小柴昌俊名誉教授、ノーベル物理学賞受賞。

 東京大学名誉教授の小柴昌俊先生がノーベル物理学賞を受賞なさいました。先生は平成13年度東京大学卒業式の理系の部で祝辞を述べられています。かなり難解なお話でありながらも、じっくり繰り返し読みたくなってしまう、すごくいいお話なので、引用します。なぜか、高校の現代文の教科書に載っていた夏目漱石の講演録「現代日本の開花」を思い出してしまいました。


卒業式における小柴昌俊名誉教授の祝辞
名誉教授
小柴 昌俊

 今日此処に立って理工系卒業生の皆さんに話をする事になるとは真に感無量といった感じがします。というのは私は51年前この大学の理学部物理学科をビリで卒業した者ですから。東大嫌いで有名な武谷三男先生が私の結婚式に出席されて「今日の婿さんは東大を出たけれどビリで出たからまだいくらかの見込みはある」とスピーチされたので家内の両親や親戚の人たちは将来大丈夫だろうかと心配したそうです。ところがその後私は此処の教授になって定年まで勤めましたのでまさかビリではなかったろうと信用しない人が大部分です。そこで恥を忍んで此処に私の成績の写しをお見せします。(図:省略)確かにひどく悪いでしょう。何故こんな露悪的ともとられるかもしれない事を最初にしたかというと実は今日の話の内容に直接関係しているからなのです。

 「認識す。故に吾在り。」これはフランスの有名な科学哲学者の言葉ですが自然科学的認識に於いては認識する主体と認識される客体との間に画然とした分離面が存在します。此れあるがために自然科学的認識の結果が人類共通の普遍的財産として累積され得るわけです。勿論この分離面の存在しない認識もあります。認識される物としてよく「真、善、美」が挙げられますが、例えば善を認識する宗教的悟り、あるいは好きな音楽曲や美術作品に陶酔する場合などは主体と客体が渾然一体になった認識でしょう。認識の分類には別の分類も可能です。例えば受動的であるか能動的であるかによっても分類してみましょう。これで認識を四つに分類したわけです。貴方方が今日まで勉強してきたのは受動的主格分離形の認識と分類出来るわけです。これから実社会に出て実務に就く人も大学院に入って研究に従事する人もこれまでと全く異なる事態、能動的主格分離型認識、に直面する事を覚悟する必要があります。これまでの成績が良かったからこれからも大丈夫だろうというのは通用しません。その意味で今日は卒業式というより英語のCommencement Ceremonyと考えたほうが相応しいでしょう。

 この東京大学で沢山の研究が稔っています。その一つの例として理学部が1981年から実施しその後宇宙線研究所に移管された神岡での地下実験に就いて述べようとおもいますが、どうしてこんな事を始めたかを理解して頂くために私が東大を出てから何をしてきたかを極く簡単にのべます。大学院修士二年を終わってから米国Rochester大学の大学院に入って学位を取り、Chicago大学の研究員をしていた時に書いた宇宙線の起源を超新星とする論文が原因だと思いますが旧原子核研究所の助教授に採用されました。米国で何年か研究生活をしたことで身に付いて良かったと思う事は、仮令どんな偉い先生の言う事でも間違っていたらその場で、たとえ公の場であっても、誤りを指摘するのが科学する者の当然の態度であるとする事です。ところが日本では慎みが無いと睨まれて共同利用研究所である原子核研究所に居る事が困難になりました。そこで米国に帰ることを本気で考え始めたのですが丁度その時理学部物理教室で助教授の公募があり、誰も推薦してくれないままに自薦で応募したわけです。幸い物理教室は卒業成績にもかかわらず採用してくれ、1987年の定年まで気持ちよく研究生活を送らせて戴けました。有難い事です。
 
