職員室事情1.5 『審判』
月曜の朝の職員室では、週間行事予定と、生徒達への諸注意が再確認される。
その後、「何かお知らせのある先生はいらっしゃいますか?」とマクゴナガル副校長が問いかけ、「ハッフルパフで起こった不幸な事故」や「七年生の図書館利用時間延長についての検討結果」などが報告されるのだ。
いくつかの簡単な話し合いが終わり、教師達が席を立ち上がり動き出し始める始業前。
その時、やや遅れてセブルス・スネイプ教授が手を挙げたのを見て、一同は「おや珍しい」と思った。
彼はスリザリンの寮監だったが、寮内で起こった出来事について、彼が報告するのは頻繁とは言えなかったからだ。
しかも、この陰気な魔法薬学教師が突然言い出した話は、職員達の予想の範疇を遙かにとんでもなく越えていた。
「だから申し上げているのです。我輩に、次回のクィディッチの試合の審判をやらせていただきたい、と」
驚きに目を見張っている同僚に対して、スネイプ教授は僅かに首を傾けた。
「そう――非常に興味がありまして」
嘘だろうそれは。
と、思わない教師はいなかった。
普段から、「魔法とは杖を振ったり飛び回ったりすることではなく、蓄積された知識と修練された技術の結合である」と主張して反感を買っている彼のことである。
一体何をとち狂って…とまでは言わなかったが、マダム・フーチが冷たく口を挟んだ。
「貴方がクィディッチに興味があるとは知らなかったわ」
「さよう。実は、ごく最近開眼いたしましてね」
そのごく最近とは、ハリー・ポッターが最年少シーカーになった最近のことだろうか。
それとも、ハリー・ポッターが見事にニンバス2000を乗りこなした最近のことだろうか。
はたまた、ハリー・ポッターがスリザリンを出し抜いてスニッチを取った最近のことだろうか。
「三択じゃな」と、フリットウィック教授が呟く。
皆の不信の目が黒髪の寮監に集中した。
次の試合と言えば、グリフィンドール対ハッフルパフ戦だが、グリフィンドールが勝てば七年ぶりの寮対抗杯獲得への王手になる。
逆に言えば、スリザリンにとっては、何としても阻止しなければならない一線だ。
「寮杯はマクゴナガル先生に勝てる唯一の分野だからなあ…」とケトルバーン老人がぼやくのが聞こえた。
「ご許可願えますかね、ミス・フーチ」
性格の悪さを全面に出しながら、彼は一同を見渡した。
ミネルバ・マクゴナガル教授は、唇を一文字に結んで眼鏡の奥から年下の同僚を見つめ返した。
彼の表情は、明らかに不本意だと語っている。
それはそうだ。
誰よりも近い位置で、彼を見ていたクィレル教授は思った。
何故、スネイプが興味もないクィディッチの審判などを買って出るのか。
その理由を彼は知っていた。
スネイプは、スネイプの大嫌いなハリー・ポッターのために、わざわざ審判まで務めようというのだ。
まったく、涙が出るね。
昔の借りを返すためには主義主張も曲げますか。は。
だが、他の連中にはわかるまい。
彼が何を考えているかなんて。
彼だって言うわけがない。
ハリー・ポッターの父親への借りを、何よりも恥じているのは彼自身なのだろう?
クィレル教授は、偉大なる主からその話を聞いていた。
何故スネイプについて詳しいのかと恐る恐る問えば、「あれはもとは私の部下だった」と答えが返った。
元デスイーターの彼が、何故偉大なるあの御方を裏切ったかは知れない。
それは教えていただかなかった。
けれど、主は言う。
「あれはポッター家に借りを抱えている」と。
…それを彼は恥じている。
なら納得だ。
クィレル教授は、かつてレイブンクローの生徒だった。
そしてスリザリンとグリフィンドールの喧嘩を見て育ったのである。
否、それらは常にジェームズ・ポッターとセブルス・スネイプの喧嘩だった。
彼らは毎日と言っていいほど衝突し、いがみ合い、華々しく火花を散らし合っていた。
曰く“借り”がいつできたかは知らないが、彼にとって、それがどれほど疎ましいことだろう。
自分の中に矛盾を抱える辛さ。
自分の望む自分になれないことの辛さは、かつてのクィレル教授を苛んだものでもあった。
偉大なるあの御方と出会うことによって解放された苦々しい過去だ。
教授はいつも通りの怯えた表情を作りつつ、心の中で嘲笑った。
無駄なことだ。無意味なことだ。
まさか連続して同じ場所で仕掛けるような、愚かな真似をすると思うのか?
それとも、念には念を入れて?
危険の可能性があるというだけで、そこまでしなければならないのか?
ならば、何かを守るということは、浪費の連続だな。
擦り切れてペラペラになってしまわないことを祈るよ、セブルス。
けれど、だとしたら、クィレル教授は、本当に何もわかってはいなかったのだ。
彼はスネイプの正面にいた。
苦虫を噛み潰したような表情をしている魔法薬学教授、そればかりを眺めていた。
だから、後ろで怪訝そうにスネイプ教授を眺める他の教師達の顔つきを見ることはなかったのである。
彼らはスネイプの苦々しい表情を見た。
そして思索する。
彼が不本意にも関わらず、クィディッチ審判を買ってでる理由は?
