『停戦期間』


「どうして!」

アーサー・ウィーズリーは、両手を机に打ち付けて立ち上がる。
たった今、信じられないことを耳にした。

世界が変わったあのハロウィンの夜。
魔法省の仕事は、180°大きく転換した。
即ち、闇の魔法に対する国家の防衛から、闇の魔法使いの追跡、逮捕へと。

ヴォルデモート卿という中枢を失った組織は瓦解し、人々は祝杯を上げた。
そんな中でも役所は歓喜に浸っているわけにもいかず、魔法省の面々はひたすら以前よりも増えたかもしれない業務をこなしてきた。
書類に追われ、情報処理に追われ、何十人もの闇の魔法使いの逃走を阻止した。
それでもまったく事務は追いついていない。

そして本日、内々に、上からの通達が一般職員にも知らされた。
アーサーはヒラの職員に過ぎず、なんの決定権も抗議権も持っていなかった。


―――魔法省は、ルシウス・マルフォイを訴えないというのだ。


どうして、と繰り返す彼に上司は静かに首を振った。
「必要なことなのだ」
「必要なのは悪が裁かれることです!」
「ウィーズリー君。役所の仕事とは、国民を守ることなのだよ。疑わしきは罰せずだ」
「疑わしき!? 明らかに…ルシウス・マルフォイは明らかに闇の陣営に――」
「証拠がない」
「いくらでも集まります!」

憤る部下を、上司は悲しい溜息と共に見つめ返した。

「君は疲れている。ここ数ヶ月休みらしい休みを取っていないだろう。…しばらく休暇を取り給え」




これが魔法省か。

エントランスホールを出て職場を振り返ったとき、煌々と魔法の明かりを振りまくその建物が、無性に憎らしく思えた。
















その屋敷に足を踏み入れるのは初めてだった。
観音開きの厚い扉。
全てが石で出来た相当に古い旧家の造りである。
内側から顔を覗かせた老執事は、訪問者にまず名前を問うた。




「ご主人様…」
困惑顔の執事が顔を覗かせたとき、ルシウス・マルフォイはちょうど居間の明かりを消したところだった。
「何か?」
「いえ…先ほどからお客様が…玄関前にいらっしゃるのですが…」
「ほう。誰だね?」
「それが、名乗られませんで」
「ふむ」
「その方のお言葉を借りますと、『差しで話がしたいからあんたが出てこい』とのことでございまして」
「―――赤毛だったか?」
「はい。その方でございます」

ルシウスは、パンと両手を鳴らして、笑った。
「来るかもしれんと思っていたが、随分とお早いお着きだ」
「では…」
「行こう。玄関だな?」

おかしくて堪らないという風に、口元を歪ませながら彼は夜着を羽織った。



「やぁ」
「久しいな」


わざとらしい笑顔で挨拶を交わし、ルシウスはアーサーを招き入れた。
手には古い箒が握られている。
「飛んできたのか、呆れるな」
「ロンドンから直行だぞ? 少しは褒めて欲しいところだ」
「魔法省からか? それはご大層なこと。家に帰らなくていいのかね?」
「よくはないが仕方がない。これも仕事だ」
「おや、私はてっきり私用で来たと思ったのだが」

言いながらルシウスは相手の箒を掴むと、背後の執事に向かって投げた。
「磨いてやれ。酷い箒だ。杜撰な扱いをされているのだろうよ」
「時間がないだけだ」
アーサーが反論する。
おんぼろの、柄のあちこちに染みの付いた箒を押し戴いて、執事はその場から下がった。

「あの爺さん、大変だな」
「何がだ?」

連れ立って階段を上りながら、アーサーが呟いた。
「急にこの家に戻ってきたんだろう? それじゃあ何かと大変なはずさ。前の家はどうしたのかな?」
「ああ。ちょっとした事情があってね。放棄というか廃棄というか」
「既に証拠は隠滅したってわけだ」
「必要性はあまり感じなかったがな。魔法省は、その位置さえ掴んでいなかった。…まあ、念のため、だ」
敷かれた絨毯を踏みしめながら、彼は忌々しげに舌打ちした。





