薔薇園

 空気に花の匂いが満ちる季節になった。
 が、今日も俺はBGの残党狩りのために調査に出ている。
破壊した基地から消えた科学者たちがおぞましい研究に没頭するまま狂気じみた事件を起こすことが今もあるのだ。
 俺たちはその後始末をおおせつかっている唯一の存在…そんな宿命にある。


 今回の「仕事」は、遺伝子の操作により生態系に異常をもたらしかねない研究を行っている老いた女性科学者の追跡だ。
彼女がBGから持ち出した遺伝子操作のための機器類、そして遺伝子そのものを持って逃げた場所はおそらくイギリス。
グレートとフランソワーズ、それに俺が中心になって追っている。
 彼女を見つけるのは造作なかった。フランソワーズの目と耳が科学者をあるレストランで捉えたのだ。
 大したものだ。追われる身と知っていながら、
彼女は身なりのいい老人と高名なレストランで悠長に高級な酒など酌み交わしている。耳をそばだてると、薔薇の話などしているようだ。自分の品種を生み出すこと、そのための友人との株の交換。道楽までもが薔薇と言う植物の種を操作することだとは、生まれ持った趣味趣向というものは全く、とグレートが嘆息した。

「君の薔薇園は全く見事なものだ」相手の老人が言った。
「全て白い薔薇ばかり…それも半分は君の生み出したものだ。それも世の中に発表せずにただ君の庭でだけ育てているとはね。もったいないよ。私が勝手に世に知らしめてしまったら君はどうするかね?」
「そんなこと、意味の無いことよ。私は私のために花を咲かせるの。全て私のための花よ。」
 酔っている。彼女の目に狂気の光が宿る。と同時に、相手もうんざりしたのだろう、席を立つことを促した。

 俺たちはそのまま彼女の後をつける。3人が距離を取って、通信を途絶えさせることなく。
 ほどなく彼女の邸宅に着いた。薔薇の香りがむせ返るほどに鼻をつく。彼女が錠前を開け、屋敷に滑り込む瞬間、俺は彼女の腕を掴み、そのまま薔薇園へと連れて行った。

 「研究施設はどこにある」まず訊きたいことだ。
 「あなたはあのプロトタイプね。」老女は大して慌てる様子もなく応えた。
 「案内してもらおうか。この右手の仕組み、忘れたわけではないだろう?」

 ふふ、と彼女は笑って、そんなものはない、と言った。今はこの薔薇園が自分の全てだと。彼女がBGで得た技術の全てを、この薔薇の新種の生成に使っているのだと。
 「そんなことが信じられるか」俺と後から入ってきたグレートの声がほぼ同時に響いた。
 「待って!」フランソワーズが割り込む。
 「アタシの目にも、それらしき施設は見つからないわ。少なくともこの屋敷の中には。」
 それみたことか、と老女は不敵に笑い、紳士ならばこの手を離せと厳かに命じた。
 
 相手はBG残党とはいえ、成りはただの老女だ。俺は手をゆるめた。
 「さてどうするね」グレートが皮肉な調子で問いかける。
 「このレディへの非礼を詫び、紳士らしく立ち去るべきや否や?」

 疑念は拭い去ることができなかった。この屋敷は相当大きなものだが、この老科学者は他に施設を持っているかもしれない。分かるまでは帰れない。

…と、老いた彼女が、まるで過去をなつかしく見るように俺を見つめていることに気付いた。その目は酔って熱を帯び、まるで待ち侘びた恋人の来訪に気付いた女のそれだった。

「この薔薇たちを見て」彼女は俺に言った。
「あの日を思い出して…あなたが最初に、私にくれたあの一輪の薔薇を思い出して。」憑かれたように彼女は話し出した。
「全て、全てこの花たちはあなたのもの。あなたと私の日々をこの薔薇たちで埋め尽くしたかった…」

…あれは白い薔薇だった。この薔薇園にある意趣を凝らした微妙な色彩の白薔薇などではなく、ただの小さな白い薔薇。
彼はそれを、私への愛のしるしとして贈ってくれたのだ。彼の美しいブロンド。淡いアクアマリンの瞳。

「研究所であなたを見たときから分かっていた、似ている、あなたはあの人と同じ。あの人と同じ髪、同じ瞳。」
…私が生命体の研究に勤しんだわけが分かって?私はあの人をもう一度生み出したかったのよ。
何故、どうして私を残して、あなたはあんなにも若く、あの戦争で命を落としてしまったの。

 俺は何も答えなかった。
熱っぽい目で俺を見つめ、俺の腕をつかんだまま離さない彼女の熱に浮かされた言葉に呆然としながら、白い薔薇園の小道から小道へ、香りにむせながら引っ張られるように歩いた。
「この薔薇の名はあなたの髪」
「この薔薇の名はあなたの瞳」
「この薔薇の名はあなたの口づけ」
 彼女はついに、噴水と見える給水装置のある薔薇園の真ん中に俺を導いた。
「この花の名は…あなたの名…」そこから先は聞き取れない。

 俺と老女のやりとりをあっけに取られつつ注視しながらも、フランソワーズとグレートは様々な表情を見せる白い薔薇の夜の中の美しさに目を奪われているようだった。むせかえる匂いと目を眩ませる白い花。

 不意に老女は胸を押さえ、俺の腕をつかんだまま苦しげに噴水の方向へ倒れこんだ。その力に、俺もふいを衝かれ引きずられて一緒に倒れこんだ。
 水が溢れ出す。給水装置が壊れたのだ。俺たちはずぶぬれになった。
 水にぬれた老女の顔は、若かった頃を忍ばせるように高潮し、銀の髪が一筋二筋と額から蒼い目の瞼に張り付いていた。俺は彼女を一瞬美しいとすら思った。

 「きゃぁあ!」フランソワーズの叫び声がした。
 「薔薇が、薔薇が枯れてゆく……」

 俺はすぐに腕の中の老女を見た。彼女は恍惚とした表情を浮かべたまま、絶命していた。

 俺たちは枯れた薔薇の洪水の中、しばらくの間言葉もなく立ち尽くしていた。
 そのままどれだけの時が過ぎたろうか。
 俺は老女の身体を抱き上げると、彼女が「あなたの名」と呼んだ…今は枯れた薔薇の傍らに横たえ、むせ返る香りが濃厚に残る花の迷路を抜け、逃げるように出口へと足を向けた。

 半ば朦朧とした俺の意識に、グレートの朗じるシェイクスピアの台詞と、フランソワーズの小さな祈りの声が聞こえた。

(2004年6月4日)