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辻夫妻との思い出
■出会い
学校創りをしていた関係で1985年頃に阿武山学園を見学させて頂き辻ご夫妻と出会いました.その後退職され小さな家に住んでおられた時にお訪ねしてとても歓待して頂きました.
■最初の家
辻夫妻が阿武山を退職されてから最初に住んでおられた家を訪ねたのが最初で一度だけだったからかも知れませんが,一番印象に残っています.最初の家がえにし庵の原点だと思います.
最初の家に着くと光文さんは「ようやく所帯が持てた」と笑っておられました.実家に戻ったような懐かしい感じがしました.須重子さんの手料理を頂きながらどんな話があったか覚えていませんが,帰りは夫妻が「駅まで送って行くわ」と言われ3人で夜空を眺めながら歩きました.その時に須重子さんが「阿武山でUFOを見た」なんて話をされたのを覚えています.とても楽しかったです.
■えにし庵
えにし庵が出来て最初に訪問した時,光文さんは「引っ越しが大変だった」と言われたので「まだ引っ越しが残っているなら手伝います」と言うと「うちの軽で百回位往復して済んだ」と笑って言われました.
えにし庵が出来てからも辻夫妻に会いに行くと言う気持ちで,えにし庵に行くという意識はありませんでした.入り口に”えにし庵”なんて妙な看板があり入った所に広間がある変な家だなと少し違和感がありました.ある時光文さんに「この家は広くてきれいで旅館みたいだから前の家の方が落ち着きます」なんて言うと光文さんはえーっと当惑されていました.
そんな私ですが,えにし庵のお風呂に入ったり泊まったりもしました.夏に汗かきながら,えにし庵に着くと光文さんは「暑い中よう来たな.まず風呂に入れや」と言われました.お風呂に入っていると須重子さんが「この子の足洗ったげて」と犬を抱えて来て風呂に置いていかれました.犬の足を洗っていると犬がウーッと唸ったので怖かったです.
そんな私はえにし庵の0期生だったと自負しております
■学校創りの顧問として
当時学校創りは光文さんは外部の顧問のような形で参加され,8人位でやっていましたが,運動が進むにつれ候補地や教育方針で2つに分かれました.
活動の拠点に農家を借りていましたので1987年の夏にそこで泊りがけで学校創りの話し合いを行いました.光文さんも参加されましたので私はそこでの活動やお気に入りの場所などをご説明しました.
その時光文さんを農家の離れに案内して押し入れを開けて「今は布団が一杯ですが,合宿で多くの子供が来て寝ると空になります」
(光文さんはここで深く頷かれました)そして
「他のスタッフは母屋で寝ていますが,私はこの押し入れで寝てます.そして夜ふと目がさめると一杯子供が寝ているのが見えるから何か牢名主みたいやなあと思いました」と言ったら光文さんはアハハと愉快そうに笑われました.
■辻夫妻との愉快で有意義なエピソード.いずれも私の中で宝になっています
*電話で「学校創りなどご相談したい事がある」とお願いすると「ああいいよ.おいで」といつも二つ返事で招いて下さいました
*えにし庵に行くと須重子さんが手料理をふるまって下さいました.須重子さんが米を研いでいると光文さんは「ご飯を炊くために米を研いでいるが”今米を研ぐ”その事に意味があるんだ」と仰いました.須重子さんの手料理と共に覚えています.
*当時私は裸足で歩いていました.えにし庵にも当時住んでいた芦屋から裸足で行ってまず須重子さんに「裸足で来たからまず足を洗わせて下さい」と頼みました.光文さんに「裸足で歩くと同じ道でも温度の差が分かる」と言うと光文さんは驚いて庭まで行って「裸足はイカン.帰りはそこの草履をはいて帰れ.裸足参ったな」と笑いながら仰いました.
この話はその後私を紹介する時に何度も言われましたので覚えています
*三好達治の
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む」
を読んで「何の事は無い当たり前の事だが,こういう当たり前の事に有難い,有難くないを超えた世界がある」と言ったら大いに賛同して下さいました.
*学校創りの拠点にしていた農家で大根を作っていたら葉にカエルが乗っていました.それを見て「カエルが乗り,風や雨が当り夜には星の光も当たるから一本の大根でも宇宙と繋がっている」と言ったら光文さんは「小乗仏教の悟りや」と言って喜んで下さいました.
*何をお話ししたか覚えてませんが,話し終えると”なつかしい”思いが沸き上がりました.すると光文さんも「なつかしい感じがするな」と言われました.心ってつながっているんだと思いました.
*ある時歌の神田川を録音したテープをお持ちしたら.光文さんは「良い吹込みのテープありがとう」と仰って頂き一緒に聴いていたら須重子さんは「阿武山にこんな子一杯いた」と言われました.(若い子の同棲の歌です)
*生と死について
当時私が住んでいた芦屋に海を埋め立てて造ったシーサイドタウンと言う街がありました.一から作っただけに住宅,道路,学校,公園,医療,消防…と合理的な配置で何でもそろっていました.でも何か足らないなと考えてみるとそれは墓でした.
田舎の高校で教員をしていた時によく生徒と一緒に帰りました.ある時生徒が墓を指さして「あればうちとこの墓.去年お婆ちゃんが入ってん」と言いました.このように田舎では生活圏に墓がある.でもシーサイドタウンには無い.そんな事を光文さんに言ったら「そうだ生と死は手の平の裏表みたいに一体なんだ」と手の平の裏表を見せながら仰いました.
*どんなにほめられても,けなされても
私は1995年の地震で多くの物を失い辻夫妻の手紙も連絡先も無くしてしまいました.
覚えているのは面白い絵と共に
どんなにほめられても自分は自分以上になることはない
どんなにけなされても自分は自分以下になることはない
そんな自分にどっかと腰をすえて生きていきたい
です.(細かい表現は違っていると思います)
■最後に:辻夫妻に科学的世界観を語れば良かった
科学の眼で途方もない豊かさ,美しさ,面白さを見つけて楽しむ
平凡に非凡を見つけるのは非凡
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