『求愛』


「はい、わたしから問題です。あなたが温室の陰でフローレンスにキスしたのは、先週の何曜日でしょう?」





その噂が瞬く間に校内に広がったとき、誰よりも青ざめたのは他ならぬセブルス自身だった。

「あの女、やはり息の根止めておくべきだったーっ!」

と、心の中で叫んでみても後の祭りである。
一体ホグワーツの中で殺人が可能かどうかは知らないが、その時のセブルス・スネイプはまさに彼女に殺意を抱いていた。


バーサ・ジョーキンズ。
二つ年上のグリフィンドール生。

小太りで軽薄な上級生が笑いながらからかって来たときに、まずいと思って脅しを掛けておいたのに。
『だんまりの呪い』でさえ、そのお喋りな口を閉じることは出来なかったということか。
抹殺は無理でも、二度とくだらない噂話に興味など持たぬよう、徹底的に痛めつけておくべきだったのだ。

この事件以降、セブルス・スネイプは敵と見なした相手に容赦の欠片も見せないという性格の悪さに磨きが掛かり、スリザリンでの評価は上がって、逆に他の三寮と教師陣の評価が著しく下がったのだという。










……と、そんな話は、本日のセブルスにとってはどうでもいいことだった。


誰も通らない夜の廊下に佇みつつ、顰め面で腕を組む。
人待ち顔と言うよりは、苦渋の表情。
目蓋はきつく閉じられ、爪先が一定のリズムを刻む。

ふと、景色にたわみが生じた。

目を閉じたままその気配を察して、彼はますます渋い顔を作る。
見えざるものの移動による独特の風勢。


会いたくないな、とセブルスは思った。

まだ言い訳も考えていないのに。



けれど、そんな心情を斟酌してくれるはずもない男の手によって、セブルスは透明マントの中に引きずり込まれる。
勢いによろめいたのをきっかけに、廊下の黒ずんだ石壁に、したたか背中を打ち付けられた。
そのまま、壁沿いにずるずると座り込む。
背後と足下の、冷たいごつごつした石の感触。
そして覆い被さってくる、柔らかな熱源。

「ポッター…」

「やぁスネイプ。いい月夜だね」
「新月だ」
「だったら尚のこと、いい月夜だね」

弾んだ声は、その明るさにもかかわらず、絶対零度の寒さだった。
怖い。
怒っている。
彼の怒りなど、日常の喧嘩の反復を思えばいつものことだったが、こうゆう冷たい怒り方は滅多にない。


膝を折って座り込んでいるセブルスに、彼は猫のようなしなやかさで腕を絡めた。
しなだれかかってくる体の重みは、いつもながら心地よい。
細くもない手が顎をそっと掴む。
そのまま、指でついっと喉を撫でられ、このまま喉をかっ切られるのではと思った。


「五分以内に僕を納得させる理由を言ってみな。でなきゃ永遠におさらばだ」

それは困る。

「誤解だ」
「まるっきり嘘ってわけでもないんだろ。あの噂」
「けれど、ポッター。私だってな」
「僕がリリーと付き合っててもいいって言ったのは君だろ?」
「お前が誘ったんだ」
「そんなのは言い訳だよ」

噛み合っていないような会話。
あり得ない速さで思考が飛躍するジェームズ・ポッターという男に付き合うには、それと同じ速度での思考の展開を迫られるのだ。

おおよそ二十秒で、結論が出るどころか通り過ぎてしまう。
もはやフローレンスがどうこういう話ではない。



「僕が一番だと君が言ったから、相手してあげたんだよ?」

一番とはどういう一番なのか。
一番好きなのか一番嫌いなのか、一番憎んでいるのか一番愛しいのか。

どれにしろ一番は一番だ。

「……いいだろう物色したって。私だって将来結婚しなければならん日が来るやもしれん」
「うわ。似合わねえ。ご家庭を持つには、まずその性格を矯正してからだろ?」
「今更直るか」
「本人が言うなよ本人が」



「…お前が誰を好きだろうと構わない。それが、私の本心だとお前は知っているだろう?」

一呼吸置いてから、セブルスは確認した。
「勿論」と、彼は唇の端を持ち上げる。

「お前に惹かれない人間はいない。だから、お前が好きに選べばいい」
「そうさせてもらってるよ。…だけど「君も」欲しい」



シリウス・ブラックとは、血を分け合ったかのような深い心の共鳴。
リーマス・J・ルーピンの頑なな心を溶かした真情。
ピーター・ペティグリューから捧げられる盲信。
リリー・エヴァンスの愛。