二階のルシウスの居室に入った途端、アーサーは振り返った。
厳しく、睨め付ける。
銀の髪を揺らめかせた男は、微塵も動ぜずその視線を受け取った。

「ルシウス。ジェームズが死んだぞ」
押し殺した怒りを彼にぶつける。
「あんたらが殺した――」

「下手人は、シリウス・ブラックだろう?」
「けれどポッター家を吹っ飛ばしたのはヴォルデモートだ。間違いない」
「それで、」

ルシウスは立ちふさがるアーサーをすり抜け、部屋の中央へと進み出た。
一度指を鳴らすと、部屋中の蝋燭が一斉に火を灯す。
ゆらゆらと揺れる炎に二人分の黒い影が映し出され、床に伸びた。

「それで、私に文句を言いに来るのか? お門違いだ」
「どこが違うものか。シリウスを抱き込んで、お前達はジェームズを殺すことを画策した」
「だったらどうだというんだ。…全ては過ぎたことだ」
「“あの人”が死んだからか? 生憎だな。魔法省の仕事はこれからだ。君を逮捕しに来た」

一歩、進み出てアーサーが手を伸ばす。
ルシウスは両の手を後ろの机に載せた姿勢のまま、ただ相手を眺めた。

「令状も無しにか?」

短く問う。

「そんなもの!」

叫んだアーサーにルシウスは静かに笑いかけた。

「アーサー。私を信じてくれないのか? 私は例のあの人に操られていた。洗脳が解けたのでこちらに戻った。そう言ったはずだ」
「信じているとも」

ぎり、と唇を結んでアーサーは詰め寄った。
至近距離まで歩み寄り、その背中に流れる髪を鷲掴む。
青い瞳が荒々しい光を湛えながら真正面を射た。

「信じているとも、ルシウス。あんたが裏切るはずがない」
くす、と血の気のない唇の端が持ち上がるのが見えた。
「いつでも闇を求めていた。最初から加担していた。あんたが自分の信念を裏切ったりするはずがないだろう?」


「よろしい」

ルシウスはパシッとアーサーの手をはねのけた。
そのまま手を伸ばし、机に寄り掛かりながら、相手の首筋に両手を回す。

「君の信頼は大変嬉しいよ、アーサー」
「何、余裕かましてるんだよ。あんたが洗脳されてたわけがないって、皆が思ってる」
「公然の秘密というやつだ。誰も、それを口にしたりは出来ない」
「馬鹿な」
「その馬鹿なことがまかり通る。魔法省からの通達を聞いたんだろう? だからここへ来た。お前一人の力ではどうにも出来ず。八つ当たりに」

せせら笑うその口元に苛つきは頂点に達し、アーサーはそのまま唇に噛みついた。

「…どんな工作をした…っ」

血の味が広がるのを感じながら、僅かに離れた唇が息を吐く。
怒りの形相を間近に捉えつつ、ルシウスは淡々と言葉を紡いだ。

「大した話ではない」
「金を撒いたのか?」
「その必要すらなかったな。わかるかね、アーサー。今私を逮捕すると言うことは、私に繋がっていた全ての人間を有罪とすることになる」
「…当然じゃないか」
「魔法省の人数が半分になっても?」

その一言にギョッとしてアーサーは瞬いた。
ふっと鼻先に息が吐き掛けられる。
その冷たさにぞっとした。

「一体この国のどれだけの魔法使いが我らに通じていたと思う? 不可抗力も含めて。魔法省の政治的判断は賢明と言えような。開けてはならない箱は存在する」
「馬鹿な…」
「必要なのだよ。マルフォイが罰されないなら、と政府に怯える連中を安堵させることは。自棄になってテロに走る魔法使いが減るからな」
「まさか、そんな理由なのか?」
「シリウス・ブラックを見るがいい」
ルシウスは、彼の名を出すときだけ目を伏せた。
「逃走途中に同窓生に見つかって、マグル共々吹っ飛ばした。あれが特殊な例ではないとしたら? 大臣も弱腰になろうよ。穏便に事を収めたくて仕方がないというわけだ」
「そんな理由で……あんたは法を逃れるのか?」
「逃れられてしまうのだよ。残念ながら」

