毛玉

どうして見ず知らずの人にあんなに激情をぶちまけてしまったのだろう。
まだあの店で見たセーターを思い出すと胸が締め付けられる。笑い話だ、機械の身体だというのに。

あれからしばらくは自己嫌悪に陥った。あの店の前を通るのも気恥ずかしくてわざわざ普段利用していない家から遠いスーパーを使ってみたりもした。
いい年をして泣きじゃくる得体の知れない男を辛抱強くなだめてくれた老婦人に申し訳ない気持ちはある。その節はご迷惑をおかけしましたと、花束の一つも持って出かけるべきかとも考えてみる。
あの老婦人は背中にかけてくれたそのセーターを包んでくれようとしたのだ。
だがそれは風合いは似ているが、彼女のセーターではない。彼女の、毛玉だらけのあのセーターではない。
そしてあれを着る彼女はもういない。
厚意を固辞して逃げるように帰ってきたのだ。

だが、長い間誰にも打ち明けなかったそんな思い出をあの老婦人に話して思い切り泣いてからは少し気分が楽になったのは確かだと思う。心にもやもやを抱え続けるより時には発散したほうがいいのだ。
そういう意味でもやはりお礼に出かけなければならない。
毛糸店を避けるために商店街を迂回するのもなかなか不便なのだ。

店の前に立つといつものように色とりどりの毛糸たち、サンプルの作品たちが暖かくお客を迎えている。そこにあの卵色のセーターはなかった。
毛糸たちと同様、売り物でもあるサンプル。いつまでも同じものがかけられているわけでなし、売れてしまうこともあるだろう。
予想はしていたもののちょっとがっかりしながら店に足を踏み入れる。老婦人はすぐに自分のことを思い出したようで立ち上がって迎えてくれた。
「しばらくお姿をお見かけしないので、心配していたんですよ。もう大丈夫ですか?」
老婦人は渡した花束に喜んでくれた。
「私も、あなたに渡すものがあるんですよ」
戸惑いながら包みを受け取る。その軽さにどきりとしながら開けてみると、あの優しい卵色が目に飛び込んできた。
「これは・・・困ります」
もう、これを着る彼女はいないのだ。
「受け取って欲しいの」
老婦人はそれをひろげて見せてくれた。それはショーウィンドウに飾られていた女性用ではなく男物だった。
面食らって受け取れない、と言うと老婦人はちょっと怖い顔をしてセーターを胸に押し付けてきた。
「もちろんそれはあなたの恋人が大事にしていたセーターとは違うけれど」
だが、彼女が大事に着ていた色のセーターを僕も大事にするだろうと、老婦人には見透かされていた。

結局、老婦人に無理やり渡されたセーターを持ち帰ることになった。代金は受け取ってもらえなかった。
淡い色のセーターは仕事向きではない。普段着にしても汚れてしまう、とハンガーにかけたままクローゼットに吊るし、開けてみるたびにため息をついて日々は過ぎる。
ある日仕事を終えて商店街を通るといつも見慣れた風景と違うことに気付く。何だろうと立ち止まってみると、あの毛糸店が閉まっていた。休みなのだろうかと閉じられたシャッターの前まで行くと、閉店したと張り紙がある。
一度、あのセーターを着て老婦人の前に立てばよかった。

僕はそれからそのセーターを普段に着るようになった。昔、彼女にプレゼントしたセーターと違い質がいいので毛玉だらけになることはない。だが、着るうちにどうしても毛玉が出てくる。
彼女と同じようにはさみを使って丁寧に毛玉を取っていく。
いつのまにか、彼女と卵色のセーターを穏やかに思い出せるようになった僕がそこにいた。


                                                     図々しくも後日談をリクエストさせて頂居たにも拘らず、
                                                                 快くお受けいただいた上このように物語を昇華させて
                                                                 頂いて感激です。どうもありがとうございました。

                                                                 いき楓さんのサイトDer vierte Platzへ