歯 車

芳谷美伊

 同僚三人と連れだって校舎から出たところで、仕事が終わった開放感に笑いまじりに交わされていた雑談がとぎれた。誰からともなく──ふつん、と糸を切られたように音が途絶える。
 右端にいたイルカは前方の、植え込みの脇に人影を見つけて、ちょっと眉を寄せた。たぶん、横に並んだ同僚たちも、同じモノ(モノってことはないか、とイルカは思い直す。仮にも人間、仮にも上の階級だ)を見ているのだろう。それゆえの、気まずい沈黙。
 話がとぎれるのと同時に歩みもとめてしまった四人に、人影は気付いたらしかった。気怠そうに幹によりかかっていた身を起こして、ふらり、とこちらにやってくる。
「今、お帰りですか。イルカ先生」
 緊迫感のない足取りでイルカの正面まで来て足をとめた彼は、にこ、と笑った。斜めになった額当てと口布に覆われた顔の中で、唯一表情を映す右目が糸みたいになる。
「はあ……」
 曖昧に頷いて、イルカは横目で同僚たちを見た。完全に腰が引けている。遭遇するのは今日が初めてではないのだし、そこまで怯えなくても、とイルカは思うが、一方で彼らの気持ちもわからなくもない。わからなくはない、のだが。
 怯みきった眼差しでイルカを見た同僚は、無駄な笑みを浮かべて手を振った。
「じ、じゃあ! イルカ先生また明日!」
「おつおつお疲れさまですっ」
「おげげげ元気でっ!」
 明日は休みだし「お元気で」じゃまるで長い別れみたいじゃないか、と思うが、イルカは黙ったまま会釈した。三人とも、ひきつってぎくしゃくしながらも足早に去っていく。その後ろ姿を見送って、イルカは内心ため息をつく。
 もう何回目かわからないが、毎回、少し嫌な気持ちになる。それは具体的に何が嫌、というほど明確ではない、もやもやした、違和感のような不快感だった。
 自分はなにもしていないし、変わってもいないのに、こうやって当たり前に彼と取り残されてしまう。「仲がいい」と思われているのだ。内情は、といえば、からかわれているだけな気がするのだが……だから、いっしょくたに「関わりたくない」人間みたいにされるとなんとも言えない気持ちになる。別段、職場の人間とべたべたしたいわけではないけれど、必要以上にぎくしゃくするのはさけたいではないか。
 イルカは彼を見る。にこにこしたまま自分を見つめている彼に、またこぼれそうになったため息を飲み込む。
 元暗部、とか上忍とか。それにまつわるたくさんの逸話とか。
 無責任な噂の大半はもしかしたら真実なのかもしれないが、それはべつに彼の責任ではない。イルカまで危険人物みたいに扱われてしまうことも、たぶん、彼のせいではない。
 だからため息の代わりに、イルカは少しだけ呆れた、けれど冷たくはない声を出す。
「……それで、今日はなんですか、カカシ先生」



 石灯籠に池、池には錦鯉。松に竹に梅。ぼんやりと黄色い火に照らしだされた中庭を眺めて、本当に高そうな店だな、とイルカは思う。カカシは常連らしくて、こういう店では浮いた忍装束の二人連れなのに、にこやかにこの座敷に通されたけれど、ふつうなら断られてしまうだろう。
 高いのは困る。せっかくいつも割り勘にしてもらっているのに、払えないのはかっこ悪いし、ついでに今日はその危険性がいつもより高い。薄給にだめ押しの給料日前。
「イルカ先生はどーしてそう冷たいんでしょう」
 イルカの内心の焦りに気付くそぶりもなく、カカシは向かいでのんびりおしぼりを広げ、わざとらしく嘆く。今日二度目の台詞だった。
「…だから、さっきのことなら謝ったじゃないですか」
 むっとしてイルカは彼を振り返る。
