『虚言』
ジェームズ・ポッターとセブルス・スネイプの間に限って、
「二度とそのツラ見せてくれるな」とか「馬鹿と話す口はない」とかいうやりとりは、社交辞令に過ぎなかった。
「君さえいなけりゃ学校生活はバラ色のはずなんだけどね」という毒舌に、
「褒め言葉に感謝する。私の存在が貴様を不愉快にしているとは喜ばしい話だな」と返すのは時候の挨拶にすぎず。
―――だからこそ、ジェームズは怒っていたのである。
今朝、いつにも増して陰気なスネイプに「うわ。顔色悪っ。性格の悪さって顔に出るものなんだね〜」とかるーく朝の習慣を仕掛けた時、
完全完っ璧に無視されたことを。
「信じられるか!? 挨拶を返さないなんてマナー違反だっ。極悪非道。倫理無視。あいつは人間じゃないね!」
大仰な身振りで同室の三人組に訴えるジェームズだったが、友人達は乗ってこなかった。
呆れたように(疲れたように)、深く首を振っただけである。
「人間じゃないって…ねぇ?」
「そもそも、挨拶の定義が間違ってるし」
「スネイプだって、たまには無視したくなるだろうよ、それじゃ」
教授の都合で変身術の授業は自習になっている。
その時間中、ジェームズはイライラしっぱなしで今朝のスネイプの態度について蒸し返しているのだ。
例え親友だろうと見捨てたくなる瞬間があるとすれば、それは今に違いない。
堪りかねて、シリウスは普段なら絶対に口にしない一言を言い放った。
「いいから大人しく自習してろっ」
「うっわー、冷たい。親友が困ってるのに勉強などしろと仰るか。パッドフット君」
「うっせぇ。お前のどこが困ってるんだよ。困ってるのはこっちだってことにいい加減気付かんかい!」
「え? シリウス困ってるの?」
きょとんと、ジェームズが表情を変える。
「すごくとても非常に困っているとも」
「嗚呼先生。友人の一人が最近おかしいのです。どうすればいいでしょう?」
「というかね、君セブルスに振り回されすぎ。君が一喜一憂するたびに、いちいちこっちに反応求めるのは止して欲しいんだよ」
ピーターとリーマスが畳みかける。
「………ひょっとして、迷惑だったとか?」
「今頃気付くな」
「僕らを巻き込まないでね」
「これは君らの問題でしょ。直接本人に問い合わせてよね」
うんざりした様子で三名は呟く。
無理もない。ここのところの彼らは、ひたすらスネイプを追い回すことが趣味と化したジェームズに痛い目を見させられているのだ。
「あー…それで最近態度が冷たかったのね」
いくら親友でも、付き合える領域と付いていけない領域がある。
シリウスと以下二名は、感慨深げに首を縦に振ったのだった。
昨今の己の態度を反省したジェームズは、以降この問題に関しては迷惑を掛けません、という誓いと共に
「いいってことだ。わかってくれれば。お前の趣味の悪さについては敢えて何も言おうとは思わねーから」
「そうそう。よりによってスネイプだなんて、とか」
「君の審美眼には大いに疑問があるとか、言ったりしないから」
という暖かな言葉を受け取り、「君たち、後で覚えてろ♪」と爽やかに笑い合って友人達と別れた。
放課後の校内で、目指す人物を捜して歩く。
おおよその行動範囲は掴んでいるので難なく彼を見つけることが出来た。
いつもの通り、図書館帰りで重そうな本を抱えている。
「やぁ」
まったくただの友達のような、自分にしては気の利かない言葉と共に片手を上げる。
声を掛けられて初めてこちらに気が付いらしいセブルスは、一度限界まで目を見開くと、それから静かに瞼を落とした。
目を伏せたまま通り過ぎようとする彼に、ジェームズは眉をしかめる。
いつもならここで足くらい引っかけてやるのだが、それをしないで、ただ「セブルス」と呼ぶ。
それだけで彼は立ち止まった。
「話がある」という一言に「お前と話すことなんか無い」という返事は返らず、彼は黙ってジェームズの後に従った。
人気のない放課後の教室に入り、机の上に腰掛ける。
セブルスも注意はせず、本を抱えたままその場に立ちつくした。
いったいどう切り出すべきだろう。
「今日はどうしたの?」とか「何沈んでんの?」とか聞き方はいくらでもあるだろうが、
こんなときどれが一番有効なのか、ジェームズは判断に迷う。
互いに動きのない停滞の時間が過ぎ、やがてセブルスがポツリと言葉を洩らした。
「コーディーが死んだ」
抑揚のない、どこかに現実を置き忘れたような呟き。
「…コーディー? 君のコーデリアが?」
ジェームズは驚いてセブルスを見つめる。
彼女は、セブルスが彼らしからぬほど可愛がっていた使い魔だった。
美しい毛並みの黒い猫。
気位の高さが飼い主に似ていた。
ジェームズも触れたことのある、セブルスの大事な友達。
「事故だったよ。たわいのない。…でもあっけなく」
「そっか…」
言うべき言葉が見つからず、ジェームズは小さく指で十字を切る。
「お墓、案内してくれる?」
「今度な」
今はとても、という陰鬱な表情。
場の空気は、居たたまれないほど沈んでいた。
ジェームズはセブルスを見る。
そして見つめ返す透明な瞳。
沈んでいる?
落ち込んでいる?
