職員室事情1.8 『安息妨害』
彼の寮はレイブンクローだった。
成績は常に上位で、秀才と呼ばれた。
同室の生徒からは付き合いが悪いと言われ、ガリ勉と陰口を叩かれようと、彼はとにかく勉強した。
特に、「闇の魔術に対する防衛術」には力を注いだ。
―――怖かったのだ。
時代は闇に閉ざされ、未来が見えなかった。
「例のあの人」が魔法界の全ての住人を脅かしていた。
力ある魔法使いが次々と殺され、または味方になっていった。
自分を守れるのは自分だけ。
そう思って彼はホグワーツにいる間、学ぶことに終始した。
誰よりも魔法を勉強すること。
それ以上に大事なことなどあるだろうか?
「お前、怖がりすぎだって」と彼を馬鹿にした友人とは、即刻縁を切った。
闇の怖さが分からない人間などと一緒にいるなど、危険だからだ。
次第に誰も信じられなくなりながらも、彼はそれを正しいと思った。
この状況で、誰が味方で誰が敵かなど判別は付かない。
裏切りなどは、どこにでもある行為だった。
だったら何も信じないことの方が、よほど安全だ。
卒業後すぐにホグワーツの教員に空きができ、彼は即座に後任に志願した。
よい成績を残していたことで、難なく欲しかった席を手に入れることが出来た。
全く運がいい。
ずっと、教員になりたかったのだ。
なにしろこのホグワーツにはダンブルドアがいる。
彼がいるこの場所が、世界で一番安全なのだから。
なにもかも、上手くいっていた。
あの日が来るまでは。
…その男、セブルス・スネイプは彼の一つ上の先輩に当たる。
スリザリンの生徒で、学生時代に特に親しくしたことはない。
むしろ、彼はこのスリザリンの先輩が苦手だった。
そしてまた、複雑な感情を抱いていた。
スリザリンのセブルス・スネイプといえば、ホグワーツ最凶と言われた時代を彩る生徒の一人だった。
グリフィンドールのジェームズ・ポッター、同じくシリウス・ブラック。それからリーマス・J・ルーピンとピーター・ペティグリュー。
スリザリンではセブルス・スネイプ。
そしてやや年長ではあるが、アーサー・ウィーズリーとルシウス・マルフォイ。
彼らの健在だったホグワーツでは、あらゆることが起こった。
輝かしくも呆れかえる業績を打ち立て、卒業していった彼ら。
学生時代、彼らを見て馬鹿馬鹿しいと思った。
くだらないことに時間を割くくらいなら勉強すればいいのに、と。
だが、英雄の如く皆に慕われる彼らを一度でも羨ましいと思わなかったと言えば、嘘になる。
誰だって、一度は人の輪の中心になってみたいものだ。
グリフィンドールは英雄の寮。
そして、スリザリンは…スリザリンのセブルス・スネイプはその英雄の向こうを張る人物だと誰もが知っていた。
英雄の逆も、即ち英雄である。
不思議だった。
同じ秀才といわれる存在なのに。
何故彼と自分とはこうも違うのかと。
嫉んでいる自分を見つけて、居たたまれない気分にさせられたことがある、その人物。
まさか、その先輩が、ホグワーツに教師として赴任してくるなんて。
時代は既に明るかった。
「例のあの人」はもういない。
ハリー・ポッターという名が魔法界に轟き、長い夜は明けた。
けれど彼はホグワーツから離れなかった。
校長が、教師だけを集めて伝えた言葉。
「ヴォルデモート卿は、完全には死んでいない」
気を付けるように、とダンブルドアが皆を見回した。
「えぇ、気を付けますとも」と彼は思った。
ホグワーツにいて、まさに正解だったわけだ。
他の連中のように、迂闊に騒がなくて済む。
まだまだ世界は安全とは言えない。
だが、ホグワーツにいれば安心だ。
そんな折に、スネイプは、魔法薬学の教師としてやってきた。
前任者がスリザリンの寮監だったので、彼はそのまま魔法薬の授業と寮監の役割を継いだ。
同世代だったので何かと組まされることも多かったが、特筆することは何もなく時は過ぎた。
そしてその日。
ハッフルパフのある生徒が、宿題をやってこなかったのが全てのきっかけだった。
話を聞けば、宿題が多すぎるとのこと。
彼は徹夜しても、全ての課題を片付けられなかったというのだ。