 さて毎年大学院学生が来るようになるとその学生たちの将来の就職を考えなくてはなりません。それまでずっとやってきた原子核乾板の解析だけでは就職場所が狭くなります。そこで素粒子、宇宙線のカウンター実験を始めました。その頃シベリアで電子―陽電子衝突装置を創っていたBudkerという学者から、シベリアに来て共同実験をやってくれないかという申し出があり、現地を見たうえで本気で取り組もうという考えになりました。ところが周りの素粒子理論屋さんたちはそんな事は実験しなくても量子電気力学で何が起きるか解っている、高い国費を使ってまでやる必要は無いというのです。幸いその時の教室主任が一流の素粒子理論屋さんで「やってみなければ何が起きるかわかりませんね」と言って概算要求を出させて貰う事が出来ました。一流の理論屋さんは自分の理解の限界を何時も意識していますが二流の理論屋さんは自分の理論の適用限界を心得ていないようです。ところがBudkerは心臓発作を起してしまい私たちは急遽ヨーロッパに電子―陽電子衝突実験の場所を探す事になり結局ハンブルグのドイツ国立電子シンクロトロン研究所で行う事になりました。この種の実験はその後素粒子実験の王道ともいわれるくらい盛んになりました。幸い東大グループの評価は極めて高くグルーオンの実験的研究でヨーロッパ物理学会から特別賞も貰っています。この流れはその後もジュネーヴのCERN―LEPでの実験に引き継がれ東京大学素粒子物理国際研究センターが実施しています。さてこうなると学位論文を書くばかりになった大学院生はこういった国際共同実験に送り込めばいいわけですが、問題は修士や学部の学生達の教育をどうしたら良いかという事です。

 これより前、学部の学生に科学研究、能動的主客分離認識、を味あわせておくべきだという趣旨で教室に「夏休み実験」を提案し実施しました。これは三年生が成績には全く関係なしに主として夏休みに自分のやりたい実験を希望の研究室の応援を得て実施するというもので、この企画は成功して、やる気のある学生がより多く研究室にはいって来るようになりました。しかし問題は修士および博士前期の学生達に彼らが本気になって打ち込めるような実験を用意出来るかです。

 1970年代の半ばに素粒子理論の標準模型と言われる弱相互作用と電磁相互作用を統一した理論を超えて更に強い相互作用まで統一した理論として何種類かの大統一理論が提案されました。いずれもこれまで無限の寿命を持つと考えられていた陽子が有限の寿命でより軽い粒子に崩壊すると言うのです。世界の素粒子実験屋は色めきたちました。日本でも陽子崩壊を探求する実験が二つ提案され神岡地下実験はその一つです。実は地下に大量の綺麗な水を貯えて周りから光電増倍管で眺める案はChicago大学時代から暖めていたものです。私は毎年入ってくる大学院生に必ず二つの事をやかましくいいました。一つは「俺たちはな、国民の血税で自分たちの夢を追わせて頂いているんだぞ。業者の言い値で買うなんてとんでもない。」もう一つは「研究者になろうというなら、何時かは物にしたいという研究の卵を三つ四つ抱えておけよ。そうすれば情報過多のなかでもどんな情報を取りどんな情報を無視するか効率良く判断できるぞ」です。

 3000トンの水を地下1000メートルに貯えそれを1000本の光電増倍管で観測するという案(KamiokaNDE; NDE=Nucleon Decay Experiment)が出来たのですが、米国でも同様のデザインでそれも数倍の規模の実験が計画されている事がわかりました。これでは国民の血税を二流の一発実験に使うことになってしまう。私は懸命に考えました。期待出来る予算規模から言って大きさで競争は出来ない。然し検出器の測定精度を格段に良くして陽子の崩壊発見では遅れをとっても、陽子の色々な崩壊モードの分岐比まで測れればどんな大統一理論がという目安がつけられる。然し限られた予算規模の範囲で可能だろうか。そこで考え付いたのは光電増倍管の数を増やすのではなく、一本の玉を可能な限り大きくして光の検出感度を上げようという案です。早速浜松ホトニクスの社長と技術主任に大学に来てもらって数時間にわたって説得を続け、当方からも開発のために助手と大学院学生を一人出すからという事で社長にうんと言わせる事が出来ました。直径50cmの世界最大の光電増倍管は一年後にできました。(写真)は嬉しくてたまらなかった当時の私を思いおこさせてくれます。然し買取値段も値切りに値切ったのでその後暫くの間社長から先生のおかげでわが社は3億の赤字が出てしまったと何度か嘆かれたのも思いだします。

 さて1983年7月に検出器が完成し水を張り始め9月からはデータを取り始めました。新しい検出器ですから測定エネルギーの較正をきちんとしなくてはなりません。そこで既に良く解っているミュー粒子からの崩壊電子のエネルギースペクトルを測ってみると、12MeV(1MeV=100万電子ボルト)の低エネルギーまで綺麗に見えます。それより低いほうでは周囲からのバックグラウンドで隠されてしまっていますが。これを見て新しい可能性が浮かんできました。

