「聖上陛下静岡縣行幸・記念写真画報」より

「聖上陛下静岡縣行幸・記念写真画報」

昭和五年六月十五日発行・東京朝日新聞社

 聖上行幸

 聖上陛下には、昭和五年五月二十八日より六月三日まで、前後實に一週日の間縣下主要郡市を初め三十有余ヶ所を御巡幸あり、縣治一般の實情、各種産業の状態、敬育の實際等、具さに御親察あらせらる、御勧多端なる御日程のうち或は青年男女學生を御親閲遊ばされ、各種運動競技を天覧ありて、若き縣民の間に漲る質實剛健の氣風を御助長遊ばされ、各種産業製造工場に臨幸又は侍從御差遣の御事ありて、國産工業の発達を御奨励あり、地方功労者を行在所に召されては親しく御陪食の榮を賜ひ、孝子節婦等には、畏くも御菓子を賜ひて醇風美俗を御賞揚あらせられ、傷病軍人遺族に謁を賜ひてはその哀寂を御慰問あらせられしと等、百七十萬懸民の等しく感激恐懼し奉つた所であるが、更に天城御登山の日の如き、山中風雨烈しうして泥濘は御靴を浸し、降雨は畏くも御着衣を浸透する程の荒天なりしも、わが御英邁なる陛下には、風雨を冐して御登攀あらせられ御身みつから範を國民に垂れ給ふなど聖慮無邊、仰げは畏くも尊き極みである、六月三日天機愈愈麗はしく聖駕帝都に還幸あらせらる、われら縣民はこの曠古の光栄と感激を永く子々孫々に傅へ、もつて皇恩に報い奉るであらう。

 

 (六月一日)

 濱名湖を御親察沼津へ

 濱名湖御視察から沼津に向はせらる六月一日は午前八時行在所御出門、御順路を二十五分濱松驛御発四十五分弁天島御着、假桟橋より和般にて服部中村養殖場に臨御、うなぎの群れ重なりて餌をあさる様を天覧、コヒ、スッポンの生育順序などに卸興を覺えさせられ、九時四十分弁天島御発五十分鷲津騨御着、十時『眞砂丸』に御乗船、湖上に於て角目綱の壮観を覚でられつゝ、湖畔の水郷佐久米に御上陸、自動車にて姫街道を氣賀町より井伊谷宮に行幸、金指を経て、飛行隊の行在所に入御御昼食、午後一時十分御発、三十五分市民奉送裡に濱松驛御発一路沼津に向はせられ、四時復興の沼津市御着、一旦沼津御用邸に入御の後四時四十分沼津第四小學校における東部縣民代表者三千余名の奉拝場に臨御、侍從の御先導にて階上パルコニーに出御、知事の奉唱の萬歳最敬禮を受けさせられたるのち、森田市長其他有資格者に拜謁を賜はり、市長より市勢の奏上ありて縣下の発明品、富士山中心の鑛植物その他文献及び縣下小學児童の成績品を天覧、五時五分還御、沼津繭市場に臨御、杉山組合長、名取理事に拜謁を賜ひ、折柄取引中の繭のせり場を天覧、五時卅五分天機麗はしく御用邸に還御あらせらるこの日は士屋、牧野両侍從をそれぞれ富士梨業信用購買販売利用組合、富士製紙株式會社第三工場、官幣大社淺間神社、富士育児養老院、東京人造絹糸株式會社吉原工場、極東煉乳株式會社三島工場、森永煉乳株式會社三島工場、日本金銭登録株式會社大仁工場、東洋醸造株式會社へ御差遣遊ばされた。

(六月二日)

雨中を天城山御踏破

 此日天城八丁池へ御登山の御際定であつたが前夜來の雨に、御道筋御困難に拜され或は御豫定の御變更もやと御案じ申上げたが御元氣の陛下には御豫定通り御決行、海軍通常御禮装にて午前七時五十分、御用邸裏海岸より義勇船和邇丸に乗御、天龍丸御先導、富士丸供奉にて内浦の風光を賞でさせられつゝ細雨の中を重須に御上陸、九時五十分湯ヶ島小學校御着、御輕装に御更衣の上、天城トンネル迄百動車に召されそれより雨と霧と熊笹茂る御難澁なる山路を御登はん、午後二時廿七分八丁池に御到着池畔の御休憩所において御質素なる半つき米の握飯を御昼食として召し上り同五十四分御発、四時三十三分水生地橋に御着、自動車に召され、四十七分浄蓮瀧の入口に御到着、細道を瀧壷まで御徒歩で御往復、湯ヶ島小學校に還御御軍服に御召しかへあり四十分御出発、重須にては、御乗船を富士丸に御變更、江の浦まで御航行七時廿五分御上陸、自動車にて七時四十分御豫定より一時間四十五分遅れ人御あらせられたが御休養の一日をかゝる御難儀の御登山に終らせられたのは畏れ多き限りで還幸後も、お波れを体ませ給ふ御暇もなく御陪食の御事あり近侍の入々は恐懼するばかりであつた。

この日は山縣侍從、阿南侍從武官を富士瓦斯紡績機械會会小山工場、藤原宗行卿の墓藤原光親卿の墓、懸立沼津種蓄場、伊東町國幣小社伊豆山神社、三島衛戍病院、東京第一衛戌病院熱海分院に御差遣聖旨を傳達視察せしめられた。

 三日午前十時沼津御用邸御出門前、御用邸裏海岸にて縣下少年團の代表岳陽少年團一千三百名の御親閲あり、陛下には御用邸裏石垣の上に立御少年達の元氣ある分列、宣誓等の行事をみそなはせられて後西御用邸御出門沼津市民熱誠の奉送中に沼津驛を十時十五分御発車、同二十五分三島騨御着。