『還元』
揺り起こされ、眠い目をこすりながらハリーは起きあがった。
手探りで取り上げた丸い眼鏡を掛けてみると、そこはいつもの場所ではなかった。
「あ、あれ?」
目ぼけているのかと思った。
昨日グリフィンドールの自分の部屋の自分のベッドで眠ったはずなのに、周りで欠伸をしながら着替えているのは全然知らない生徒達だ。
黒い短い髪の背の高い子、茶色の髪の大人しそうな子、ちっちゃなネビル似のでもネビルじゃない子もいる。
「…ここ、グリフィンドール?」
ハッフルパフかレイブンクローであることを祈ってハリーは呟いた。
「何寝ぼけてんだよお前」
黒髪の一人がピンと額を弾いた。
「痛い!」
「目ぇ醒めたか? 早くしないと朝食食いっぱぐれるぞ」
「さ、醒めたけど…」
却って状況は悪化したような。
今の一撃で意識ははっきりしたが、やはり周囲の状況は変わらないのだ。
「ね、ねぇ。ここどこ…? ロンは?」
「誰だよそれ」
「ロンはロンだよ。ロナルド・ウィーズリー」
「アーサー・ウィーズリー先輩の関係者かな?」
「え…? でも聞いたことないなぁ、この学校に親戚とかいるなんて」
「リーマス! ピーター! 何ジェームズのボケにのんびり付き合ってんだよ。遅刻だぞ!」
「あ、やばっ」
「わ。僕まだ教科書揃ってないのに〜」
「ちょ…」
ハリーはリーマスと呼ばれた一人の袖を掴んだ。
「――まさか、ミスター・リーマス・J・ルーピン?」
「は? ジェームズいきなり何?」
「で、僕はジェームズ…ポッター、だったりする?」
「それ以外の何だって?」
真顔で言われて、ハリーは慌てて洗面所まで走った。
ぼさぼさの黒い髪、丸い眼鏡…僕の顔だ。
けれど、なんだかいきなし背が伸びたような気がする。目は何故か青い。
…そして決定的なことに、額には「あの傷」がなかった。
うっわー。
状況は理解できたけど、頭が付いていかない。
鏡の前で呆然とするハリーを、リーマスが引っ張る。
「シリウス、パス!」
そのまま黒髪の少年に引き渡されると、ハリーは無理矢理着替えを押しつけられた。
「今日はその寝癖は諦めろ。それ支度支度!」
その勢いに負けて、のろのろと服の袖に腕を通す。
「あ、ネクタイがない」
「しゃーない、貸しとくぞ。無くすなよ」
「…どうも」
遅刻とか、朝食抜きという言葉は、この状況でも絶大な効果がある。
結局ハリーは「僕はジェームズじゃないんだってば」と言う機会のないままに、父親の友人だったらしい人たちに引きずられて部屋を出たのだった。
* * *
その日のジェームズときたら酷かった。
終日寝ぼけていたんじゃないか、とシリウスが呆れたくらいだ。
朝の遅刻から始まって、(「朝食抜きどころか授業に遅刻。マクゴナガル先生に減点されたよ」)
道は間違えるし(「ジェームズ、『闇の魔術に対する防衛術』の教室はそっちじゃないよ?」)
簡単な質問に当てられても答えられない。(だって三年の僕に五年の授業なんて無理だってばー)
それに、なんだかよそよそしかった。
シリウスもリーマスもピーターも、なんだか睨まれているような観察されているような、妙な目つきで見られて当惑した。
「あいつどうしちゃったよ?」
「僕は保健室に連れて行くことを提案するね」
「おかしいよ、今日のジェームズは」
「ったくだ。早く保健室に収容してもらわないと、奴が来るぞ」
「狙い撃ちだね」
「ジェームズが負けるとは思えないけど…今日に限って自信ないな」
と、三人が当面の対策を立てて振り向いたとき、ジェームズは既にその場にはいなかった。
「ったく、なんだっていうんだ」
僕がいったい何をした! と叫びたい気持ちに駆られながら、ハリーは廊下を歩いていた。
例え二十年前でもホグワーツはホグワーツだ。建物の様子は変わっていない。
彼は人気のない方向へ、どんどんと歩いていく。
一人になりたかった。
一人になって冷静に考えないと、このまま周りに流されてしまいそうな気がした。
僕はハリー・ポッターだ、と自分に言い聞かせる。
しかし、何故こんなことになってしまったんだろう。
一通り授業を受け、周囲を見てきたが、やはりこの場にふさわしくないのは自分の方だった。
ロンもハーマイオニーもどこにもいなかったし、スリザリンにマルフォイの姿も見えない(なんか似てる上級生はいたけど)。
マクゴナガル先生は全く外見が変わらなかったが、他の先生方が何人も入れ替わっていた。
ルーピンは先生じゃなかったし、スネイプもいない。
ここは本当に、僕の生まれる前のホグワーツで、僕はジェームズ・ポッターの体を使っているらしかった。
すごい。面白い。
とか思っている場合じゃない。
第一ルームメートが頂けない。
まさかと思ったが、よく僕をどついてくる黒髪ののっぽは、あの「シリウス・ブラック」であるらしい。
手配書の写真からは想像も付かないほど、明るくて馬鹿元気な奴だった。
この人が父さんを裏切るなんて、どうにも考えられない。
けれどこれからそれは起こるのだ。
それにルーピン先生。
父さんと友達だとは言っていたけど同室だなんて聞いてなかった。
シリウスとも仲がよかったから、言いにくかったのかも知れないけど、それにしたって隠すことだったろうか。
それともひょっとして、シリウス・ブラックの仲間だったりするのかな。
――あの先生が? あんなにいい人なのに?
