エッシャーの砂の階段


 ハインリヒは、夏というやっかいな季節のため、ギルモア研究所へとやって来た。全身を精緻な人工皮膚で覆ってもらうのである。
 このハインリヒにとって気の滅入る行事をやり終えたギルモア博士は、夏の学会へと海外へ 出発していった。
 研究所には助手を務めたジョーとフランソワーズ、イワンにハインリヒ、そして 時折顔を見せる張々湖。


 そんな暑いある日、フランソワーズがやけにうきうきした顔で買い物から帰ってきた。
「ねえ、ジョーは戻ってる?」いきなりこれだ。何やら嬉しい買い物をしたらしい。
夕飯のための張々湖との釣りから戻っていたジョーが階段を降りて来るなり、弾んだ声で、
「ねえ、皆で海水浴に行きましょうよ。久しぶりにハインリヒも来ていることだし、 イワンも昼の時間だし…。」満面の笑顔だ。
 あまり気乗りのしないハインリヒだったが、あまりに嬉しそうな彼女の様子に、とりあえず 話だけは聞いてみる。
「明日は晴れだけど、あとは暫く雨らしいわ。行くなら明日しかないわよ。 ジョーとアタシ、大人とハインリヒ。この暑さだもの、いいじゃない?」
「アイヤー、わて、ちょうど店予約入ってるヨ、ごめんアルフランソワーズ。」 張々湖が残念そうに言う。
「そうなの…。」
「でもフランソワーズにジョー、ハインリヒ。3人いれば誰かが必ずイワンの面倒を見られる、安心 アルヨ。ワテのことは気にしないで行ってくるアルヨロシ。」
「………。」まだ返事もしていないのに、すっかり話は決まってしまっているようである。
 まあ浜辺でイワンの面倒でも見ていればいいか。ここはジョーの快諾を得て嬉しそうなお嬢さんの顔 に免じて参加してやることにした。

 ……それが間違いの元だったのだ。

 翌日。見事に晴れた暑い日だった。朝からはしゃいでいるフランソワーズ、それを眩しそうに見ている ジョー、例によって沈着な赤ん坊、そして気乗りのしないハインリヒは江ノ島海岸へとやって来た。
「なんでよりによってこんな混んだところなんかに…」ざわつく海の家でハインリヒは文句を言いか けたが、 イワンにたしなめられる。
『マア気ニスルナ。タマニハ人並ミノコンナ日本ノ夏ヲ過ゴスノモ悪クナイト思ウヨ。 ソレニ、サザエノツボ焼キヤ烏賊ゲソノ串焼キハナカナカ美味シイソウダヨ。』

 全身を覆う見事な出来の人工皮膚を装着されたハインリヒは、せっかくの博士の好意だと思い、 珍しくも水着で浜辺に出てみた。
 そこへ浮き輪だのビーチマットだのを抱えたジョーが一足遅れでやってくる。
 最後に、言いだしっぺの登場である。
 赤地に大きな白の水玉のビキニ。それに同色のフリル。一応恥かしそうな素振りをしつつも、目はちらちらとジョーの表情 を気にしている。
「本日の目的はこれって訳か。」なるほど可愛い。若い娘の精一杯の努力を微笑ましく、また 男としては当然ともいえる感情をほんの少々抱きつつ、ハインリヒは彼女の姿をちらりながめた。
 その当人、鈍い。誉め言葉の一つもかけてやりやしない。

 ジョーは彼女とふたりで海へ入ってゆく。
ハインリヒは波打ち際近くの砂浜でイワンの知的砂遊びに付き合ってやることにした。 あのエッシャーの無限階段を作ってみようというのである。まあ、見ているだけでも興味深い。

 ひとしきり泳いだ後、お二人さんは浜辺へ一旦戻ってきた。
 ハインリヒとイワンの後ろにビーチマットを広げて寝そべり、しばしの休憩。
 まだフランソワーズはジョーの表情を気にしていたが、とうとう我慢できなくなった様子で 口を開いた。
「ねえ、この水着どう?昨日買って来たのよ。」ふくれ気味である。
「え?う、うん。いいんじゃないかなぁ?」頬が赤くなっている。なんだ、照れていただけか?
 居たたまれなくなったのかジョーは突然立ち上がると、ジュースを買いに行くといって その場を離れてしまった。
 不満げなお嬢さんは
「泳いでくる。」と一言言い残して一人海へ向かっていった。

 イワンの芸術作品に波のしぶきがかかり、作業の邪魔をする。
 いつの間にか波が高くなっているようだ。
 目の端でフランソワーズを心配してやりながら赤ん坊のお手並みを拝見していたとき、 ひときわ大きな波の音が
「ざばーん」と聞こえた。人々が楽しげにキャーキャー叫んでいる。
 思わず海に目をやったとき、少々異質などよめきが聞こえた。そこへ視線を向けると、 波に揉まれてくしゃくしゃになった亜麻色の髪を顔に絡ませたフランス娘の姿があった。