無論わからない。…わからない、が。
ミス・シニストラがとりわけゆっくりと首を振った。
「教授は審判が出来るほど箒の騎乗がお上手だったかしら」
ミス・スプラウトは大袈裟に溜息を付いて、言った。
「そんなに貴方はスリザリン・チームを勝たせたいの?」
ミスター・フリットウィックがコホコホと連続して咳き込んだ。
「ミスター・ポッターに何か含むものでも?」
黒いローブを纏った若い同僚を見る、彼らの目の中に浮かぶ色。
「…何のことだか」
口元に、わずかな自嘲が浮かぶ。
わかる相手だけに送るサイン。
通じた。――それがわかるだけでよかった。
ミス・トレローニーがウィンクをしながら、朗々と語った。
「まぁあ、ミスター・スネイプが審判をする未来が、あたくしの心眼に映りましたわ」
ミスター・ビンズが無関心を装った態度で、肩を竦めた。
「たまには、そう、悪くはないのでは?」
そして視線は最後、マクゴナガル副校長に集中する。
「…よろしいでしょう」
彼女は眼鏡の奥から、黒髪の教師を睨んだ。
きつく、それは怒っているように見えた。
口調はそれよりさらに厳しい。
「貴方が出来るというのなら、お任せしましょう。けれどスネイプ教授、その程度のことでグリフィンドールに勝てると思ったら大間違いですよ」
「どうも」
彼は至ってそっけなく返事をした。この場にいる全員の不信と怒りを受けて、それでも動じていなかった。
クィレル教授は、発言した全ての教師の声しか聞いていなかった。
それはスネイプの狡猾さでもあった。
クィレルが一番前に来るように、振り向かなければ他の職員達の顔色を伺えないように、慎重に位置関係を組み上げた上での発言。
そして一度始まってからは、自分の方のみに注意が向くよう、わざと大仰に振る舞った。
クィレル教授には振り返る機会がなかった。
……彼は他の職員の冷たい声の裏の、やや不自然な表情を見ることはなかったのである。
どう見ても、前回の試合中、ハリー・ポッターの状況は不可解だった。
あれが何らかの呪いであることを、口に出さずともホグワーツの教員ならわかっている。
そして、だからこそ、スネイプの行動には意味があるはずだった。
もしスネイプが犯人なら、公衆の面前で呪いを掛けたりはしない。
逆にどこか人目に付かない場所でやるべき類のことだ。
審判などやって、最も衆目に晒されるその場所でそのようなことをしでかせば、たちまち他の教員に見咎められる。
ならば彼のしようとしていることは何か。
わからない。だが、それは彼なりの結論と意味があることのはずだった。
信用―――いや、信頼。
「ルールについてご説明しましょうか?」
マダム・フーチが去り際に声を掛ける。
「いや結構」
彼はローブから緑色の表紙の本を一冊取り出して振った。
「個人的に興味があると申し上げました。…この通り、独学ですがね」
教科書の「クィディッチ今昔」である。
これは先日彼が、ハリー・ポッターから没収したものに他ならなかった。
では、と短く言い置いて彼は誰より先に、廊下への扉をくぐった。
そのすぐ後を、マクゴナガル教授が追う。
この件についての文句を付けに行くのだろうと、誰もが思った……と、一人だけが思った。
廊下を連れ立って歩く二人の教授の姿を見かけて、レイブンクローの二年生が表情を凍らせた。
スネイプ教授とマクゴナガル教授。
二大減点教師の2ショットなど、誰しもあまり見たくない光景である。
それに彼女は、「あの二人は犬猿の仲だから。不用意に近付くととばっちりを受けるから気を付けて」と、常々寮監のフリットウィック先生から伺っていた。
「セブルス。話してはくれないのですか?」
「話すことなど何も」
スネイプ教授はむっつりした表情で、廊下を歩く生徒を睨み付けた。
女生徒は、首を竦めて早足で通り過ぎる。
その姿が見えなくなった頃、もう一度マクゴナガル教授は口を開いた。
「まさかあの中に?」
「言えません」
首を振る。
「……わかりました。他の皆もわかっていましたよ。わかっていない者がいたとしたら、それは、その人物が、」
「ミネルバ」
立ち止まって、声が漏れぬよう耳打ちする。
口元に歪み。それは、皮肉を吹き込んでいるように、外からは見えた。
「私は何も言わなかった。我輩は、クィディッチの審判をやってみたかった、ということです」
「ええ、わかっておりますとも。貴方はスリザリンを勝たせるために、強引にクィディッチの審判をやるのです」
目と目の会話。
…まさかねえ。
マクゴナガル教授は溜息を付いた。
彼女は他の教師以上に、賢者の石については警戒していた。
そして闇の陣営に関しては、目の前のスリザリンの寮監がもっとも敏感であることなど百も承知だった。
まさか、職員の中に入り込んでいるなんて。
おおよその見当はつかないでもない。
あの立ち位置。
目配せをし合っていた職員の中から、一人だけ浮いていた人物がいなかったか。
一人だけが、スネイプを食い入るように見つめてはいなかったか。
「…次の試合はアルバスに出席を願いましょう。忙しい人ですけれど、きっと来てくださいます」
「御厚配かたじけなく存じますよ」
別れ際に、彼女は振り返った。
「ああセブルス」
呼び止めて、きちっと釘を差す。
「だからといって、スリザリンを贔屓していいと云うことにはなりませんよ?」
「それは困りましたな。一石二鳥だと思ったのですが」
そらっとぼけた会話を交わす彼らの耳に、本日最初の授業の開始を知らせる鐘の音が届いた。