いや、ただの無表情だ。
きれいだ。
いつもならあるはずの眉間の皺もなく、冷笑すら浮かべていない顔は、驚くほど整って見えた。
…スネイプの顔じゃないけどね。
と、心の中で付け加える。
同時に意外さを感じた。
これで今朝のセブルスの態度の理由は分かった。
けれど、彼はこーゆーとき虚勢を張るタイプかと思ったのに。
空元気でも、それを本物に変えることが出来る奴だと。
「また猫を飼おうよ。君がその子を可愛がれば、きっとコーディーだって喜ぶさ」
「グリフィンドールらしい言い草だな。…どうしてそう思える?」
「少なくとも、今の奈落の底に落ちてる君よりかはそっちの方がいいと思うね。違う?」
「私は…」
セブルスは首を振った。
「私はそう簡単には乗り換えられない」
「乗り換えるんじゃないよ。もう一度、別の子を好きになるんだ。まさか、失うくらいなら最初からいなけりゃよかったなんて、思ってないだろ?」
だからもう使い魔はいらない、とか。
「……そのまさかかもな」
「セブルス」
ジェームズが咎める。
「失うのが怖いから、最初から求めない? 本末転倒もいいところだよ」
「私はお前のような勇気は持ち合わせていないんだ。失ってもう一度やり直すというのが、どんなに苦しいか」
「それは…それでも、同じ繰り返しじゃないよ」
「…まぁな」
「わかってるんなら、どうして」
「――では聞くが」
セブルスは持っていた本を側の机に置き、空いた手を緩やかに動かす。
「どこにも代わりがないものを、お前はどう代償する?」
白い血色の悪い指は、ジェームズを真正面から指差していた。
「…まさか、それで?」
彼の顔が歪む。不愉快と不快と、幾ばくかの驚きを込めて。
「だから今朝返事をしなかったのか? わざと? 無視して?」
「…そうだ」
「馬鹿馬鹿しい」
「軽々しく言うな。コーディーだってまだ生きられたのにあんなに簡単に死んだ」
「別に死を軽んじてるわけじゃない。ただ君が、それを恐れて手を引こうってのが馬鹿馬鹿しいと言うんだよ」
言ったジェームズの顔には、侮蔑と怒りがありありと浮かぶ。
「……私はお前に依存しすぎた」
「だから?」
「いつかお前だって消えるんだ」
「だからこの関係を止めようってのか? それこそ『ふざけんな』だよ」
「全部じゃない。ただ深入りしすぎたと言ってるんだ」
「深入りの何が悪い。今更、抜けられると思ってんのかよ」
君が望んでも、僕が許さない!
そう叫び掛けたジェームズから、セブルスは目を逸らした。
「やめてくれ」
痛みをこらえるように、彼は唇を噛み締める。
「お前はどうしてそんな無駄に自信があるんだ」
憎らしいほど。
未来を疑いもせず。
「…私には無理だ。お前の代わりはいない。お前が死んだら次はない、次を見れない」
とても見つからない。知らない。他を見る目なんて無い。孤独に耐えられない。
嬉しいと。
来るかも知れない未来に怯え、自ら心に楔を打ち込んでいるその様を、自分に見せてくれた彼が愛しいと。
婉曲ではあるけれど、確かな告白をこの耳で聞いた。
「言っとくけど、僕だって君がいなくなったからって君以外を見る気はないよ」
君の代わりはいない。でも僕は…。
僕ならば。
「ねえ、ここはグリフィンドールっぽい良い考えがあるんだけど。君、それで手を打たない?」
ジェームズは、先刻までの怒りを引っ込め、逆に楽しげな表情を作った。
「…私を納得させられるほどの論理的解決法だったらな」
「勿論さ。なんたって知恵と勇気のグリフィンドールだよ?」
「無茶と無謀のグリフィンドールだろう?」
こんな時でも皮肉を言うセブルスは、とても彼らしい。
そう思いながら、ジェームズは机から飛び降り、立っているセブルスを両腕で抱きしめた。
片手で腰、片手で黒髪を抱えて、耳元に息を吐く。
「セブルス・スネイプ。君、僕より先に死になよ」
優しく、髪を撫でながら。
「ジェームズ。おまっ…」
「ぜーったいそうなるって。ただでさえ君、不健康してるし、体力ないし、神経は細いし。僕より長生きする要素なんて一つもないじゃんね」
一度体を離し、にこにこと、本気だか冗談だかわからない表情でジェームズは笑いかけた。
反射的に「ふざけんな」と毒づきたくなるいつもの顔。
「虚弱体質で悪かったな」
結局、そんな言葉しか出てきやしない。
彼は憮然としたセブルスに口付けながら、
呪文のように、
「―――君は僕より先に死ぬ。…僕が一人で残されて」
愛しげに言葉を紡ぐ。
「僕は君の代わりを捜さなくても孤独に耐えられる」
よってノープロブレム。
「OK?」
ひょいと首を傾げたジェームズを、セブルスはばりっと体から引き離す。
「なぁにが問題ない、だ。何にも解決しちゃいないじゃないか!」
「えー? 折角、視点の変換というものを教えてあげたのに〜」
ぼりぼりと頭を掻きながら、それでもジェームズはニヤリと笑った。
「でも、信じるでしょ?」
「誰が信じるかバーカ」
いつものように唇がめくれ上がり、それこそ張り倒したくなるようなむかつく笑顔を彼が見せたので、
それで約束は成立した。
夜の地下室を暖炉の火が赤々と照らし出す。
「…ジャーヴィス?」
生徒達が提出した羊皮紙にペンを走らせていた手が止まり、血の気のない指が年老いた黒猫の背中をそっと滑った。
息が細い。
「お前も、あちらへ行くのか?」
猫は眠ったまま動かない。
けれど指は緩やかに、体の輪郭をなぞってゆく。
「だったら、伝言を頼む。グリフィンドールの馬鹿者…お前の名付け親のあの男に」
「大嘘つき、と」