無数の人々からの賞賛と嫉妬。

その全てが注がれても、彼という人間を満たすには足りないのだろう。
常に飢えを自覚している彼は、上を目指すより他はないのだ。

…追いつけないと気が付いたのはいつの日か。
同じ高みには登れなくとも、せめて時間と空間を共有したいと思ったのはいつのことだったか。
その胸ぐらを掴んで、どうして私がこんな思いをしなければならない! と全力で殴りつけたのが遙か昔のことのよう。


以来、彼らは昼の喧嘩と夜の逢瀬を併用してきた。


彼の心の全てを埋めてやることは出来なくとも、その一部をつかみ取りたいと思った。
せめて、そうしてやりたかった。



「渡しているじゃないか」

セブルスは目の前の黒い髪を撫でる。

「お前は私のものではないが、私はお前のものだよ」


独占されたい。
けれど、自分は相手を独占したくない。
この程度の人間の尺度に付き合って、ジェームズ・ポッターの価値を落として欲しくはない。


「その表現には改善の余地があるかな」

ジェームズは、思案するように爪を噛んだ。

「…そうだな。僕の全部は君にはやれない。でも、一割くらいは渡してるつもりだけど?」
「一割?」
「そ」
「多すぎるな。せいぜい5%だ」
「えぇ!? 10%はあるってば」
「では、7%」
「自分の価値を値切るなよ」
「わからんぞ。お前を、より高く評価しているのかもしれん」

セブルスは照れたようにふいっと顔を背けた。

「おだてが上手いね」

喉を鳴らし、ジェームズは相手の耳朶を口に含む。
その際の僅かな目尻の動きを見て、セブルスは「お、」と思った。

そろそろ機嫌が直ったかな、と。
思った瞬間に、うにっと頬が引っ張られる。

「顔に出てるよ君」
「……なんのことやら」

無数の柱の連なる回廊に、光源はないも同然。
それでも、闇の中で彼が微笑んでいるのがわかる。
奴の最も得意とする、人を食った笑み。
それを見ていると、いつも、喰いちぎられて咀嚼されているような感覚を味わう。

色気など全くない。それでも抗えぬ引力。質の悪いトリップ。

精神が犯されているのは確実にこちらの方だ。
潤んだ瞳で見上げられ、魂を吸い取るような口付けを受けるたび、「遊ばれている…」と思う。



「そんな顔するなよスネイプ。許してやるからさ。なぁ? ただし、あの噂、きっちり消しとけよ」
「言われなくともそうする」


むすっと表情を結んで、その後セブルスはハッと瞬きした。

「って、あの女はお前のところの寮ではないか。まったく、これだからグリフィンドールというやつは!」
「あーそう? 僕、バーサって嫌いじゃないよ。良くも悪くも陽性だ。生きるってことを楽しんでるじゃない?」
「ぜひとも、他人様に迷惑を掛けずに楽しんで頂きたいものだ」
「色んなトラブルを巻き起こしてくれるから面白いんじゃないか」

悪童の名を欲しいままにした彼の、無邪気な瞳。―――青の空寂。




退屈か? ポッター

人生は。

我々が惜しむことなく心の全てを捧げても、お前は埋まらないと言うのか?





貪欲な。




けれど、その形容は彼には似合わない、と思う。
それが嬉しいのか哀しいのか、セブルスにはわからなかった。

せめて貪欲であれば、お前の空虚は埋まる日が来るかも知れないのに。

それでも。集めた無数の心を手放す日が来ても、お前は躊躇しないだろう。
去ってゆく者を引き留めたりなどは。

それならそれで、と自分を殺した人間にすら笑いかけるだろう。
許して、しまうだろう。

醜い執着心が彼には足りない。……やはり哀しい。




そんな寡欲な彼が「欲しい」と言う。
愛でも恋でもないその感情を、傲慢だとは呼ばないでおく。

「んじゃヤる?」

ジェームズは、素っ気なく言った。
繰り返すが、色香など欠片もない。あるのは断れない圧力と引力だけだ。

「ここでか?」

呆れながら問い返した。
夜の廊下は、人通りこそ無いが、しばしばゴーストの通り道になる。
結局のところ常識人の域を出ないセブルスには、少々酷な提案だった。

「ここでってのが、許してやる条件だな」

勘弁してくれ、と正直思った。
けれど、ご機嫌は損ねたくない。
折角、あの身の毛もよだつような恐ろしく低俗な噂を、うやむやに出来たというのに。


「…では、お相手願えるなら」





生来の不器用さで、固くぎっちり締められた赤と黄色のネクタイ。(どうしてこれで魔法薬の調合だけは上手くいくのだろう?)
それを解くのに悪戦苦闘しているセブルスを見て、ジェームズはくすりと笑った。
冷えた耳に唇を寄せ、首に両手を巻き付ける。

「今ちょっと可愛いかも」

くそ、彼は悪態を付いた。
昼間は「腐れスリザリン!」と叫ぶその口で、夜は甘ったるい声を出す。

その二枚舌が好きだった。