医療行為の意味と自分


 医療に携わるにあたり、「なぜ医療を自分が選んでいるのか」を、考えなければいけないと思いました。そして、それを考えることは「医療とは何か」を考えることに通じると思いました。

 医療とは何か。どうして人は医療を行うのでしょうか。そして求めるのでしょうか。どんなに健康な人も、必ず老い、そして死を迎えます。死を迎えるにあたり、なぜ人は医療にエネルギーを費やすのでしょうか。

 私は、そこはひとつの学びの種類の場であると考えます。医療現場というものは、生と死を通して、医療という一種の物事を通して、たましいが多くのことを学べる場所であると考えます。人は、多くの経験と感動を求めて生きるわけですから、それを多く得られるその場に、喜んで(たましいは)エネルギーを費やすのだと考えております。

 ですから、はっきり言いますと、治る治らない、治す治せないは、目的ではないと考えます。語弊があってはいけませんが、もちろん、治療家としては、受け持った患者さんは、どんなことがあっても良くするというのが鉄則です。しかし、どんなに治療家が頑張っても、患者さんが頑張っても、病気は進み、死に至ることも多くあります。「病気が進行する」=「悪くなること」ではないということを医療現場の人間(もちろん患者さんも)は理解しなくてはいけないと思います。病気が進み、死を間近に控えても、たましいは悠々と、より経験を増し輝いていることもあります。死を受け入れ、理解し、死後の世界への準備をしているたましいは、全体を考えるととても良い状態になっていると考えることもできます。そのような状態へと導くのも医療に携わる人間の役目ではないかと考えます。

 そして大事なことは、患者さんと医療者の統合、そして生と死の統合です。場所は病院であっても、患者さんの家でも構いません。場所は構わないのです。そして肩書きも何も意味はなさないのです。どちらが主体でもなく、どちらが偉いわけでもありません。ただ、そこには治療する側、治療を受ける側があるだけです。傍から見て、どちらがどちらでも構わないのです。ただ、そこに、医療現場という場所で、お互いが学びあいをしているということの自覚が大事であると考えます。患者さんが病院に来て、もしくは往診に患者さんの家に行って、そこで治療側も患者さん側も医療を通して学びあう。生と死と言う古代から人間が関心を持つ出来事、物事の中でお互いが学びあう。生きる意味死ぬ意味を考える。多くのことを学びあえる場。それが医療現場なのではないかと考えます。

 患者さん、またその家族や友人、医療従事者、医療に関わる全ての人が、医療という場を通して、泣き、笑い、悩み、苦しみ、悲しみ、怒り、恐れ、憂い、そして喜び、感謝し、たくさんの感動を得られ、たましいが成長するひとつの場が、医療であると考えます。

 そして私はそこで、学びなさいというたましいからのカリキュラムを、一生懸命遂行していくことが、お役目なのであろうと考えております。

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