 カカシは、先刻イルカが「今日はなんですか」と訊いたのがひどく気に入らなかったらしい。「なんですか、だなんて……冷たい…」と拗ねてみせて(どうでもいいが、この歳で拗ねるのはたとえフリでも気持ち悪いからやめてほしいとイルカは切に思う。本当に拗ねているなら言語道断だ)、ぶつぶつ文句を言っていたのだ。
(「なんですか、って言われると、すごく迷惑そうに聞こえてしまうんですけど、やっぱり迷惑だってことなんですかね」)
 情けない(ふうを装っただけだったかもしれない)声でそう言われて、そういうつもりじゃなかったんだ、と弁解すること数分。
(「じゃあ、今日はわがまま聞いてもらってもいいですか?」)
(「……わがままにもよります」)
(「…やっぱり冷たい……」)
(「だから! とにかく言ってみてください。聞けることなら聞きますから!」)
(「豆腐は好きですか」)
(「……は?」)
(「豆腐。白くて柔らかい大豆の加工品。知りませんか〜。豆が腐るって書くやつで、味噌汁の具にしたり…」)
(「知ってます! …嫌いじゃないですけど」)
 だいたいカカシの話は脈絡がない。豆腐とわがままがどう関係するっていうのか。首を傾げたイルカにカカシは笑ってみせた。
(「あのね、豆腐が食いたいんです。湯豆腐」)
(「……はあ。かまいませんけど」)
(「じゃあ、今晩は湯豆腐でいいですか。うまい店あるんですよ」)
 カカシはにこにこしている。湯豆腐。多少季節外れの感はあるが、絶対食べたくないとか豆腐アレルギーだとかいうわけでもないから、べつにイルカとしてはかまわない。わがままというのはこれだろうか、と思う。いつも、イルカの行くような店に合わせてくれていたから。
 それにしても、とイルカは思う。
(「結局、夕メシのお誘いだったわけですか」)
(「いけませんか」)
 にこにこ。
 微笑んで言われてイルカは返す言葉をなくした。
 それだけ。ほんとうに、いつもそれだけなのだった。どうして、という問いを押し込めて、イルカは今も目の前で拗ねて(いるふりをして)おしぼりを変な形にたたんでいる男を見る。
「…謝ったのに冷たいなんて心外ですよ」
「んー。それじゃなくてですね」
 カカシはのんびりと首を傾げ、ちらりと窓の外に視線を流した。
「せっかくふたりっきりで向かい合って座ったのに、どうして庭ばっかり見ちゃうんですかねえ。…あ、もしかして照れ隠しですか!」
「違います」
 ぽん、と手をたたいたカカシに、げんなりしてイルカは否定した。何を照れろというのだ。口にしては言わないのは、そのテのことは言えば言うだけ泥沼になると、ここ数回で学習しているからだった。
 どういう因果か──この上忍は、イルカを気に入ってしまったらしいので。それはたぶんそうなのだろうな、とイルカは思う。誰に指摘されるまでもなく、カカシの態度を見ていればわかる。あからさまな好意。……そう、好意でもなければたびたび食事に誘うなんてしないだろう。イルカはつきあいを深めたところでメリットがあるわけでもない、アカデミーの教師に過ぎない。カカシが今預かる子供たちを教えていた教師という肩書きは、イルカにとって意味があっても、カカシにはない。子供たちが話題にのぼったのは、せいぜい二回目までだったし、だいたい、聞くまでもなく、ナルトの顔ならしょっちゅう見ている。
 なにがよくて、彼が自分を食事になんて誘うのか。
 分からない。けれど、彼と一緒にいること自体は不快ではない。附随するもろもろが、時々腹立たしいことはあるけれど。
「ほら、イルカ先生もメニュー見てくださいよ。湯豆腐は外せないとして、あとは、なんか好きなもの頼んでくださいね。おススメはカボチャのそぼろあんかけと、あと漬け物、うまいんですよー。瓜の漬け物食いましょうよ」
 いそいそと差し出されたメニューを受け取って覗き込む。ずらっと並んだ一品料理は、思ったほど高くなかった。イルカはほっとする。
