033: 付焼刃

 急な雨に驚き、近くの店のアーケードに雨宿りを求めた。
 そこは大きな楽器店だった。

 胸の奥がチクリと痛むのを飲み込んで、広くはないショーウインドウを覗くと、
リュートが並んでいるのが目に付いた。
あるメロディーがたちまち心に流れ出して思わず店に足を踏み入れてしまう。

 リュートの陳列棚へ足を運び、美しいカーブや彫りに見入りながら、
頭の中に流れる『トリスタンの嘆き』のメロディーを追う。
 乾いた、くぐもった音。ほぼ単音で奏でられる、古い時代のある男の悲しみ。
 その音色はまるで、乾いた涙の筋のように思われて俺はこの曲を愛していながら
手元に音源を置くことはしていなかった。
「リュートをお探しでいらっしゃいますか?」地味だが身なりのいい店員に話し掛けられて、
俺は思わず小さく飛びのくように答えた。
「いや…ありがとう。」
 そしてつい習性のようにピアノの並べられた場所へ向かう。

 店主に許しを請うて、鍵盤に手を置く。
 手袋を嵌めた右手は思わずあのメロディーを奏でる。
 ピアノの音色にはにはおよそ似つかわしくない、リュートの嘆き。
 だが、鋼鉄に皮手袋をかぶせただけのこの右手の奏でるピアノの音は乾いていて
くぐもり、そして見えない涙を流していた。

 トリスタンが嘆いている。
 頬に幾筋もの涙の跡を作って、14世紀以来の嘆きを訴える。

「この曲はやっぱりリュートのものですね」
 俺は店主に言い残し、胸を押さえながら足早にその店を後にした。


                                            −終ー




*注 古楽:バロック以前のヨーロッパ音楽。主に中世、ルネッサンス時代から
ルイ14世時代までの音楽をさすことが多い。リュートはその時代の琵琶に似た楽器。
天使がこの楽器を奏でている様子はよくルネッサンス絵画に見ることが出来る。

トリスタンの嘆き MIDI Toyoaki様作 (リュートの音色ではありません)
http://www.midi-box.com/midi-box/box23.html  残念ながら閉鎖されたそうです。

こちらでイメージした演奏は佐藤豊彦氏の"Taenze der Renaissance"1曲目の
『トリスタンの嘆き』です。私は学生時代リュートを演奏していました。


                                            (2004年6月7日)



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