『位置』


刻一刻と風雨は激しくなっていく。
轟音が雲間から響き、その一呼吸前には光が駆け抜ける。
厚い雲の下、昼とは思えないほどに辺りは暗かった。

けれど、光が走る一瞬でさえも、向かう相手の顔は確認できなかった。
立ちこめる白い煙は、土の上に打ち付ける雨滴が霧となったもの。
視界に映る全ては白か灰色をしていた。

僅か五歩先にいる相手でさえそうだった。


二人は向かい合っていた。
動く気配は全くなかった。
いつの頃からそこにいるのか、屋内着そのままの姿の彼らは、既に全身濡れているに違いない。
顎を伝って流れる水が、白いシャツに染み込み、最後には地面へと流れてゆく。
表情すら動かないのでは、彫像と変わりがなかった。

何を待っていたのかは知れない。
片方が歩き出すのを止めているようにも思えたし、単に言葉を交わしていただけかもしれなかった。
ただし、言葉を交わすには、少々差し障りがありすぎた。

時折響く稲妻がなくとも、天から注ぐ雨の音だけで聴覚が機能しなくなる。
僅か五歩。その距離でさえ、声を届けるには遠すぎた。


しかし、世界は不思議と静かだった。
ざあざあと降り続ける不規則な雨の音は、うるさくは聞こえなかった。
声が伝わらず、水を吸った衣服が枷となるその世界で、彼らは静けさの中にいた。
体を伝う水は冷たく、体温を相当奪っているはずなのに。
それでも彼らは日溜まりの中にいるように、まっすぐに立っていた。


先刻より激しくなった雨。
既に冷たさは感じない。
けれど、痛い。

額を打った滴が両目に流れ込み、瞬く。
それで水は流れた。止めどない涙のように。

体は冷え、衣服は枷のように重い。
なのに動かない。動けない。



行かせてしまったら終わりだとわかっていた。

動かない彼を無理に押しのけることをしたくなかった。



…だから動かなかった。



五歩半。
川の対岸に立つように、向かい合うその姿が彼らの関係そのものだった。




“ねぇ”
と、紡いだ声はおそらく届いていないだろう。

それでもジェームズは話しかけた。
眼鏡を取り、それを後ろに放り投げることで意味を伝えた。

眼鏡は水滴が流れてほとんど使い物にならなかったのだ。
あまり視力はよくなかったが、目を凝らせば灰色の人影くらいは確認できた。
顔はぼやけていて見えやしなかったが。

“僕を信じてよ”
やぁ、と手を挙げて挨拶の動作。




眼鏡を取ったジェームズは何かを喋りつつ手を挙げた。
やぁ、声を掛けてくるときの仕草だった。
この状況でその気安さ。
何を言っているのかは分からないが、何を言いたいのかは分かる。
“心配するな”とか“僕が失敗するとでも?”とか、その類だ。

だが生憎と、信じられない。

“信じられるか、バカ”
水を吸った髪を思い切りよく掻き上げた。




髪を掻き上げたセブルスは、おそらくこちらを睨んでいるのだろう。
この視界で、表情まではとても読めない。
だが読む必要など無かった。
今更だ。
言葉が届かないことが、表情が見えないことが、僕らの会話を阻むなんてあるわけがない。

“だーかーらーさぁ”
両手を持ち上げおどけ気味に。

“僕が負けに行くとでも思ってるわけ?”




肩を竦めたジェームズに、セブルスは忌々しげに目を細めた。
なんて奴だ。
結局こちらの話を聞く気などないではないか。

酷い雨だ。
でも見れば分かる。
奴は笑っているに違いない。自分こそが正しいのだと。

“ふざけるなよ”




怒っていると、すぐにわかった。
あまりに触れすぎた彼の感情。
何も見なくても聞かなくても、わかりすぎるほどわかった。

同時に、嬉しく思った。
これが「僕ら」だ。
変わり様がないこの位置を、手放さずに僕は行ける。




轟音の中で、杖を取り出した相手の意図がわからなかった。
ジェームズは手に持ったマホガニーの杖をしゅん、と一振りする。




そんな、と口は動いた。



静止した時間の後、雲が切れた。
雨足は徐々に弱まり、世界に音が戻ってくる。



あるはずがない。天候を動かすなどと。
幻の雪を降らせることは出来ても、流れ星を見せることは出来ても。
身を打つ雨を止ませるなどと。

雲間から差し込む光が筋となって地表に差す。
目に入った雨を手で拭うと、変わらぬ位置に立っている相手が、今ははっきりと確認できた。

笑っている。
屈託無く、まるで本当に魔法を使って見せたという風に。
こんなの偶然に決まっているのに。

けれどまるで、自分の力だという風に笑ってみせる。



ジェームズはくるっと杖を一回転させて己を指差した。
“僕を信じなさいって”
と、表情が語る。

“馬鹿な。はったりだろうが”
そう言ってやりたいのに。

けれど、もしこれがただの偶然なのだとしたら、それこそ信じられない。
もし、こんな偶然をたぐり寄せる力を持っているのだとすれば、それは魔法などよりもよほど目を見張る力と言えるのでは無かろうか。
その力がお前を守ってくれるとでも言いたいのか。





「セブルス、僕は行くよ」
「…好きにしろ」



半歩だけ横にずれて、ジェームズは道の中央を歩いていった。
通り過ぎる際、「それじゃ、また今度」と囁く。

止める権利など無かったのだ。
ただ、知りたかった。

自分が道をふさいだら、彼はどうするか。


三時間。
自分が退くのを待っていた。
それで十分だ。
それがわかれば。





ばしゃばしゃと水たまりを踏みつけながら、セブルスは前に進んだ。
「おい、そこのバカ」
声を掛けると、まだ遠くへ行っていなかった相手は怪訝な顔で振り返った。

「なんだよ。折角格好付けたのに」
「眼鏡をお忘れだが?」
「あーっ」
慌てて駆けてくるジェームズに、彼は呆れ顔だった。

「ったく、こんな時もスチャラカなんだな。お前は」
「当然。それが僕の売りですから」
「買わんぞ」
「お得意さまが何言ってんだか」

ふ、と笑った。


こんなものだ。
これでいい。
これが自分たちだ。


「君が無理にシリアスにしようとするからだよ」
「そんなつもりはなかったぞ。まさか、三時間も雨の中に立たされるとは思わなかった」
「嫌なら言えばよかったのに」
「お前が動かないのに私が動くのか? まっぴらだな」
「これで風邪を引いたりしたら笑いものだよ」
「その予定だ。私は繊細なんだからな」
「じゃあ、見舞いに来ようか?」
「そうしてもらおう。馬鹿は風邪を引かないのだし」
「主席卒業者になんて事をっ」


次第に広がる青空。
湿った空気に乗って広がる音。


声は届かなくても伝わる。そのはずだ。

けれど、やはりこうでなくては。

この罵りの言葉を聞くことこそが大事なのだ。




七年掛けて築いた全てと七年掛けて壊した全てを確かめるために。