『18°』
「乱闘だ!」と誰かが叫ぶ。
それもいつものこと。
ホグワーツの廊下に響き渡る怒声と罵声。
時に骨の折れる音。「畜生!」と叫び。女生徒の悲鳴。
ぐちゃぐちゃの集団はネクタイの色で二分することが出来る。
即ち、スリザリンとグリフィンドールに。
「なんの騒ぎだね」
低音の。
張り上げた訳でもない落ち着いた声。
なのに、スリザリン生は―――相手の髪を引っ張るのに夢中になっていた連中でさえ――全員が動きを止めた。
まるでスイッチが切れたように、整然と。
つられて、グリフィンドール生も動きを止める。
ジェームズ・ポッターはセブルスのボタンの取れたシャツから手を離し、声の主の方向に目を向けた。
床の転がっていた全員がスリザリンの監督生を見上げ、場が静けさに満たされる。
ルシウスは、十数名の男子生徒の中からただ一人を指名した。
「セブルス。原因は?」
呼ばれた彼は顔を強張らせつつも、はっきりとした声で言った。
「こいつがむかついたから殴りました」
指は隣の男を差す。
「……………」
場の面々は青ざめずにはいられなかった。
かつてルシウスにこんな物言いをしたスリザリン生がいただろうか。
反省の欠片もなし。
むしろ胸を張って、自分は間違っていないと主張する。
問われた張本人よりも、彼の周辺に転がる同寮生達の方が怯えながら沙汰を待った。
ルシウスは僅かに吐息し、「スリザリンは五点減点」と告げる。
ざわ、と野次馬達がどよめく。
スリザリンの生徒達はうなだれて、よろよろと立ち上がった。
「セブルス」
呼ばれて彼は、一度瞬く。
「はい」
「来なさい。治療をしよう」
「…はい」
セブルスのシャツのボタンは全て引きちぎられ、眼の周りには青痣がくっきりと浮かんでいた。
唇も切れている。
既に背を向けたルシウスに追いつこうと、よろめきながら立ち上がろうとした彼の腕が何かに引っ張られた。
振り向くと、床に座り込んでヒビの入った眼鏡を握りしめたジェームズがこちらを見上げている。
「離せ」
「嫌だね」
「引き際が悪いぞ」
「うるさいな。何が引き際だ」
「ジェームズ!」
叫んだのはセブルスではなく、グリフィンドールの監督生だった。
廊下の向こう側から駆けつけてきたアーサー・ウィーズリーは現場を見るなり眉をしかめた。
「なんだこりゃ。何やってんだお前ら」
数名のグリフィンドール生を前に、呆れたように声を上げる。
集団を越えた向こう端にいるスリザリンの監督生に視線を飛ばしつつ、彼は一同を見回した。
「ジェームズ、言い訳は?」
事態の原因に違いない一人に声を掛ける。
「―――こいつがむかついたから殴りました」
腕を掴んだままの相手を逆の手で指差す。
「わかった」
アーサーは溜息を付くと、「グリフィンドールは五点減点」と言った。
ざわめき。
「静かに! 見つけたのが先生方だったら即罰則だったぞ! 以上――解散っ」
号令を受けて、双方はわらわらと動き始める。
ジェームズが舌打ちして握った手を離すと、セブルスは立ち上がって服装を整えた。
手の中には、いつ集めたのかボタンが六つ、きっちり揃っている。
振り返りもせずに立ち去る喧嘩相手を、ジェームズは床の上に座り込みながら見送った。
――――睨み付けても視線さえ届かない。
月がしらしらと、青白い静寂を振りまく夜。
閉館間際の図書館を目指して、セブルスは足早に廊下を急いだ。
と、見慣れぬ人影が視界の隅に入る。
彼は壁に寄り掛かり、どこか人待ち顔で腕を組んでいた。
………関係ない。
そう思って無言のまま進もうとすると、「ミスター・スネイプ」と呼び止められる。
「誰かと待ち合わせかい?」
「…別に」
セブルスは、奇麗に怪我の治った顔で顰め面を作った。
「貴方に言う必要はないと思いますけど」
グリフィンドールの監督生は、鼻の頭を掻きながら口元を持ち上げた。
「確かにね」と笑う。
「君、ずいぶん奴と仲がいいみたいだね」
「なんのことです?」
「さぁ? でも、あまり感心はしないな。これは俺個人の意向に過ぎないけど、受け入れていただけると有り難い」
丁重に、一礼。
…バカにされているのか?
