『轍』
見ればわかる。
そう信じていたし、そうあるべきだと思っていた。
けれど、実際にその場面に遭遇してしまうと、「俺って奴は」と苦笑いを禁じ得ない。
昼下がりをややすぎた、けれど夕刻とは言いにくい時間帯。
夏休みで子供や家族連れのごった返すダイアゴン横町で、銀の長髪が目に飛び込んできた日には。
「マジ?」と目を見張りながら、後を追う。
本当はそんなものは無いに決まっているけれど、彼の人の通った道筋には、銀の轍が残っているような気がした。
「ルシウス!」
何人もに肩をぶつけて顰め面を背に受けつつ、呼び慣れた名を叫ぶ。
流麗な名。それに名前負けしない全てを備えたその男は立ち止まった。
やっぱり。
「ほぉら。俺の言ったとおりだろ? どんな大勢の中からだって、あんたを見つけだしてみるって」
なんとか追いついてポンと肩を叩くと、腐れスリザリンの同級生は、あまり嬉しくなさそうに振り返った。
「…どうしてわかった?」
「髪質」
直後、思いっきり足を踏みつけられて、アーサーは悲鳴を上げる。
「痛っ! いや、嘘じゃないです半分ホントです。俺が毎日毎日手入れしてる髪を見間違うと思いますか―――? ってか、実際その髪目立つんだよ。気付け」
言われて、ルシウスは不快そうに学友の顔を睨んだ。
「で? わざわざそのようなことを言うために、この往来で呼び止めてくださったのか?」
「いや。ここで逢えたが百年目…じゃなくて運命的。ご一緒してもいいかな?」
「構わんが」
と、彼はそのまま歩みを再開した。
アーサーがにこにこと笑いながら、きっちり左隣の位置を確保する。
「何をにやついてるんだお前は」
「嬉しくて」
「馬鹿に付ける薬はないな。…ところで、何故ここに?」
「あー俺、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店でバイトしてるんだわ。新学期用の教科書が大量入荷されてるから、臨時で」
「ほぅ。何か面白いことでもあったか?」
「ないない。はっきりいって力仕事だなー。あ、でもあれか。来年度の占い学は大変だぜ? 新任教師がすげぇ量の教科書を指定しやがった。両手塞がっちまうよ、あれじゃ」
「それはまた…大事だな」
「心配めさるな。あんたの分の教科書くらいはお持ちしましょう」
「結構だ。それとも、鉄でも仕込んでおいて欲しいか?」
「鉄板入り教科書!? 攻撃力ありそうだな〜」
「喰らうとしたらお前だから心配はいらん」
「やっぱやめときます。十冊全てご自分でお運びください。…ところで。あんたはここで何してんの? こんな下界の雑踏の中で」
「下界?」とルシウスは首を傾げたが、アーサーはそのまま聞き流した。
「私は散歩だな。少し遠出してみようと思って」
「あー…なるほど。で、散歩でこんなところまで足を伸ばされちゃったりするわけですか」
アーサーは大分人通りの減った周囲を見回して、肩を竦めた。
夜の闇横町である。
多くの建物は不自然にも上へ行くほど体積を増し、重圧感を感じさせる。
そしてそれらによって空は覆われ、隙間から光が差すといった具合だ。
夏の真昼過ぎだろうが、問答無用に薄暗い通りは「夜の闇」の名に恥じない構造である。
獣骨の積み上げられた籠の列。
悲鳴にも聞こえる何かの音が響いてくる窓のない店。
狭苦しい道を上り下りする見るからに怪しげな魔法使い。そのうち何人かは、ローブを深く着込んで虚ろな表情を隠していた。
「俺、ここには来るなって親に言われてるんだよな〜」
「では帰れ」
「いえいえ、お供させていただきますとも」
慌ててアーサーは言い直した。
「それに、こんなことに一人で置いとくわけにはいかないっしょ。危険極まりない」
「別に私は平気だが…お前はこうゆう場所は苦手か?」
「そりゃあね」
彼はくしゃっと赤い髪を掻き上げた。
周囲の暗さもそうだけれども、不自然な方向からこちらに注がれる好意的とは言えない視線が背筋をざわつかせる。
「では止めておけ」
「……やだね」
「無理に付いてきてどうするというんだ? 元々お前と会ったのは予定外だし、消えてくれて構わないが」
「違う。あのな」
一呼吸置いてから、彼は深く笑った。
「無理じゃない。正直、あんたと二人ならなんでも平気」
言った自分に満足したかのように、アーサーはルシウスの目を見つめた。答えを待っているようにも見えた。
灰の瞳に変化はない。
けれど、例え表情が露ほども変わらずとも、瞬きの回数でアーサーにはわかってしまう。
ルシウスは諦めたように、初めて笑った。
「お前には呆れる」
私にも、と空耳が聞こえた。
幻聴だろうが構うものか。
この顔を拝めただけで、今日一日に価値があると言うものだ。
暗い路地の中で、年端のゆかぬ少年の二人連れは大変目立っていたが、元よりそうゆうことを気にする彼らではない。
校内校外、目立つのには慣れているのである。
一際大きく店を構える「ボージン・アンド・バークス」。
煤けた不吉さを醸し出す飾り文字の看板が掲げられている「半死半生」。(何の店だ?)
