023:観覧車
その日ジェットは、知り合ったばかりの少女に振り回されっぱなしだった。言われるままに買い物につき合わされ、カフェに連れて行かれて大きなパフェをおごらされ、愚痴を聞かされ、散々な目に遭っていた。
一体何で俺は、こんな女に付き合って一日を台無しにしているんだろう。彼はため息をつきながら、彼女の言葉を上の空で聞いていた。
そもそも声を掛けてきたのは彼女のほうだった。
「付き合ってよ。今日一日。」
びっくりした。しかし彼女の目を見たら、ノーと言えなかった。
少女は、大きな美しい目をすっかり泣き腫らしていたのである。
「全くあいつったら見る目がないのよね。」パフェを平らげながら彼女は繰り返していた。
よくある話ではある。失恋して、あてつけに見栄えのいい男を連れまわす。一時気を紛らわせられればそれでいい。それで涙がすっかり引くというのなら、付き合ってやろうじゃないか。少々自惚れながらジェットは考えた。
いかに振り回されても少女をぽいとは置いて帰れないのは、そのはすっぱな言動とは裏腹な、深い瞳のせいなのに違いなかった。
そんな一日がようやく暮れかけた頃ジェットが連れて行かれたのは、遊園地だった。
きっと派手なジェットコースターで憂さ晴らしがしたいんだろう、そんな風に思って門をくぐったら、意外なことに少女は彼をまっすぐ観覧車へと引っ張っていった。
ジェットは、観覧車が嫌いだった。空を飛べる彼にとって、こんなものは空からちらりと目をやるだけの存在である。小さな箱に押し込められて、退屈な速度でゆるゆると上昇を続け、やっと一番高いところに来たと思ったら、今度はもっと遅く思える殺人的につまらない緩やかな下降が始まる。たいした変化のない窓からの景色に、スモッグに煙った空。
子供の頃はそれでも、こんな退屈な箱に乗ってみたかったこともないわけではない。しかし親もなく、スラム育ちの彼にとってそれは、別世界の物でしかなかった。親に手を引かれてはしゃいで行列に加わっている子供たちの姿など、見たくもなかった。
「何ぼんやりしてるのよ。」
我に返ると、もう順番が回ってきていた。係員が扉を開けると、幸せそうなカップルが転げるように降りてきた。続いて二人も乗り込む。
「あたしたちどんな風に見えるのかなあ。」
「さあな。」ぶっきらぼうに返事をしたところで、ドアが閉められた。
途端、妙な沈黙が訪れた。この少女のことだ、すぐにはしゃぎだして乗っている間喋り通すのだろう、そんな風に予測していたのに、見事に裏切られた。
沈黙を乗せて、箱はゆっくりと上昇を始める。
おいおい、泣き出すんじゃねえか?少女の表情をちらりと伺うが、彼女はただその深い瞳で、窓の外を見ているだけだった。もとより話すこともないジェットも、口を開くことは出来ないままに上昇は続いていった。
夕日が差し込んでくる。気まずいままの時間を、橙色の光の作る影を見ることでやり過ごしているうちに、ようやく二人の箱は観覧車の最上部に到達した。
もう空はすっかり茜色に染まり、地上に近い部分は紫色を帯びてきていた。一番星が見える。
突然、少女が口を開いた。
「空、飛んでみたいな。」
はっとして少女の顔を見る。残照が彼女を照らしていた。彼女の頬は茜色に染まって息を呑むほど美しかった。だがその深い瞳は暗く沈み、何も映してはいなかった。昼間の無理にはしゃいだ様子とは打って変わって、ただ悲しみだけが彼女を重く覆っていた。
「そしたら、地上のことなんかきっと、小さくて何も見えなくなるんだよ。」
「……ああ、空ってのは、いい所だよ。」
ジェットは小さく、一言だけつぶやいた。
少女の耳に届いたかどうかは、分からなかった。
軽い浮遊感とともに、観覧車はもう大分下降してきている。
時間がない、と思った。
「幸せってさ、なんだかよくわからねえけど…あんたは、もう一回幸せになんなよ。」
一日だけの恋人の頬に、ジェットは軽くキスをした。
「…うん。」
もう、コンクリートの地面が見えてきた。
「もう一周、していこうか?」
観覧車は、ゆっくりと回り続けている。
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