恋のいろ

芳谷美伊

「へえ、そうなんですか」
 話好きな女性店主の「おすすめの鍋」話に律儀に相槌をうちながら、イルカは長ネギを眺めていた。どれもなかなかおいしそうだ。
 こういうときはやっぱり、野菜にうるさい人間に選ばせるに限る。
「じゃあ、そのゆずももらいます。──カカシ先生」
 振り返ると、予想した位置にカカシはいなかった。
 十メートルほど離れたところで、カカシはなぜかぼうっとこちらを見ていた。焦点は、イルカにはない。
 なにをやっているのだろう、あのひとは。
「カカシ先生」
 もう一度、今度は少し大きな声で呼ぶと、彼は目が覚めたみたいに瞬きして、やっとイルカを見た。「ごめんなさい」とでも言うように片手をかるく上げ、すたすたと戻ってくる。
「なんですか、イルカ先生?」
 にこにこと訊くカカシはとてもうれしそうだった。
 露出の極端に少ない顔は表情が読みにくいものだが、それを補うように、カカシの表情と仕草は雄弁だ。糸みたいに目を細めた、でれん、と甘い表情に、イルカはちょっとだけ「なんだかな」と思う。どうも、カカシの感情のツボというやつがときどきわからない。
 まあ、わけがわからないまま不機嫌になられるよりは、わけがわからないままうれしそうにしてもらったほうが、よほどいいけれど。
「長ネギ、どれがいいと思います?」
「ん〜、そうですねェ」
 ひょい、と上体を折り曲げて、カカシは真剣な顔でネギを見下ろした。頭の動きにつれて、ほうきみたいな銀の髪が揺れる。
「おやおや、じゃあ、今日はおふたりで鍋なのかい」
 おかみさんが腰に手をあてて、半分呆れたような声を出した。
 イルカは笑って頷く。
「今回、ちょっとカカシ先生にお世話になったものですから。お礼も兼ねて……家でだったら、つぶれるまで飲んでも平気ですしね」
 たくさん考えてストックしてある答えをひとつ口にすると、ネギを眺めたままカカシが言った。
「お世話、っていっても、たいしたことないんですけどね〜。イルカ先生ってば、律儀だから」
「そうだよねえ。このセンセイは律儀なんだよねえ」
 おかみさんは景気よく笑って相槌をうつ。
「半分は口実で、飲めればいいってだけですよ」
 と愛想よく笑い返しながら、イルカはカカシの頭を見下ろす。  ──ずいぶんさらりと、嘘につきあうようになった。
 なにを考えてつきあってくれているのか、イルカには知る由もないけれど。
「隠さなきゃ、ダメなんですか」
 最初は、思いきり不満げに、低い声でそう言っていた。
 それはひどく胸にこたえたけれど、しかたのないことだった。だから「ダメです」と頷いたら、「わかりました」と、納得したのかどうかよくわからない無表情でこたえて──それ以来、彼はイルカがふたりのことをどう世間に言い繕おうと文句を言わない。
「やっぱりこれですかね〜」
 カカシは積まれていたネギから一束を選びだした。ぷくんと太った、つやつやの長ネギだった。
「じゃ、これください」
 財布を取り出しながら横目で見たカカシの顔は、相変わらず楽しそうに、幸せそうに、笑みを浮かべていた。
「さっき、なにしてたんですか?」
「さっき?」
 こて、とカカシは首をかしげた。最近、少し子供っぽい仕草を見せるようになったな、とイルカは思う。
「八百屋で、ちょっと離れたところから眺めてらしたでしょう」
「ああ、あれ」
 頷いたカカシは相好を崩す。
「あれはね〜、ちょっと思い出したもので、見てたんです──通りと、イルカ先生をね。あー、ホントだな〜、バラ色だな〜、って」
「……バラ色、ですか?」
「ハイ」
 なにを言っているのかわからずにいるイルカに、カカシはにっこり笑ってみせる。それからちょっと照れたように頬をかいて、前を向いた。
 ざわざわと人にあふれた通り。夕方。
「イルカ先生と初めて会う、前の日にね、歌を聞いたんですよ。酔っ払いが、「恋はバラ色」って歌ってる歌。  そのときは、バラ色なんて、ヒドイこと言うな〜とか、わかんないな〜とか、思ってたんですけど」
 淡々と、穏やかに紡がれる優しい声に、イルカは黙って頷いた。どうしてバラ色が「ヒドイ」のか、わからなかったけど、カカシの答えが決して楽しくはなさそうだから、つっこまないことにする。
 せっかく、彼がこんなに優しい顔をしてるのだから。
「……で、さっき、なんだかそれを思い出して──あのときはわからなかったけど、今ならわかるかな、と思って、イルカ先生のいる景色を、眺めてみたんです」
 ちらりと視線をよこしたカカシは、また、糸のように目を細める。
「あのときは誰も好きじゃなかったけど、今は、イルカ先生がいるからね」
 低く、甘い声。  イルカは自分の体を見下ろした。
 いつもと同じ忍服。見回せば、辺りはいつもと同じ町並みだ。全然バラ色なんかじゃない、と強がりのように思うのに、自分の耳が熱くなるのがわかった。  ──往来で、こんな恥ずかしいことを言われたくない。
「あなたってひとは……」
「ハイ?」
「恥ずかしくないですか?」
「い〜え〜、うれしいです」
 微妙にずれたこたえをカカシが返す。イルカは赤くなった顔を背けた。
「でも……バラ色、って。ひどい色なんでしょう?」
 言いながら、これでは自分のほうが子供みたいだ、と思う。それも、かわいげのない子供だ。
「それがねえ」
 強がった──というか、意地を張った、照れ隠しにすぎないイルカの言葉を気にする風もなく、カカシの声がゆるく、弾む。見ていないのに、にっこりと糸のように目を細めて笑うカカシの顔が見えるようだ。
「バラ色って、俺が考えてたバラ色とは違うんですよ。バラ、っていったら、ホラ、真っ赤な花を思い出すじゃないですか。  ───でも、もっとこう、淡いっていうか……虹色っぽいっていうか──ああ、そうですね、ちょうど、あんな感じですかね」
 ぱたぱたと肩を叩かれて、イルカは顔を上げた。
 斜め前方を、カカシが指差している。その指の先では、連なった軒屋根の向こうに、淡く、朱鷺色の濃淡に染めあげられた夕方の雲が、静かに浮かんでいた。
 あたたかで、見ていると満ち足りてくるような色だ。
 薄くたなびく茜色の雲は、ともすればどこか寂しい光景なのに、今はおだやかに甘い色に見える。
 きれいな、色。
 イルカはなにも言えずにそれを見た。
 あんなふうに、カカシにとっては「恋」がきれいな色なのかと思うと、いっそ悲しい。
 横目で盗み見たカカシは、雲を見ずにイルカを見ていた。目が合うと、小さく微笑む。
「きれいでショ?」
「……きれいです」
 頷いて、イルカは唇をかみしめる。
 隠しだてするような恋が、バラ色だなどとイルカには思えない。
 ──彼にとって、この恋が、そんなにいいものだとは、とても思えない。
 思えない、けれど。でも。

