時代で、子供心にそれがわかって、だから僕も何かしなくてはと思ったんだ。

それが勉強すること、だったわけだけど。


結果、OWLで12ふくろう。

皆はとてもとても喜んでくれた。特にパースは鼻が高そうだった。
僕のようになりたいとあの子は言ったよ。


「でも、僕は僕のようになるということが、果たしてどういうことなのかわからないんだ」


卒業したら、魔法省に入って欲しいと母が思っているのを知っていた。
父は好きにしなさい、という。
父を見る限り、役所はやりがいのある職場のように思えた。
仕事(と趣味)に半生を捧げる父の姿は、自分にとっても誇りなのだ。


けれど、僕にわかることは、僕が魔法省に入りたいと思っていないということだけ。


「好きにしていい」という父も、代わりの道を示してくれる訳じゃない。
母には内緒でそれとなく話を振ってみたけれど、アーサーは困った顔でこう言うのだ。
「それはな、ビル。お前が決めることなんだよ」
彼の部屋にはマグル製のガラクタが溢れていて、その中でも一際多いのが「電池」というやつで。
父は幸せそうに、一つ一つに「錆びない魔法」を掛けていた。

終わらない作業を手伝いながら、どうにも自分は彼ほどマグル狂いにはなれないと感じた。
同時に、母が僕を魔法省へ入れたいという気持ちもよくわかった。
変人揃いで有名なのだ。ウィーズリーの血統は。

別にそのことを負い目に思っちゃいないけど、それでも役人というきっちりとした役職についていたほうが“まだ”羽目を外せない。
結局モリーは、僕がアーサーのように「己の道」を突っ走ることにブレーキを掛けたいらしい。
(実際のところ、彼女だってかなり我が道を歩んでいるのだけれど。ロックハートのブロマイドをこっそり持っていることを僕ら兄弟はとっくに知っていた)


「まぁ、それはそうとして。ビル、そろそろガールフレンドは出来たかね?」

年頃の息子をからかう定番文句を向けてくる父を、「いません」と一蹴して部屋を出る。
扉の傍には双子の弟が控えていて、「ビル兄なら引っかけ放題だよな」「な〜」と首を九十度まで傾けた。(引っかける、の意味をわかってるのかこのチビさん達は)



そしてその絵に出会ったのだ。


 *  *  *


チャーリーは今年で六年生。
グリフィンドールのクィディッチ・チームの花形だ。勿論本人も呆れるばかりのクィディッチ狂だが、実は魔法生物にも興味がある。
「飛行術と、魔法生物飼育学と、どっちを優先させよう?」
彼の相談に乗りながら、夢中になれるものが二つもあるなんて羨ましい奴だ…と思った。

パーシーはまだ九歳。
僕はしょうらい博士か大臣になるんだ! と野心家っぷりをアピールしている。あの年での宣言にはちょっと怖いものがある。

フレッドとジョージは自分の好きなことをわかりきってる。
七歳にも関わらず、既にその非凡なる悪戯の才能は花開いていた。いや、これからどんどん成長するだろう。(母さんの爆発回数も相当増えるに違いない)


…そして、僕には何があるのだろう。
弟たちのように、探求したい何かがない。
父のように、これをしたいのだと言いきれるものがない。


「僕は何故グリフィンドールなんだろうなぁ」
入学した年、組分け帽子が歌ったのを思い出す。


『グリフィンドールは汝らに、勇断こそを望みたり』


「僕には決断力がないのに」
「なんと! サー・グリフィンドールの使徒たる者が!」
「何と言われてもねえ…」
「ええい、そのような腑抜け。我が剣で成敗してくれる!」
「その剣、長すぎると思うよ、サー。あ、ほら、やっぱりこけた」

重すぎる鎧と長すぎる刃。
小さな騎士は大変だ、とビルは笑った。

「侮辱いたすか!」
当然、カドガン卿は怒りも顕わに絵の中から飛び出した。
ガチャガチャと、踊り場に鎧の音が響く。
多分見えないけれど、今僕は斬られているのだと思う。

「だけどね、サー。不恰好なんだよ、貴方は」


 *  *  *


「我が力は求められた! 逃げまどう民草を救わんと、我は全力で馬を駆った。ゆめ忘るるなかれ。我が最強の敵さえも、我が心挫くこと能わず!」
「で、ドラゴンは退治できたの?」
「うむ。馬から落つること八度、剱を落とすこと十四度。救済を求むる者に巡り会うは是宿命なり!」
「鎧が大きすぎるんじゃない? 重すぎるとか。そのポニーには可哀相だよ」
「そう、我が鎧。竜の牙をも跳ね返す! しかし、其を披露する機は永遠に失われた!」
「………もう倒されてた?」
「その通り。我が足は間に合ったのだ」
「間に合った? 間に合ってないでしょ」
「間に合っていないというのは、竜が倒されず世に破壊をもたらしたときのみ。我が辿り着いたときには竜はもういなかった。我が足は間に合ったのだ」
「はぁ?」