いかにも胡散臭そうなパブ「ナイトメア」や、血の匂いの漂う大衆料理屋「逆さ振り子」。
周囲の剣呑な雰囲気とは無関係に、おそろしくのんびりと「レイスの店」や「流刑地」などを見て歩き、一つ暗いショーウィンドウの前でルシウスは足を止めた。
ガラス越しに、ギャアギャアギチギチと素敵な音がする。
「アーサー、これ」
どちらかというと整った爪の先の方に意識を奪われつつ、彼は指差されたガラスの内側の籠を覗き込む。
「…? 何か変な猫だな。というか、猫かこれ?」
「“掛け合わせ”だよ。良い出来だ。少なくとも見た目は猫に見える」
ふん、とルシウスが鼻を鳴らした。
「そりゃ違法だ」
「つまらん感想だな、ウィーズリー。言い直す機会をやってもいいが」
うわ、まずった。
「えぇと…買いたくもないし飼いたくもないが、作った過程を考えるのは面白そうかな」
「見てみよう」
言うと同時に、ルシウスの足はは店の入り口へと向かう。
え、入るの? とは思ったが、アーサーは黙って古びた木の扉を開けた。
カウンターの奥で、発色豆の殻を向いていた店主が不審げに目を細めた。
当然の反応だったのだが、少年達二人はまるっきり老人を無視して一つ一つの籠に視線を注ぐ。
「見事な合成術だな〜。パンダと山椒魚とかものはしなんてハイセンスだよ」
「ナンセンスの間違いじゃないか?」
「いや、両生類と哺乳類を混ぜるのは難しいよ。甲殻類とかはやりやすいんだけど。すごいなぁこれ。(絶っ対飼いたくないけど)」
「そういえば、お前魔法生物飼育学の成績が良かったな」
「数少ないあんたに勝てる教科です。ケトルバーン教授とは相性いいし。…是非、来年度もあまり張り切らないで欲しい」
「そうか? では、頑張らなくては」
「どーしてそーゆー結論になるんだ!」
場違いな会話を交わす招かれざる客。
白髪の老人は一瞬呆気にとられていたが、すぐにローブの中の杖を握った。
動きを察して、二人はさっと振り返る。
発言したのはアーサーだった。
「おいおい、こちらお坊ちゃんですよ? 何処のとは言えないけど、手ぇ出したらまずいことになりますって」
わかるでしょ、と目で合図。
今日のルシウスの服装は華美とは言えないが、外観は十分に上流階級で通用した。
「お前とて、腐っても純血だろうが」
「腐ってないって」
つまりこの二人の言を信じるならば、彼らは純血。イコール名門である。
老人はローブの中から手を出した。
空の手を見てアーサーがホッと吐息する。
どこの誰かは知らないが、将来のお得意さま…と店主は結論付けたようだ。
むしろ、昼間とはいえこの治安の悪い場所を子供だけで悠長に彷徨くこと自体が、世間ずれした名門の魔法族の証かもしれない。
若者には相応しからざる道楽。
いっそ誘拐でもされてしまえ、と老人は心の中で罵った。
そんな薄暗い感情に気付いているのかどうか、ルシウスは口元を歪めて店主に問うた。
「蠱毒はあるかな?」
「当店では、一部の商品は受注生産になっております」
上手いな、とアーサーは思った。
ぼやかして答えてれば、たとえ何を持っていようと犯罪の証拠にはならない。
「それにしても、あんた蠱毒なんぞ何に使うんだよ。買うだけならギリギリ違法じゃないけど」
「ただのコレクションだ」
「自分で作れば?」
「ああゆうものは特別に仕掛けがいるのだよ」
「壺一つで出来ないんだ? 百匹以上虫入れてあとは殺し合いさせるだけだろ」
「なら作ってみることだ。失敗するのは目に見えている。第一、自宅で蠱毒を作る阿呆がいたらお目に掛かりたいものだ。逃げ出したら事だぞ? それに、より高い効果を求めるなら、素材ももう少し大きなものでないと」
「ああ、例えばあそこにいるようなでっかい蜘蛛とか」
アーサーは店の奥の方を指差した。
そこには、長身と言われる彼よりも大きい黒蜘蛛がわさわさと鉄格子の中で動いている。
その上にはフクロウの入った籠が吊されており、蜘蛛の大足がたまに籠をかすって、鳥が叫ぶように鳴く。
「やかましいでしょうが、お構いなく」
商売気のない店である。まぁ、この通りに面している以上、それは当然かもしれない。