 でも、困ったことに────自分は、この上忍が愛しかったりするのだ。

 イルカは野菜の入った袋を持ち直した。  腿のあたりで汗ばんだてのひらをぬぐう。
「肉屋で、鳥のひき肉買って帰りましょう」
 言いながら、さりげなく、カカシの手を掴んだ。
 カカシの腕の筋肉が瞬間的に強ばるのがわかる。
 見開いた目でふたりの間の手を見下ろすカカシを無視して、イルカはなにげない、できるだけ普通の声を装った。
「鳥団子、そんなに面倒じゃないって、おかみさんが言ってましたから。作ってみます」
「……いいんですか?」
 低い問いと、ためらうような指先がイルカには愛しい。
「食べたいって、言ってたじゃないですか」
 だからイルカはしっかりと手を握り直す。
 夕方の、ひとの多い、町なかの大通りの、まんなかで。
 そうじゃなくて、というつぶやきを抹殺して、ほどけないよう指をからめる。
「ゆずをつけだれに入れるとおいしいそうですから。皮、すってくださいね」
 イルカは、この恋は薔薇色ではなく、秋の午後のようだ、と思う。
 暖かい午後の、夕方と昼のちょうどまん中あたり。昼寝するのにちょうどいい、やわらかい陽射し。ずっとまどろんでいたいような──つめたく冷えていってしまわぬよう、ずっと胸に抱きしめておきたいような。
 守りたい、などと僭越なことは言えないけれど──壊したく、ない。
「……はい」
 掠れた、ちいさな声が返った。同時に、少しだけ、繋いだ手が揺らされる。
 子供みたいに。
 初めて恋をした、子供みたいに。

 さっきよりもわずかに近い距離で肩を並べたカカシは、どうしようもないくらい甘い──
 イルカには眩しいような華やかな顔で、ただイルカだけを見て、微笑んでいた。                               
 

終わり

   

初出 「ゆだねる場所」 2004年11月発行

 

 

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