「この、さんまのぴり辛煮っていうの、うまそうですね」
 ほろりとこぼれた呟きに、カカシが一瞬目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあそれも頼みましょう。酒に合いそうですねえ」
 平和な彼の笑顔を見ながら、嘘みたいだ、とイルカは思う。嘘みたいな空間。整えられた庭の見える窓と、あたたかく灯された光。料理を選ぶだけの他愛ない会話。
 やわらかな、耳鳴りがした。
 ちいさな座敷の中に嘘みたいに満ちた穏やかさに、イルカはめまいのようにぼんやりと、いつもこうだったらいいのに、と考えていた。
 いつもこんなふうに、普通でいられたらいいのに。



 普段は隠されている口が開き、白く柔らかな塊を飲み込む。白いれんげにうっすら醤油の色をまとった豆腐、白い肌と銀の髪。色味に欠けたなかで、開かれた唇だけが妙に綺麗な赤い色をしていて、イルカはいたたまれなさに俯いた。
 もしかしたら、向かい合って食事するのは初めてではないだろうか。いつもはカウンターで隣同士とか、大きいテーブルに相席とか、そんな感じだったから、こんなふうに二人きりで向き合うと、なんとなく──。
(なんとなく、なんなんだ…)
 イルカは意味もなく「さんまのピリ辛煮」とやらを箸でつき崩し、薬味のネギを眺めやる。一口食べたはずの料理の味が思い出せないとはどうしたことか。
 やけになってとうがらしがいっぱい付いたままの魚の身を一息に口に放り込むと、予想以上の辛味が広がった。むせそうになる。
「……」
 無言で酒を(イルカの希望で冷酒にしてもらった)呷ると、カカシがすっと目を細めた。
「不味かったですか」
「いえ、そうじゃなくて。……ちょっと辛かっただけです」
 言い訳がましい言い方をして、イルカはもやもやと後めたいような気持ちを努めて忘れようとした。
「イルカ先生、辛いのダメでしたっけ」
「そんなことはないです。今はただ、のどにタカの爪が張り付いて…」
「あー。アレ、つらいんですよねえ」
 少しばかり不安そうだったカカシはにこりと笑顔になる。気楽そうな表情でそのままれんげを口に運ぶのを、つい目で追いかけてしまい、イルカは慌てた。
(見ちゃだめだって!)
「あああああの! 豆腐が好きなんですか!?」
 その、質問にしては気合いの入った語調を気にするでもなく、んー、とカカシは首を傾げた。
「好き、というか。時々、無性に食いたくなりませんか?」
「……豆腐をですか?」
 あまり、ない。一緒になって首をひねると、カカシは今度は反対に首を傾けた。
「豆腐だけじゃないんですけどね。淡白な味のものってあるでしょ。そうめんとか、うどんとか」
「…………肉食いたい、って時はありますね」
 考え考えして答えたイルカに、ふ、とカカシは笑みをこぼした。
「強いひとですね」
「……、はあ、……?」
 肯定とも否定ともつかない声を出して、イルカはカカシを見た。カカシは応えずに徳利に手をのばし、イルカの盃を満たしてくれる。透明に、きらきらと液体が揺れる。
「こうしてると緊張しちゃいますねえ」
 唐突に、緊張とは無縁の口調で、脈絡のないことをカカシは言い出した。ずいぶんとあからさまな話題転換に、馬鹿にしてるんだろうかこの人は、と思いつつ、イルカは素直に話についていく。詮索しない、なにもない振り、見ない聞こえない振り、というのはわりと得意だった。仕事柄。
「緊張なんかするんですか、カカシ先生でも」
「そりゃあ、するでしょう。こうしてると、ほら、お見合いみたいじゃないですか」
「そうですか? お見合いなんてしたことないんで…見合い!?」
 酒に口をつけながら言いかけて、がば、と顔を上げたイルカにカカシはにーっと笑う。