「あれ、ただの梟だよな。何でここに?」
アーサーが呟く。
くいっと袖をルシウスが引っ張り、彼は驚いて振り返った。
餌だよ、と音なく唇が動く。
「―――いくら?」
視線を籠に戻したとき、既にアーサーの心は決まっていた。
老人は冴えない表情で客を見上げ、「あれは売り物じゃない」と告げた。
「知り合いの店から譲って貰ったんだ。少々やかましい梟だから、売り物にならない、と」
「じゃあ俺が買ってもいいわけだ」
表情こそ笑顔だったが、態度は不遜にも見えた。
隣のルシウスが、「ありがちな結果だ」と首を振る。
「では…五ガリオン」
いかにも適当な値が付いて、アーサーはごそっとポケットの中を探る。
「ちょっと待ってくれよ。多分ギリギリ持ってる。…ほい、ひいふうみいよ。とりあえず10シックル」
と、銀貨を積み上げるアーサーの隣で、ルシウスが金貨を五枚放った。
「貰ってゆく」
ウィンガーディアム・レヴィオーサ。
籠は浮いたままルシウスの背中を追いかけた。
「あ、ちょっと…!」
慌てて銀貨をひっつかむと、アーサーは閉まり掛けた扉に向かう。
表では黒い杖を収めたルシウスがふわふわと漂う籠の、中で羽ばたく梟と会話していた。
「名前は…? ああ、やはり無いのか。お前を買った主人は死ぬほどお人好しだから、まぁそれなりの名をくれるだろう」
「つーか、ルシウス。俺あんたに立て替えてくれなんて言ってないんですけど」
「お前に恵んでやる気はない」
「だから、俺だって、」
「後で返せ。学校で。それと、小銭は止めろ。私をあそこで何分待たせる気だったんだ?」
「…そりゃしょーがないってもんでしょうよ」
アーサーは歎息した。
「あんたからの人生最初の頼みが金返せだなんて…」
「おい、ここで怒ってもいいのは私の方だろうが」
「いや、そうなんだけど。何か虚しいものがあるよ」
言いながら、彼は籠を手に取りその錠をこじ開けた。
「ほら、飛べるか?」
茶色い羽根の梟は、勢いよく翼を広げた。
「とりあえず、ホグワーツはわかるよな? 城の、二番目に高い塔の、上から三番目の窓が俺の部屋だから。秋になったら来てくれよ」
果たして聞こえているのかいないのか。
暗い路地に陽光を注ぎ込む、屋根の間の僅かな隙間を鳥はすり抜けていった。
「…あれで本当に来ると思うか?」
「来るよ。来なかったら森で元気に暮らしてるはずだ。いいことじゃないか」
「人生は常に最悪の未来を予測しておくべきだと思うがな。そうしておけばどんな現実にも対応できる」
「俺はイヤだなそーゆーの。いつでも明日を楽しみに生きたい」
「私には出来ない生き方だ。ある意味勇敢だな」
「それって褒めてないよなぁ。……それはそうと、さっきはありがとうございました」
歩きつつ、アーサーは頭を下げる。
「礼を言われる類の事ではない」
「そうですか。でも俺にとっては礼を言う類のことなので、無理にでも聞いてもらいましょうか。…なんか出来る、俺?」
「では、先刻のあれに名付けた時には、話を聞かせてもらおうか」
「あ、うん。わかった。じゃあ誰よりも先に。洒落た名前を」
「お前のセンスなど、たかが知れてるとは思うがな」
変わらず手加減のない言葉を、何故か楽しい気分で受け取った。
そう、こうでなくては。
一語でも多く、冷たく流れる言葉を引き出したい。
「ところで、帰りはどうするんだ? 何か予定ある?」
「特には」
不穏で薄暗い街を抜けて、ダイアゴン横町に戻ってきたときにはもう夕刻。
そろそろ気温も下がってきている。
「じゃあ同じ火格子から帰らないか? バイト先でいつも借りてるんだ」
そこまで一緒に歩きたい。
…と思ったのだが、ルシウスは無言だった。
「えーと?」
見え透いてたかな、と思いながらアーサーは言葉を選ぶ。
「……いま最悪の答えを想像してます。けど、できればいい返事が聞きたいなーと思います」
「そうだな。まぁ二、三刻連れ回したことだし」
少々考え込んでから、ルシウスは聞き覚えのある言葉を返した。
「ご一緒してもいいかな?」
そんな会話をして、今日はお終い。
煙突飛行粉を一握り。お先にどうぞと火格子を譲る。
せめて最後に貴方の声が聞きたい。