なんだか考えれば考えるほど、ドツボにはまってしまいそうだ。
…こうゆう時、頼れるのはダンブルドアだけだ。
うん、何故今まで思い付かなかったんだろう。
「君が投げたのか!?」
…え? 僕って喧嘩売られてるわけ?
そう疑念を抱きながら、相手を睨む。
「ほら」
「それとも、まだ怒っているのか?」
「―――好きだ」
はぁ!?
あ?
その声、その顔、その動き。
「……………スネイプ?」
まさか、と思いながらも心の中で形になった答えを口にする。
けれど、「なんだ。ジェームズ」と振り返る彼を見てしまって。
頭の中が真っ白になって、ふらふらとその場に腰を付く。
「おい、どうした?」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
不意に目を閉じた彼の顔が大きくなって。
「…見舞い代わりだ」
そう言って、顔を背けて腕を引っ張るスネイプに、ハリーの意識は遠のいた。
―――恨んでいい? 父さん。
* * *
気が付くと、そこは保健室だった。
「オブリビエイト、忘れよ!」
* * *
再び気を失った生徒を見下ろして、スネイプ肩の荷が下りたように安堵の表情を作った。
昨夜「記憶にない」とジェームズに告げた彼だったが、それは半分間違っていたのだ。
記憶にはない…記憶にはない、が。
私にも。
「…くそっ」
どうにも頭痛が治まらない。
「まったく、ひどい悪夢だった」
呟いて、彼は今度こそいい夢を見るべく、休日の保健室を後にした。
「だっ!?」
痛みに、思わず持っていた教科書その他を床にぶちまける。
顔を押さえてうずくまると、すぐ横に人の気配があるのを感じた。
「…?」
手の隙間から相手を見上げる。
彼は、長いローブをまとったスリザリン生だった。顎まで伸ばした黒髪をふっと掻き上げる。
「何をしているんだ、ポッター」
父さんのお知り合いですか…。
そう思いながら、ハリーは立ち上がった。
すると彼が自分より背が低いことが分かった。
えーと、名前わかんないや。
「………」
呼べずにいると、彼は黙って教科書を拾い始める。
慌ててそれに従って集めた全てを受け取ると、彼は無言のまま手を伸ばした。
「?」
「返せ。それは私のだ」
言って、一番上の分厚い本をひったくる。
「…君の?」
そういえば、さっきまでそんな本は持っていなかった気がする。
ということは、だ。
「他に誰がいるんだ?」
と、彼は肩を竦めた。
見回しても、石の廊下には誰もいない。
普段からしてほとんど人が通らない場所なのだ。
「まさか避けないとは思わなかったぞ」
彼はやけに大きな態度で、腰に手を当てる。
が、向こうは何も気にしていないようだった。
「朝から見ていた。今日はとみにおかしいなお前は。熱でもあるんじゃないかと思ったが――」
「!」
「ないか」
額に手を当てられて、ハリーは目を見開いた。
…ひょっとして、父さんはこのスリザリン生と仲がよかったとか?