「私があいつとどういう関係でも、貴方に口出しされる謂われはないでしょう」
セブルスは彼を睨む。
「……へ?」
アーサーは一呼吸遅れて、頓狂な声を上げた。
「ちょい待ち。スネイプ君。今会話が混乱しているような…」
「こんなところで下級生虐めか? 見損なったぞ、アーサー」
「げ」
びくっと体を震わせて振り返るアーサーの肩越しに、セブルスは自寮の監督生を見つけた。
「先輩」
「あんた、いつの間に…」
「“感心はしないな”の辺りから、だ」
「うわ。…あはは。何かちょっと誤解があったみたいで。今の話は忘れてくれ」
と、振り返ってスネイプに言う。
「はぁ?」
訳がわからず口を開くが、アーサーは「ははは」と笑うだけだった。
「セブルス、本の返却をしたいのなら急いだ方がいいと思うが?」
ルシウスに告げられて、セブルスははっと我に返った。
もう時間がない。
「あ、では―――失礼します」
慌てて頭を下げ、セブルスは駆け出した。
途中一度だけ振り返ると、ルシウスに小突かれているアーサー・ウィーズリーの姿が目に入った。
「まったく。あんな子供に絡むなど」
「いや〜俺が悪かったですマジで」
「これ以上馬鹿が増えるとかなわんよ」
「あれ? あんた何か怒ってる? いつになく美人さんなんだけど」
つまりそれは、いつも以上に表情が冷たいということらしい。
「図書館で難癖付けてきた輩がいてな。いかにも貴様の後輩らしい阿呆だった」
「ジェームズですかい。くそ、紛らわしいことすんじゃねーよ、奴ら」
だから間違えたりするんだ。
アーサーは苦り切った表情で言う。
「で、何言われた?」
「くだらんことだよ」
「…どう報復したんだ?」
「報復など。少しばかりへこませてやっただけだ」
クス、と口元が笑う。
アーサーはその姿に見惚れながらも、瞼を落とさずにはいられなかった。
「あのさ…あんた、自分の毒舌に殺傷能力があること分かってんだよな?」
「そうなのかね?」
確信犯の微笑みで隣を歩くアーサーを見上げる。
「ご愁傷様」、と彼は唱えた。
無論ジェームズは可愛い後輩である。
けれども目の前にいる人物に比べたら、優先順位は格段に下なのだった。
駆け込んだ図書館で、息を吐きつつなんとか返却手続きを済ませる。
「もう閉めるわよ」
と司書のミス・ピンスに念を押されつつも、セブルスは出入り口へは向かわなかった。
どこかで確信していた。
――ほら、やはりそうじゃないか。
書架の間に彼の姿を見つける。
いると思ったんだ。
根拠なんて無いけれど、昼間がああだったから。
ジェームズは、昼間と同様冷たい床に座り込んで俯いていた。
何か、頭上に暗雲が掛かっている。土砂降りだ。
「…どうかしたのか、お前」
先刻の喧嘩も忘れて(いつもなら絶対イヤミから入るはずなのに)、ついセブルスは話しかけた。
「どーしたもこーしたも」
微動だにせず、ジェームズは口だけをぱくつかせた。
「殺られた…」
「誰に!?」
もしかしたら本当に後ろからばっさりと斬られたんじゃないか。
そんなわけはないのに、ふとそう思ってしまうくらいに彼は沈んでいた。
「君んとこのアレだよ。――マルフォイ。ルシウス・マルフォイ!」
叫ぶジェームズ。
徐々に復活の兆し。
ぎりっと歯を噛み締めながら、彼は首を持ち上げる。
「………何したんだお前」
声には明らかに非難の響きが滲んでいた。
セブルスにしてみれば、先輩であるルシウスに喧嘩を売る方が悪いと言うことらしい。
「偶然会ったから、ちょっと文句付けてやっただけだよ。だってあいつ君に馴れ馴れしいんだもんな!」
「馴れ馴れしいのはどちらかというと他寮生のお前の方だと思うが…」
「うわ。ひどいよそれ」
「一般的見解を述べたまでだ」
「まぁとにかく? 僕のセブルスに色目使わないでください、とだね」
「言ったのか? 流石グリフィンドールだ。勇敢なことだな。内容はこの際置いといて、私には絶対そんな真似はできん。尊敬する」
「今、心の底から馬鹿にしているだろ…」
「いやいやいや、尊敬する」
「あのなぁ!」
ジェームズは勢いよく立ち上がった。
「僕は本気で心配してるの! わかる? この気持ちが。君が痛い目見るのはいい気味だけど、やっぱり君に一番ダメージを与えるのは僕であるべきだろう!?」
「それのどこが“心配”なんだ!」
「――君が僕の知らないうちにルシウス・マルフォイに手込めにされやしないかという心配」
「殴るぞ貴様」
「もう手が出てるじゃん」
ぶん、と空振りした腕の手首を掴み、ジェームズは強引に彼を引き寄せる。
セブルスはいつも通り眉間に皺を作った。
「大体な。お前の言う腐れた“心配”など見当違いも甚だしい。あの人がそんなことをするわけがない」
「何を根拠にそう言えるのさ」
「お前こそ、何を根拠にそう言っている」
「だって奴ってば、セブルスをお気に入りじゃん」
「は? 私は一スリザリン生として気に掛けて頂いているだけだぞ」
「激鈍っ。襲われるまで気が付かないタイプだろ、君」
「何を――」
「一スリザリン生を、部屋まで連れ込んで治療してくれるような人情派なわけ? あの男は」
「………………え?」
「昼間のことだよ。さりげに頭撫でられてたし!」
「………あぁ、そういえばそんな気も……」
「鈍い! 疎い! いつ襲われてもおかしくないよ!」
「あの人を邪な目で見るな! ただ部屋で治療を受けて、お茶をご馳走になっただけだ(入れたのは私だがなっ)」
「それのどこが一スリザリン生に対する扱いなわけ? (にしてもサービス悪いな、それ)」
「…………………え? あれ?」
セブルスは首を傾げる。
「無茶苦茶気に入られてるんじゃん」
「……そう言われると」
「だろ? くっそー。腸が煮えるよ。ぜぇったい一泡吹かせてやる」
「お前…一体何されたんだ?」
そこまで怒り心頭だなんて。
不審げに尋ねるセブルスに、ジェームズはあさっての方向を向いた。
「ちょっと…ね」
「いいから教えろ」
「いや…ちょっと貶されて蔑まれて呆れられた上で哀れまれただけだよっ」
「それはまた壮絶な」
「本気でみぞおちに喰らった感じだった。言葉で心臓ってえぐれるもんだね」
「しかし、命があってよかったじゃないか」
腕を上げ、ポンとセブルスは肩を叩いた。
え? なんでまたこう同情的なの?