…彼は魔法薬学のレポートに、一晩中掛かり切りだったのだという。
そして数ある宿題の中で魔法薬学を選んだ理由は「先生が怖いから」だった。
「量が多すぎる」「難しすぎる」「寝る時間がなくなる」
一人の生徒をきっかけに、教室中から不満が噴き出した。
「先生からスネイプ先生に話してください!」
クラス中に唱和されては、伝えないわけにはいかなかった。
夕食の席で、彼は隣の席に座る魔法薬学教師に話しかけるしかなかった。
(同世代であるから、席割りは当然のように隣に決められていた)。
「今なんと?」
スネイプは、小さな声で囁いた彼に対して大袈裟なほどに眉をしかめて見せた。
「我輩の聞き違いですかな、ミスター・クィレル。貴方は今、生徒達に楽をさせよとおっしゃった」
「そのようなことは…私はただ…」
「ただ? ただ生徒の人気を集めたかったのですかな。いい顔をして、優しい先生と言われたいと?」
彼は…クィレルは、あまりにも攻撃的なスネイプに面食らった。
友人ではなかったが、嫌われる謂われなどないと思っていたからだ。
しかしそれは彼の思い違いで、セブルス・スネイプ教授はこの年下の同僚が大嫌いだったのである。
「ミスター・クィレル。貴方は思い違いをしておられるのではないかな。生徒にとって学問とは、身を立てる術であり、身を守る盾である。
『闇の魔術に対する防衛術』を教える貴方こそ、それを最も知っているべき教師ではないのかね?」
「そ、それは…」
「時代はまだ明け切ってはおらぬこと、知らぬとは言わせませぬぞ」
「わかっております。わかって…」
「ならよろしいが」
ふん、と彼は鼻で笑った。
馬鹿にされている、とクィレルは思った。
そしてスネイプは、わざと声を張り上げたのだ。
夕食を食べている、全ての生徒に聞こえるように。
広間中に響き渡るその暗い声。
…あのジェームズ・ポッターにすらダメージを与えた彼の毒舌は、クィレルのような小心者に耐えられるレベルではなかったわけで。
「そう、あと一つだけクィレル教授に申し上げたいことがある。…実のところ、貴方の授業は生徒の役に立つとは言い難いと、我輩は時に考えるのですよ。
なるほど、知識はおありでしょう。しかし実践というものをどう考えていらっしゃるのか。一度でも闇の森に入ったことがおありかな? 理論先行の教師殿。
少しは個性というものを出してみたらどうかと提案いたしますな。同じ授業は我輩にも出来る―――何故なら、貴方の教えることは、貴方が教わってきた前任者の受け売りで、私も同じ方に師事したのですからね。安心して怪我でも病気でもなされるとよい。一字一句変わらない授業を、我輩がやって差し上げましょう」
スリザリンからどっと笑い声が上がった。
他の三寮がそれに続く。
教師達の席からも、僅かに失笑が聞こえた。
あんまりだ、と思うことすら出来なかった。
恥ずかしさと怒りでいっぱいになり、クィレルはぱくぱくと口を動かして、それから席を立った。
その場に留まることなどどうして出来ただろう。
職員の席の扉から彼が転げるように逃げ出すと、広場からはまた一際大きく笑い声が上がった。
そんな中で、ミス・マクゴナガルだけが眉をひそめていた。
「皆さん、お静かに!」と騒ぎを静めようと、スプーンでグラスを打ち鳴らす。
当のスネイプは、涼しげな表情で食事を続けてるだけで。
校長が、やれやれという風に髭をなでた。
一週間後、クィレル教授は数年ぶりにホグワーツを離れた。
一年間、休暇をとるという名目で。
このまま学校にいることは出来なかった。
子供というのは本当に残酷なほど素直である。
次の日から、生徒達はクィレル教授を指差してはひそひそと話し合った。
授業をまともに聞く者はいなくなり、最初から最後まで忍び笑いが絶えることがない。
その時になって初めて、クィレルは騒ぎ立てる生徒達を抑えることが出来ない自分に気が付いた。
(今までは注意するだけで生徒は静かになっていたのに)
言葉が出てこなくなった。
スネイプなら、こんなときどうするだろうか?
