『慣習』
「失礼します」
ノックをして扉を開けると、部屋の主である上級生がソファに身を沈めて本を読んでいる姿が見えた。
「セブルス、君か」
飽きていたのかすぐに頁から目を離し、彼は顔を上げる。
「夜分遅くに申し訳在りません。先日お預けした薬草学のレポートの件なのですが」
「あぁ。読み終わっているよ。興味深い論旨だったな」
「ありがとうございます」
ふっと普段冷たい瞳が揺らめきを宿す。
向けられた好意が嬉しくて、セブルスは僅かに顔を赤らめた。
「実に精緻な理論だ。美しいよ。君がこの学問を愛しているということがよく分かる」
「いえ…」
「これを書き上げる君が主席になれないとは、君たちの学年も因果なものだ」
ルシウスが吐息すると、セブルスは申し訳なさそうに表情を改めた。
「すみません。努力が足りないのです」
「そんなことはないな。あれが特殊すぎるんだ」
「というと、ポッターが…ですか?」
「以前教授に彼のレポートを見せていただいたことがある。発想といい、着眼点といい、ずば抜けていた」
セブルスは益々首を縮めた。
「だが好きではない」
ルシウスはひらり、と右手で空を払う。
「確かに彼は全ての分野において優れているが…良くも悪くも天才型だな。一足飛びに結論に届いてしまう。読んでいて眩いが、時にはそれが鼻につく」
彼はそのまま首を傾げた。
「まぁ、人のことは言えないな。私にも少々衒学趣味の嫌いがある。なかなか完璧とはいかない」
「そんなことは――」
口を開いた後輩に、彼は手元の羊皮紙を差し出した。
「余計なことかも知れないが、添削させてもらった。謹んでお返しする」
「あ、りがとうございますっ」
急いで駆け寄って、セブルスは大事そうに書類の束を受け取った。
「ところでセブルス」
何度も頭を下げて下がろうとした相手に、ルシウスは話しかける。
「この本を知っているかな?」
彼は、先ほど読んでいた文庫本をセブルスに提示して見せた。
「スウィフトの『ガリバー旅行記』? …存じません」
「そうか…」
「面白いんですか?」
「いや」
「………では、何故…」
読んでいるのでしょう?
聞いていいものか、セブルスは一瞬戸惑った。
それを見て、ルシウスは苦笑する。
「貰い物でな。本ならば迂闊に捨てられないということを心得ているらしい。…私はマグルの文学は嫌いだというのに、わざわざ毎回持ってくる」
「…あぁ、バレンタインですか」
一週間前の日付をセブルスは思い出した。
「あいつには面白いらしいが、私にはさっぱりわからないな。相変わらずウィーズリー家のマグルかぶれは直らんらしい」
言って彼が指を差した書棚の一角を眺めると、なるほどそこにはルシウスの部屋らしからぬ背表紙が並んでいた。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やデュマの『モンテ・クリスト伯』などなど。
「面白そうですね。マグル学の参考になりそうです」
「読みたいのなら貸そう。私は二度と読む気がしない」
「…でも今…」
「あぁ、一読くらいはしなくてはな。義務だ」
「ふるった嫌がらせですね」
セブルスがしみじみと述懐すると、ルシウスは眉を顰めた。
「…嫌がらせ?」
あ、あれ?