は、とアーサーの口元が笑った。自嘲。
その目は濡れている。

「そんなことで、ジェームズ達を殺したあんたが許されるのか?」

「アーサー」

ルシウスは愛しげにその名を紡ぐと、そっと口付けた。
慰めるように。同情するように。憐れみを込めて。

「残念だったな。…まあ、機会を待つことだ。いずれ、あの方はお戻りになる」
「な…んだと?」

絶句する彼に向かって、ルシウスは華やかに笑った。


「その時は、今度こそ殺し合おうじゃないか」








「―――帰る」
反射で身をよじった男の腕をルシウスは掴んだ。
「まぁ、待て。返事を聞いていない」
「…そんなもの、わかってるだろ?」
「勿論信じているとも。だが、ここまで話してやったというのに、随分私をないがしろにしてくれる」
「そんなつもりは、」
「だったら誠意を見せて欲しいものだ」
言われてしばらく硬直していたアーサーだったが、再び向き直り、けれど困ったように頭を掻いた。

「けどなぁ。ここ、あんたの家だぜ?」
「だから?」
「家族だっているんだろうがよ」
「それを言うなら、お前こそ職場からここに直行しているではないか」
「いや…モリーはいいんだ。よくないけど。彼女、俺が七年間あんたに熱を上げてたこと知ってるしな」
「同じく。ここは私の家で、私の持ち物だ。誰に異論を吐かせよう」
「ガキがぐれるぞ」
「そんな育て方はしないつもりだ」
「ああ、そういえば」

彼は一度瞬きした。

「子供、産まれたんだってな」
「ドラコか? 今、一歳だ」
「うわ、ロンと同い年だよ。10年後のホグワーツが見えるようだ。スリザリンのマルフォイとグリフィンドールのウィーズリー。荒れるぞ。絶対」
「付け加えれば、ハリー・ポッターも今年で一歳だったはずだ。ダンブルドアが、どこに隠したのかは知れんがね」
「彼の名前はもうホグワーツの入学許可リストに載ってるからな。生まれてすぐに決まったことだ。ポッター家の跡取りだものな」
「今となっては幸いというわけか。これであの家の血筋は残る」
「残るかな? 君らが殺すんじゃないか?」
「それはこれからの課題だ」
ルシウスはさらっと顎を撫でた。


「私は殺す必要など感じてはいない。彼はきっとスリザリンに入る」
「はぁ!?」
これにはアーサーが面食らった。
「おいおいおい。ポッターだぞポッター。両親共に生粋のグリフィンドール。スリザリンなんて、あるわけがない」
「どうかな? 卿を撃ち破った魔導の資質。これはスリザリンに適しているんじゃないか?」
「だとしても、組分け帽子が入れないよ」
「そう、全ては組分け帽子の決めること。今論じるのは無意味なことだ」

ルシウスはそういって、不意に口元をつり上げた。
学生時代、ある瞬間によく用いられたその表情。


「賭けるか?」
「おうともさ」


答えてアーサーは、右手をルシウスの銀の髪の中に差し込んだ。
そっと頬を包みながら、耳元に囁く。
「ハリー・ポッターがどの寮に入るか。グリフィンドールなら俺の勝ち。スリザリンならあんたの勝ち」
「それ以外はドロー、という事でいいな?」
「ああ。んじゃ、俺が勝ったらこの家に礼状無しで踏み込ませて貰うぜ?」
「宜しかろう。では、私が勝ったら…?」
「どうする? 何かご希望は?」
「別に、お前に期待するものなど思い付かないな」
「……それはそれでひでーんですけど。相変わらず容赦ないなぁ、あんた」
「それでは一つだけ。―――会いに来い」

視線が交わされ、ふっと双方の瞳が笑った。

「ちょおっとそれって困らない?」
「何にだ?」
「だって、『賭けの答えが出るまで会いに来るな』って言ってるわけで」
「別にそうは言っていない。ただ、ハリー・ポッターがスリザリンに入ったら、その足でこの屋敷に来て『私が間違っていましたすみません』と頭を下げた上で私に殺されろと言っているだけだ」
「えぇ!? ちょっとさっきのニュアンスにそれ含まれてないって!」
「そうか? 残念だな。私の気持ちが伝わらないなんて」
「あんた…そう殊勝な顔を見せるときほど心の中では舌を出してるんだよな…」
「わかっているならそれでいい。――早く来るといいな」
「あぁ、そうとも。約束だ」





『その時には今度こそ殺し合おう』





後は誓いの口付けを交わすだけ。