――黙らせる。
減点してでも威圧してでも何人かの生徒を追い出してでも、彼は授業を続けるだろう。
彼と自分の違いを見つけたような気がした。
それは自己の確立。
他人に否定されたくらいでは崩れない絶対の自信。
だから、彼はいつも一人でグリフィンドールに喧嘩を売ってこれたのだ。
負けても叩きのめされても、決して敗北感に変わらない自信を彼は持っている。
クィレル教授は一年間の休暇を取った。
自身を求めて、闇を探しに行き―――そして「自信」をホグワーツへと持ち帰った。
臆病を装いながらせせら笑った。
私はあんな奴に脅かされたのか、と。
たかだか教師一人。
しかも相当に愚かしい。
よりによってこの私に脅しを掛けてくるとはね。
なぁにが「どちらに付く?」だ。
決まっているさ、そんなこと。
…あの時の借りは忘れてはいない。
いずれ数倍にして返してやる。
あの方が復活したら、その時こそ。
「スネイプじゃなかったの?!」
数々の関門をくぐり抜け、私に追いついたハリー・ポッターは驚いた顔で叫んだ。
ふん。
あんな愚か者。
この一年間、彼がどれだけ愚かだったか、私は知っているぞ。
「ハリー・ポッター」
君も愚かだ。
私以外は皆、愚かなのだ。
ダンブルドアも。
私がどれだけ素晴らしいか知ろうとしなかったホグワーツの教師どもも。
―――消えてしまうがいい。
最期まで、彼は認めなかった。
己が今、何よりも恐れていた恐怖の中にいることに。
* * *
それは運の悪い事故のようなものだったのだ。
ミス・マクゴナガルはオレンジの香りのする紅茶を飲み干すと、深く溜息を付いた。
「また一人、生徒が「あの人」の毒牙に掛かってしまいましたわね。…ハリーが無事なのは不幸中の幸いでした」
「闇を呼び寄せたのは彼自身じゃ。あの子の恐怖への怯えが自滅を招いたのじゃよ。このことを生徒に諭してやらねばならんのう」
「てゆーか、校長! 副校長! なにゆえ我輩の部屋でだべっているのですか!?」
仕事の手を止めて茶を出す身にもなってください!
と、セブルス・スネイプは地下にある自分の研究室の真ん中の机(調合用)でのどかにティータイムを過ごしている二人に向かって拳を握った。
そうは言いつつも、律儀に茶菓子まで用意してしまうのが彼の性分である(ただし目上の人限定)。
「まぁセブルス。私たちはこの一年間ハリー達に誤解され続けた貴方をねぎらおうと」
「そうじゃのう。本当にご苦労じゃった。よく守ってくれたのう」
「…我輩は借りを返しただけです」
「奥ゆかしいこと。あなたその誤解されやすい性格は、昔から職員室で大人気ですよ。入学当初など、本当に可愛かったですねえ」
「懐かしいのう。声変わりもしない小さな子が、「ぼくは特別扱いされたくないです」と唇をとがらせるのを見て、皆顔がゆるんどった」
…………嫌がらせだよ、こいつらは。
わーるかったなぁ。
クィレルが家出してヴォルデモート卿に出会った原因で。
あんなのは、ただの事故だ事故! せいぜい業務上過失致死!
こめかみに青筋を浮かべながら、セブルスは大恩ある二人の教師に話しかけた。
「……結局、彼は自分を不幸だと思わなかったはずですよ。あれほど恐れていた闇に同化してしまったのだから、もう怖いものなどなかったでしょう。彼は闇に落ちることで、初めて安息を得たわけです。――生徒が一人、道を誤ったからと言って我輩に当たるのは止めていただきたい!」
「それは早とちりというものですよ、セブルス。私たちは貴方に当たってなどいません」
済ました顔の副校長に、セブルスは眉間の皺を深くした。
「…遠回しにちくちくと、どうせなら真っ向から言ってくれて結構です」
「本音が聞きたいかね?」
ダンブルドア校長が、「ふむ」と顎髭をなでた。
望むところだと思った。
すっと息を呑んで、心を構える。
校長の、眼鏡の奥のきらきら輝く瞳がにこっと笑った。
「わしら年寄りはのう。若い子とお茶したいときがあるんじゃよ」
「………………………………………か・え・れ、じじいども!」
つい叫んでしまって。
翌日のスリザリンでは、訳も知らされないまま150点ほど減点された点数表が掲げられた。
それを見て騒然となった生徒達が、寮監を問いつめる場面があったとかなかったとか。
その理由について、いつにないほど歯切れ悪く、プロフェッサー・スネイプは言葉を濁したのだという。