「とすると、一体何故避けられなかったんだ?」
「いや。いきなりあれじゃ、誰でも避けられないよ」
「馬鹿を言え。いくら不意打ちしてもお前には効かないじゃないか」
不穏なセリフを笑いながら――本当に嬉しそうに笑いながら、言う。
…誰かに似ている気がした。
唐突に差し出されたそれはグリフィンドールのネクタイだった。
「…これ?」
僕のものなのだろうか。
そういえば、今朝ネクタイが見あたらなかったような。
「昨日忘れていったろう」
「昨日? どこで?」
「どこでって…決まってるだろう!」
何故か赤くなりながら、彼はぐいとそれを僕に押しつけた。
決まってるとか言われてもな。
僕は昨日の父さんの行動にまで責任を持てないよ。
困惑した表情で彼を見つめていると、向こうはちらと僕の方を見て、溜息を付いた。
「本当にどうしたんだ今日の貴様は。いつもの唯我独尊っぷりはどうした?」
唯我独尊…。
そうですか。父さんってそーゆー人だったのですか…。
「えと、何?」
「…昨夜のことだよ」
「ど、どれのことかな?」
いまさら「僕はジェームズ・ポッターじゃありません」とは言い出せず、ハリーは徹底して誤魔化すことにしたのだが。
「……………」
恨むような目で、彼に睨まれる。
まるで言いにくいことを強要されているように。
って、僕が脅してるってことになるんですか、これ。
冷や汗を掻きながら、あやふやに笑っていると彼は不意に近付いて僕の耳を思い切り引っ張った。
「い、痛いって!」
「な、なんだその顔は! 昨日結局言わなかったから怒ってるんだろう…!?」
耳まで真っ赤にしながら彼は持っていた本をぎゅっと抱えた。
呆然としている僕を置き去りにして、彼はくるっと身を翻した。
……誰かに似てるんですけど。
いや、まさかね。
てゆーか、この展開でその名前が当たりだというのはデンジャラスすぎます。
僕は死ぬほど脱力した。
「…どうか夢オチでありますように…」
と思わず本音が口から漏れた。
慌てて駆け寄ってくるスネイプに、僕はずりっと後ろに下がった。
頼むから。
心配そうな顔とかしないで欲しい。
困られてもこっちが困るんだってば。
額に手を当てて熱を計ったり、座り込んで僕の顔を覗いたりしないで。
だって、そんなのスネイプじゃないよ!
僕はへらへらと笑っていたように思う。
しかし至近距離につめた彼は「どこが大丈夫なんだ」と顔をしかめた。
「うん、だから、これから保健室へ行くから」
「ならいいが――」
気が付いたときには唇が触れていた。
窓から日の光が射し込んでいる―――朝だ。
「起きたのか」
低い不機嫌そうな声にぎょっとしてベッドの脇を見ると、小さな見舞い用の椅子に座ったスネイプがいた。
スネイプ、先生の方だ。
側には冷えたコーヒーの乗った別の椅子、そして手に抱えられた分厚い本。
徹夜の態勢だった。
「あの…?」
「名前は?」
ハリーの疑問など無視して、彼は一方的に問いかける。
「ハリーです。あの、僕は一体…」
戸惑いながら、寝起きには見たくない陰気な顔の教師に話しかけると、彼は深く溜息を付いた。
「夢を見ていたのだよ。とびきり悪夢を」
「………ゆめ、だったんですか」
よくわからないけど、よかったーと思ってほっと胸をなで下ろすもつかの間、教師の言葉はそれで終わらなかった。
「ちなみに、お前が夢を見ている間、他の誰かがその体を使っていたらしいが、思い当たる節はあるかね? …あるようだ。であるならば、一つ忠告させて貰うぞハリー・ポッター。例え夢の中で何を見ていようと、忘れることだ」
「…ここに、いたんですか?」
父さんが。
「…昨日のお前はそう名乗ったがね。真実は我輩の知るところではない」
「どうして――」
「理由は校長に聞け」
「父さん、なんて言ってました!? 僕のことを知って、何か、言わなかった!?」
「我輩は何も知らぬと言っているだろう」
「嘘だ。知っているはずだ!」
ハリーは叫んだ。
「だって父さんとあなたは―――」
言い終わる前に、弾かれたようにスネイプは立ち上がった。抗議しようとする生徒に向かって杖を突きつける。
過去、ホグワーツで彼はハリー・ポッターに会ったことはなかった。
しかし未来でジェームズに会うのなら、その逆の過去もあったはず。
ハリーはあの馬鹿と違って過去のグリフィンドールで上手くやったのだ。
誰にも気付かれないくらいに。
一体、ハリー・ポッターが何を見たかと考えると、思わず荷物をまとめて遠くへ旅立ちたくなる。
記憶は、完全に消し去ったが。
それでもどこかへ逃避してしまいたい気持ちというのはなかなか消えないのだ。