『動機論』
その人が目の前に現れたとき、もはや声が出なかった。
呑む息すらなくて、呼吸は完全に止まった。
銀色の輪郭が彼の人を縁取る。
今まで一度たりとも、その瞳に自分の姿が映ったことがあっただろうか?
映ってはいたかもしれない。
けれど、見据えられたことなど無かった。
路傍にある石と同じだった。
自分は、このルシウス・マルフォイという相手の視界には全く入っていなかったはずだ。
いないと同じ事だと思っていた。
好意は勿論嫌悪感すら。
眉を顰められたことすらなかったのに。
それを不満に思ったことなど無かった。
自分にとっても、彼は関わり合いになるはずのない人間だったから。
なのに彼は言う。「見ていたよ」と。
「見ていたよ。ピーター・ペティグリュー。君は実に興味深い」
とても褒める言葉には聞こえなかったが、他人を見る目の厳しい彼にとっては、それは奇跡のように高い評価である。
果たしてこれは何の因果なのか。
ホグワーツを卒業して三年。成人した自分の前にこの人が立つ。
かつてのスリザリンの支配者が。
「来たまえ。我が主が君をご所望だ」
労働など知らぬ形の良い白い手がこちらに向かって伸ばされる。
その白さは、さながら幽鬼のように、彼を世の暗がりに誘うのだった。
「あ、主…?」
それが誰なのか、勿論知っている。
かつて、そして今現在も、世界に闇と恐怖をまき散らしている「例のあの人」。
マルフォイ家がその人に通じていることは、魔法界では公然の秘密だった。
言葉は、命令ですらなかった。
自分が「行く」ことを全く疑わない、ただ淡々と事実を語るその響き。
あまりに自然に言われたので、まるで疑問を感じなかった。
あぁそれが正しいのだ、と足を踏み出しかけてから、我に返って激しく首を振る。
「な、何を――」
言っているのか。ふざけないでくれ。僕は行かない。
冒頭だけがやっと声になる。
「ほう?」
碧眼の当主は、表情から意志を読みとり会話を続ける。
「不思議なこともあるものだ。君は己の望みを叶えたくないと、そう言うのかね?」
「ぼ、僕は闇には堕ちない」
侮ってくれるな。グリフィンドールを。
「グリフィンドールだからだろう? 君はこちら側の人間だ。あの方がそう決めたのだから」
ルシウスはあくまで静かに言葉を紡ぐ。
「僕は、裏切らない。脅しても無駄だよ…」
やっとのことで吐き出した言葉は、しかし相手の表面にすら届かない。
「脅し?」
彼は首を傾げる。
「何故脅す必要がある? 君は望んでこちらに来るのに」
「望んでなんか、ない!」
誰が乗るものか。誰が裏切るものか。
大事な学生時代を七年、共に過ごした仲間たちを。
言い切った彼に、ルシウスは「ふむ」と銀の髪を梳いた。
そして問う。
「裏切りとはなんだろう?」
「約束を破ること。相手を陥れること。仲間の信頼に背くこと。――さて、果たしてピーター・ペティグリュー。君は信頼される人間だろうか?」
「……?」
「君に仲間がいるだろうか? 君が闇に堕ちたとき、果たして誰がそれを裏切りと呼んでくれるだろうか?」
「――――!?」
言っている意味が分からない。
何を言いたいんだ、この人は。
「彼らは許してくれるだろう。ピーターなら仕方がないと。ピーターだから仕方がない、と。見下されていることにも気が付かなかったのかね?」
「彼らは友人だ!」
「しかし誰もが言う。あの三人のお荷物。もったいない。見目も能力も、まったく及ばないと。何故一緒にいれるのかわからない、と」
「僕がなんの力を持っていなくても、友達だと言ってくれた…」
「友人だと思っていた? なんと思いこみの激しいこと! あの三人は笑いながら君のことを庇ってくれただろう? 仕方がない奴だと」
笑って。
見下して。
「見下されてなんか、」
「何度も助けて貰ったのだろう? それに対して君は何を返せたのか。一方的な恩恵。与える方だとて気付くだろうよ、与えるほうだからこそ」
こいつは自分より格下だと。
「……対等ではないのだよ。永遠に」
確認してみたいと思わないかね?
そして、それを知った瞬間に君は彼らと並ぶことが出来る。
本当の意味で。同じ高さに。
隣にいては永久に届かない。
真正面に、立ち塞がらなければ。
「彼らを友と呼びたいのだろう?」
さぁ。
望みはここに。
全て叶うだろう。
一歩足を踏み出すだけでいい。
あの方にお会いすれば、迷いなどすぐ消える。
「僕は―――――………」
いつの日か友人だった者らが憎悪を込めて君の名を貶めるとき、祝福の鐘が全ての霧を晴らすだろう。
求めていた答えを後悔と失意と惨めさの中で受け取るがいい。
それでも鐘は君を祝福する。
“おめでとう。かつて友と呼び合った人々よ”
“おめでとう”