 ………。ビキニのトップがない。波に揉まれてさらわれたのだ。

「あ……」思わずハインリヒは腰を浮かせた。 本人は全く気付かずに顔に絡みつく髪をどけようとしている。
 瞬間、彼女へ向かって駆け出していた。
 強い日差しにあられもなく晒された彼女の白く美しい乳房。絡みつく視線から守るように、上半身をかばう形で、 無意識のうちに前方から腕を回し自分の身体で包んでやる。
「きゃ!何?」ふたり裸で抱き合っている格好になった。もっとも女の手は男の背に回ってはいなか ったのだが。
 ただでさえ目立つ彼らを周囲の人々は好奇心とスケベ心一杯で見ている。
 濡れそぼった裸の金髪娘と彼女を抱く銀髪の男。なんとも色っぽい情景である。見られるのも致し方ないであろう。
「あ、」説明する間もなく、また高波。
 ふたりは波に足元をすくわれ海中で一瞬抱き合いながら絡まりあってしまった。
 ようやく波が引いて目を開いたフランソワーズ。
「な、何するのよハインリヒ!」狼狽と困惑、それに怒りの響きが混じる。
「あ、あのなお嬢さん…水着……。」
「…えっ?あ、あっ…………!!!」
 ようやく気づいた彼女を抱えたままとりあえず海中にしゃがみ身体を隠させる。
 フランソワーズは羞恥で、ハインリヒはそれに加えて途方もない困惑のあまり言葉が出ない。

 そこへイワンからの鷹揚なテレパシーが入った。
『大丈夫ダヨ、フランソワーズ、ハインリヒ。ビキニは僕ガ見ツケタカラ。』
「どこにあるのよっ!」
『ジョーニ渡シタヨ。彼ニ着セテ貰イナヨ、ダッテ好キナンデショ?』
「この野郎。」あの生意気エスパーめ、このままここで着せてやればいいものを。
『僕ハソンナモノノ着セ方ナンテ知ラナイヨ。赤ン坊ダモノ。クス』

 フランソワーズは半泣きで胸を覆い、あっという間もなく小走りで一人で置き去りになったかたちのイワンの 元へ戻り、急いでビーチタオルをかぶった。ハインリヒも呆然と後を追う。
 周囲の目がまだふたりに注がれている。
 そこへちょうどジョーが慌てた様子でジュースを抱え、ビキニのトップを手に戻って来た。目をぱちくりさせている。全く、不器用な男だ。
 その手からひったくるようにビキニのトップを手に取ったフランソワーズは海の家へと走って行き、結局そのまま 元の洋服に着替えてうつむきながら戻ってきた。
「さっきはごめんなさいハインリヒ、…あ、ありがとう…。」やっとの思いで口にする。
「い、いや…オレも咄嗟のことで、すまないことをしたな。」思い出すと頬が熱くなる。
『相手ガ違ウネェ。』
「このっ…!」
「うるさいわねっ、イワンの馬鹿っ!」
 ふたりの声がいたいけ(?)な赤ん坊に浴びせかけられた。

「あ、あの…大変な目にあったみたいだね。そばにいなくてごめんよ…」
「ジョー、なんでもないのよ。もう気にしないで。帰りましょ。」目を上げない。
 イワンが与えた妙な名誉挽回のチャンスは当然のことながら無駄になった。
 ジョーは、もう服を着て真っ赤で俯いているフランソワーズと、同じく赤い顔でさっさと海の家へ向かう ハインリヒに、すっかり当惑している。

 ハインリヒは今朝のフランソワーズの笑顔を思い出すと不憫でならない。
「彼女をもっとしっかり見ていてやれよ。」とジョーの耳元で呟いた。

 そのまんま海水浴はお開き。
 訳知り顔で沈黙する赤ん坊を腕に抱いたジョーは、帰りの沈黙をごまかすための 江ノ島名物烏賊ゲソの串焼きをぼそぼそと食べ続けるハインリヒと、 少し離れてしょんぼり歩くフランソワーズを見比べて溜め息を飲み込んでいた。

 彼はその後、ハインリヒが早々に立ち去った研究所で、当分の間イワンの面倒をまかされること になる。
 イワンがジョーに事態の仔細を微に入り細に渡り説明したのは、その頃のこと。
『ふらんそわーずハ、キミニアノ水着姿ヲ見テ欲シカッタンダヨ。マッタク、鈍インダカラ。』
 気を使ってくれるのはありがたいが、さて、赤ん坊の出る幕だろうか?釈然としないジョーにイワンは一言。
『エッシャーノ階段、全部作リタカッタノニナァ』

−終−