「ち、違うんですか?」
凝固したその表情に、セブルスは思わず一歩下がってしまう。
この人は怒らせると怖い、というか怒らせることなどあってはならない――というのがスリザリン生の共通認識である。
「……そうか、嫌がらせだったのか…」
真顔で呟くルシウス。
「気が付かなかったんですか…?」
恐る恐る尋ねてみると、彼は深く溜息を付いて首を振った。
「まさかあいつに私に嫌がらせをする度胸があるとは思わなくて」
この時、セブルスはグリフィンドールの監督生に心底同情してしまったのだが、それは生涯の秘密である。
パシッと本のページを閉じると、ルシウスは顔を上げた。
「君ならどうするね?」
ゆらりと肩から髪がなだれる。
目元が優しい。…それが怖い。はっきりいって。
後退りたくなる身を抑えながら、セブルスは書類を抱える手に力を込めた。
「それは勿論、慣習通りに」
「慣習?」
「バレンタインですから。私も毎年相応のものを――」
「ポッターに?」
「えぇ、昨年の返礼を兼ねて」
「…モットーは?」
「倍返しです!」
果たしてこれが運命の一言であった。
* * *
数日後のグリフィンドール寮で。
監督生であるアーサーの部屋を数人の後輩が訪れた時、彼は机にかじり付いて分厚い本を読んでいた。
「ちわー。先輩。なんすかその必死の形相は」
「こんばんは。ちょっとご相談があってきたんですけど…なーんかお忙しいみたいですね」
シリウスとリーマスが同時に挨拶する。
ピーターは、彼の手元に積み上げられている数冊の本の表紙を見て声を張り上げた。
「ま、『マーリン全集』!? あのイギリスの魔法使いの各家庭に必ず一セット(全32巻)ずつ揃ってはいるけれども誰も読破したことがないという伝説の―――」
「いや、伝説ってほどではないだろうが」
アーサーが冷静に突っ込む。
「まぁ、読まなくてはならない事態に陥ってだね」
彼は疲れ切った表情で溜息を付いた。
後輩達は、椅子に座ったまま振り返ったアーサーにわらわらと群がる。
「なんでこんな古典いまさら読むんすか? 面白くないっしょ」
「…貰い物でね」
「あぁ、これいい装丁ですよね。買ったら高いですよ」
「…そうなのか? もう読むのに疲れて気が付かなかったよ」
「どうしたんですか、これ」
ピーターが問う。
アーサーは深々と溜息を付いた。
「スリザリンのお偉いさんがくれたんだよ。…いつも機会があるごとに本を押しつけてきたんだが、とうとう報復に出やがった。誰だよルシウスに余計な入れ知恵した奴はよ! 奴は絶対人に物をくれてやるなんて事を思い付かないと思ったのに!」
叫びは悲痛だった。
「……でも、なにもそんなに急いで読むことないんじゃないですか…?」
「いーや、一秒でも早く読み終わって感想叩き付けないと」
言って分厚い本の表紙を握りしめるアーサーに、シリウスは小声で呟いた。
「そう思ってる時点で向こうの思うつぼじゃないのか…?」
「まぁ、それで幸せそうなんだからいいんじゃない?」
「僕なら、あんな量の本を押しつけられたら窓から投げちゃうけどなあ」
リーマスとピーターが応じる。
そこで、ふとアーサーは頭を巡らせた。
「あれ? お前ら、いつもより突っ込みが優しいと思ったら、ジェームズがいないじゃないか」
気が付けば悪ふざけ四人組のリーダーが不在である。
「どうしたんだ?」
言われて、シリウスは沈痛な面持ちで目を閉じた。
「先輩。気が付かなかっただろうけど、奴はさっきからそこにいます」
指差した部屋の隅には、なんだかどんよりと陰気な物体がしゃがみ込んでいる。
ときどき口から「ふふふふふ」と泣き声のような笑みが漏れているのが非常に不気味だ。
「な…なにがあったんだ……」
思わず引いてしまうアーサー。
こんな物体が自分の部屋の中にいたら、誰でも後ずさるに違いない。
「実はその件が相談事なんですよ」
リーマスが呆れ口調で話し始める。
「こないだバレンタインだったでしょう? ジェームズってば、セブルスから貰ったプレゼントの嫌がらせが見抜けなくて、ショックを受けてるみたいで」
「この僕が! とか夜中に叫んだりするんで、早めに安眠妨害を止めさせて欲しいんですけど」
「これこれ。ちょっと見てくださいよー」
シリウスがバン、と乱暴に机上にそれを叩き付ける。
「…只のオルゴールに見えるが」
開けたり叩いたり持ち上げたり、最後に杖を一振りして、アーサーはそう言った。
「やるなーセブルス。先輩にも見抜けないなんて」
「でも、どうする? これじゃあジェームズが回復しないよ」
「いっそ、仕掛けた本人を問いつめるのが一番じゃないのか? 最近殴り倒した記憶ないし、タイムリーだろ」
顔を突き合わせて相談を始めた三人に、アーサーは困惑した。
「いや、お前ら。あのさぁ」
言いたくはない。…言いたくはないが。
「これって、なんの変哲もないオルゴールって可能性はないわけ?」
「「「ええっ!?」」」
部屋に衝撃が走る。
「なるほど…人間心理の盲点をついた知能犯罪だな…」
「うんうん。完全に裏をかかれたよ」
「そんなのってちょっとズルくない? こっちはこんなに悩んだっていうのに〜」
お前ら…今まで一体どーゆー生活してたよ…。
突っ込みたい気持ちをひたすらに抑えているアーサーの耳に、バキッ! と大きな音が響いた。
ドアが蹴破られた音だ。
「ああっ!?」
自室の被害に、思わず彼は頭を抱える。
その耳に、今度は大音響で叫び声が届いた。
「―――あんにゃろうっっっ!!!」
ジェームズ復活の雄叫びは、グリフィンドール中に響いたという。