「…何? まさか何かあるとか?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「聞きたい」
「――あー、つまり、これはスリザリンの密やかな伝説なんだ。私も話で聞いただけでなんだが―――昔な、阿呆がいたらしい」
「うん?」
「よりによってマルフォイ家の次期御当主に手を出そうとした輩がな」
「まさか、それで殺されたとか」
「いや、自殺だ」
「…………マジっすか」
「未遂だったらしいがな。発見が早くて助かったそうだが、意識が戻った瞬間にそいつは自主退学を申し出たそうだ。第一発見者が扉を開けたとき、血だまりの中に人が倒れていて、その向こうに椅子に腰掛けたままそいつを眺めている先輩の姿が――」
「それホント?」
「知るか。私が入学する前の話だそうだ。…だがまぁ、ありえるかどうかくらいなら判断できる。生きててよかったな」
「……あれでも手加減してくれてたって事か? かーなり痛かったんだけど」
「馬鹿なことをするからだ」
「これは重要なことだよ。傍目から見てると君らは仲が良さそうなの!」
「私は別に、」
言いかけたセブルスの口が止まる。
ふと思い出した先刻の出来事。
『君、ずいぶん奴と仲がいいみたいだね』と、誰かが言っていなかったか。
「あれは牽制だったのか。……なるほどな」
一言呟く。
「何!?」
「お前には関係ない」
「あるよ! 君にちょっかい出そうなんて野郎は、どの寮だろうとどの学年だろうと…例え下級生だろうとグリフィンドール生だろうと放置できないね」
「なんて後ろ向きな…。『上級生だろうとスリザリン生だろうと』が常套文句じゃないのか?」
「スリザリンの上級生を叩きのめすのに勇気も決意も要らないし」
「(この仮面優等生め)。まぁしかし、それはそれで面白そうだが、残念ながら牽制されたのは私の方だ」
「? スリザリンにはルシウス・マルフォイの不可侵同盟でもあるのか?」
「そんなものはない、と思う」
「え? でもじゃあ――それってまるで奴に恋人がいるという風に取れるんだけど?」
「…これ以上はプライバシーだ」
「えー教えろよ」
「聞いてどうする」
「その情報を元にリベンジ決行」
「やめておけ。きっちり畳まれるぞ。三枚に下ろされるとか。どちらにしろ、お前の敵う方ではないよ」
「君は殺られたことないからそんなこと言ってられるんだよ〜」
肩を竦めるジェームズに、セブルスは盛大に溜息を吐き掛けた。
「あくまで戦意を失わないところは評価に値するが―――お前、何か勘違いしていないか?」
不機嫌に不満を足して二乗したような、極めて不快という表情を作る。
「えぇと?」
ジェームズは瞬いた。
「まったく、脱線もいいところだ。…お前を奈落の底に突き落とすのは私だろーが」
すっと腕が上がり、セブルスの手の甲がジェームズの頬に触れた。
そうだろう? と唇が動く。
ぱぁ、とジェームズの顔面に花が咲いた。
「うん―――うん。もちろんだよ。昼間の君の腫れた顔なんて、物凄くいい気味だった」
「貴様の割れた眼鏡もいい味を出していたのにな」
「ざぁんねん。とっくに直しました〜」
言いながら、ジェームズはセブルスの体を書架に押しつける。
「おい」
「いいじゃない」
「よくない。もう時間が―――」
閉館予定時刻はとっくに過ぎている。いつ、ミス・ピンスが捜しに来るとも知れない。
「少しだけ」
近く、声がやや高い場所から降ってくる。
いつの間にか開いた身長差。
「なぐさめてよ」
言って、顔を寄せる。
セブルスは諦めたように目を伏せると、
首の後ろに左手を回し、その上に右手を重ねて。
顎を18°上向けた。