 地球上の全生物のエネルギー源である太陽は陽子をヘリウムに核融合する事で光っていると理論的には解っているのですが、その際出ている筈のニュートリノが測ってみると理論の予測値の3分の一しか無いという米国の実験があります。何か予測されて無い事が起きているらしいけれどこの実験では放射化学の方法を使っているのでニュートリノが本当に太陽のほうから来ているのか、何時検出器に届いたのか、そのエネルギースペクトルは理論と合っているのかなどは全くわかりません。太陽から期待されるニュートリノのエネルギースペクトルを(図:省略)に示しましたが、我々の検出器のバックグラウンドを現在の1000分の一以下に落とせば太陽内核融合の中間生成物としてごく少量出来る8B(質量数8のボロン)から来る高エネルギー成分を水中の電子との散乱を使って検出出来るではないか。散乱された電子の時刻、方向、エネルギーを測れば太陽ニュートリノの天体物理学的観測が出来るではないか。国民の血税を一発実験に使う事に気の重い思いをしていた私にとってこれは救いでした。早速グループメンバーにこれをやろうよと提案すると陽子崩壊探索用の有効体積が減ってしまうと反対する声も出ましたが結局やろうと決まりました。然しこの為には四周にアンタイカウンターを設置し、水の浄化も桁違いに良くしなくてはなりません。その為の費用をと言ったら始めてから未だ半年も経っていないのですから何処の政府でも始めの実験計画の結果を出してからと門前払いを食うに決まっています。そこで3ヵ月後の1984年1月に米国で開かれた国際学会で陽子崩壊の中間報告をするだけでなくKamiokaNDEを改良して太陽ニュートリノの天体物理学的観測が出来ると思うが誰か或る程度予算を持って来て一緒にやろうという人はいませんかという提案と、もう一つKamiokaNDEでは大きさが足りない、三日に一発くらいしか期待できない、ので5万トンの水を使う本格的太陽ニュートリノ観測台としてSuper―KamiokaNDEを国際協力で始めないかという提案をしたわけです。はじめの提案にはペンシルヴァニァ大学のMann教授が飛びついてきて共同研究を始めることになりましたが第二の提案には何の反響も無くSuper―KamiokaNDEは10年後に日本で実現することが出来ました。

 全周アンタイカウンターの新設、水の徹底的浄化、新しいエレクトロニックスの設置調整等に訳一年半を費やし、太陽ニュートリノのデータ取得を開始したのは1987年1月1日でした。その直後に幸運が舞い込みました。大質量恒星の最後を彩る超新星爆発が17万年前に我々の銀河のすぐ隣にある大マジェラン星雲で起き、その時の光とニュートリノが地球に届いたのです。我々のKamiokaNDEは既に太陽ニュートリノの観測が出来るまでに調整が出来ていましたからそれよりエネルギーも大きく時間的にもバンチしている超新星ニュートリノを捕まえる事は容易なことでした。世界で初めて検出された超新星ニュートリノの信号を(図:省略)に示します。わずか12個のニュートリノ事象でしたがこれが超新星爆発に就いて基本的に重要なデータを与えてくれました。

 太陽ニュートリノの観測は順調に進み予期どおり時刻、方角、スペクトルを全て備えた天体物理学的観測を行う事が出来ました。(図:省略)にそれを示します。左の図は太陽からの方向性を示し右の図は光で撮ったPhotographではなくニュートリノで撮った太陽のn―graphを示しています。この観測と前の超新星ニュートリノの観測に依ってニュートリノ天体物理学が誕生したと考えられています。

 一方陽子崩壊の様々なモードを的確に観測する為に力を注いできた宇宙線ニュートリノによるバックグラウンドの解析は意外な結果を生みました。宇宙線によって大気中に創られたミューニュートリノは飛行中に他の種類のニュートリノに変わってしまう事が解ったのです。このニュートリノ振動と呼ばれる現象はニュートリノの質量がゼロでない事を明白に示しています。そのデータを(図:省略)に示しました。これは素粒子の標準模型が破れている事の始めての確実な実験事実です。

 現在神岡は世界のニュートリノ研究のメッカとして例えば米国から150人以上の学者が研究に参加していますし、第三世代の実験KamLANDも完成して原子炉からの反ニュートリノのデータ取得を始めました。

 振り返ってみると私は良き先生、良き同僚、良き教え子に恵まれ本当に幸運だったと思います。教え子が次々と学会賞を貰うのを見るのは心からうれしい事です。

 皆さんのこれからの個性溢れたご活躍を期待しています。

 御静聴を感謝します。

http://www.u-tokyo.ac.jp/jpn/news/1237/1.html#4
http://www.u-tokyo.ac.jp/jpn/news/1237/mokuji.html

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