どうして彼はそうポジティブ思考なのか。
それは恥ではないのだろうか。

違うのだろう。
誇らしそうに、危機に間に合わなかった(彼的には「間に合った」)話をする。

重すぎる鎧と長すぎる剣。
彼は不恰好だ。

けれども、決して不様ではない。
彼には誇るべき根拠があり、誇るべき生き方をしている。
天地に誓って、恥じることは何もない。

たとえ的はずれな信念でも、自分への確信をもっている彼が堪らなく羨ましいと、ビルは思った。


カドガン卿は空虚を飼っていない。
「どうでもいい」や「何もない」などとは決して考えない。
…そんなのは思春期特有の悲観主義なのだろうか。
からっぽだと、空しくなるのは、むしろ子供じみた感情なのだろうか。


そして、父を思い出す。


彼は強い。

心が。


何でもない日常を、あれだけ愛す人を僕は他に知らない。
毎日が楽しくてならないというように。

辛いことがないはずはないのに。
それでもアーサー・ウィーズリー氏は、苦労も疲労も全てひっくるめて人生を楽しいと言う。

僕も彼のようになれるだろうか?

同じウィーズリーの長男だというのに、どうしてあの人と僕は違うのだろう。
あんな風に生きたいのに、僕はそうなれないような気がする。


 *  *  *


「僕、エジプトで、『呪い破り』をやってみたいんです。教授」

寮監のマクゴナガルにそう告げると、彼女は複雑な表情を作った。

「それはまた…。呪い破りは大変危険な職業ですよ」
「そう聞いています。僕には無理でしょうか?」
「いいえ。貴方になら出来るでしょう、ビル・ウィーズリー。けれど、外国は、何かと大変ですよ?」
「ええ、教授。わかっています。でも、僕は家を出てみたいんです」


家族から離れてみたい。
僕が唯一大事だと思えるものから。
僕がいないあの家はどんな感じなのだろう。
遠くから、思いをはせる故郷はどれほど暖かく見えるのだろう。


「では、この仕事に興味はないということなの?」
「違います。そうではなくて、僕はただ…」


きっとグリンゴッツでの仕事は楽しい。
悪くはないはずなんだ。
やりがいだって感じると思う。
でも、夢中になれるという確信はない。
多分、「やりたいこと」とは違う。

それが何かはわからないんだ、まだ。


「僕は、色んな経験がしたいんです」


そして、何をしたいかわかったらここに戻ってくる。
僕の大切な場所。家族の元へ。


 *  *  *


「守るものあってこその騎士である!」
「いいね、騎士はグリフィンドールの象徴だ」


肖像画は人格の保存。
この人は実際に生きていた人。いや、架空の人物という可能性も。
…そして今、思いだけがここにある。

本物のカドガン卿がどうだったにせよ、この人があくまで進もうというのなら、これを描いた人がそう思っていたということだろう。

前へ進む勇気。僕には足りないものは、それなのか。


勇猛果敢なグリフィンドール。
別名は、無茶と無謀のグリフィンドール、だ。(どうやらこれは、かつてのスリザリン生が命名したものらしい)

僕ももうちょっと、打算と勝算抜きで生きてみようか。

いつか見つかるかもしれない。―――否。


見つからなくてもいい。勝ち目のある勝負じゃなくていい。リスクは低くなくていい。見返りはなくてもいい。「やりたいからやる」と、胸を張ってそう言いたい。

「自分は自分である」と、確信を持って言える日が来るように。


 *  *  *


「門出である! さらば、同胞。戦友よ。いつでも共に戦わん。再び剣を取るその日まで!」


僕が、いつ、貴方と、一緒に、何かと、戦ったりしたのですか。


よほどそう言ってやりたかったのだが、卒業前夜である。
ここはありがたく、彼のお祝いの言葉(?)を受け取っておく。


ホグワーツで過ごす最後の日、ビルは杖と額を持ってカドガン卿を訪ねたのだった。
額の中には灰色葦毛の馬が一頭、のんびりと草を食んでいる。
分厚い本から探し出した呪文を一つ。
杖を慎重に動かして、小さな額から正面の額へオレンジの光の固まりを移す。
すると手元の額の中は白紙に戻り、目の前の見慣れた草原の景色の中に、新しい馬が一頭現れた。

「サー。僕からのプレゼントです。成功しましたね。…そのポニー、ちょっとはいたわってあげてくださいよ」

ビルの移住させた馬は、カドガン卿には大きすぎて、捕まえるのも一苦労だろうけど。(むしろ絶対に逃げられると彼は踏んでいた)
この程度の意地悪はアリだろう。
僕と卿との間になら。

……一体何が芽生えたのかは知らないが。
どうやら“僕も”この人を友人と呼びたいらしい。恐ろしいことに。


「さらば朋輩! 貴殿が気高い魂を決して忘れぬ!」

「――あなたってイカれてるな。うん、これって最高の褒め言葉だよ」


白いハンカチを刺した剣を高々と掲げた小さな騎士に、ビルは吹き出すのを堪えきれなかった。