「だってホラ、お座敷に、ふたりっきりで向かい合ってって、『あとは若いふたりにまかせておほほほほ』のあとみたいでしょ」
「全然みたくありません!」
「イルカ先生、教師なのに言葉使いが乱れてますよ」
 しゃあしゃあと、カカシはどうでもいいことを言って、おもむろに座り直した。正座。顔はいたって真面目。
「御趣味は」
「は!?」
「イルカ先生が、豆腐は好きかどうか訊いてくれたでしょ。そのお返しです」
「返さなくていいです」
「趣味くらい、けちけちしないで教えてくれたっていいじゃないですか〜。せっかくのお席なのに」
「なに言ってんですか!」
 立場も忘れて怒鳴ってしまってから、イルカははっとして口許を覆った。時々……否、しょっちゅう、忘れてしまうのだった。このひとといると。まだ、相当に他人行儀な関係でしかない、ということを、忘れそうになる。
 すいません、と小声で謝ったイルカに、カカシは笑って手を振った。
「今ぐらいの声じゃあ、誰も来やしませんよ。この座敷、ちょっと離れてるでしょ」
 そういうことじゃない。赤くした顔の下でイルカはそう思うが、カカシは楽しげな笑みを浮かべたまま、それより、と身を乗り出した。
「それより、ほんとに、趣味ぐらい教えてくださいよ」
 聞いてどうする、とか、そんなことぐらいアナタなら知ろうと思えば誰からでも聞きだせるだろう、とか。思わないでもなかったけれど、大人しく答える気になった一番の理由は、やはり、立場の差、だった。階級の、ということだけでない、隔たりのようなもの。こんな瑣末事、断ったところでどうということもないと分かってはいるけれど。
「…温泉」
 なんとなく胸の奥が痛むのを堪えて、イルカは俯く。
「温泉に行くのは、好きです。のんびり湯治して、うまいもの食べて」
「ふむふむ。温泉ね。いいですね。そのうち一緒に行きましょうね」
 わざとらしくメモをとりながら、カカシはそう言った。
 そんな日は来ない、とイルカは思う。つい勘違いしてしまうけれど、こうして、何度も食事に誘われて、仲がいいのだと周囲から思われて、ふたりでいるのが当たり前みたいに扱われても、それは普通の「友人」ということにはならない。
 ひとときの。たぶんカカシの気まぐれの。
 そういう気配が、このひとからはする、とイルカは思う。ふとした瞬間に、ひどく突き放したような、拒むようなものがある。もしかしたら本人さえ無自覚に。
 それはかつてのナルトに感じたのとは別種の、けれど根底でつながる寂しさを、イルカに思わせるものだった。
 ぱたん、と嘘くさいメモ帳を閉じながら、カカシはちらりとイルカを見た。
「訊いてくれないんですか?」
「…はい?」
 脳天気な声に意識を引き戻されて、イルカは瞬きをした。
「なにをです?」
「俺の趣味、訊いてくれないんですか」
「…知ってますよ。読書でしょ。イチャパラとかいうやつ、よく読んでるって」
 ナルトが嬉しそうに報告してくれるから、知りたくなくても知っている。しょっちゅう広げては読んでいるその中身が、どうしても覗けないのだと、ませたところのあるナルトは悔しがって……そうして目を輝かせながら話していた。
「ナルトが言ってましたよ」
「うれしい…」
 ぼそぼそと言ったイルカの声にかぶさるようにして、カカシが芝居がかった仕草で両手を組んだ。
「イルカ先生がオレのこと気にかけてくれてたなんて…」
「だから! ナルトが言ってただけだって言ってるでしょう!」
「やだなあ照れなくていいですよ。もう」
 またしても声のボリュームが跳ね上がるイルカにきらきらした表情を向けて、乾杯、というように盃をかかげて見せる。
「顔赤いですよー? イルカ先生。かわいいなあ」
「…馬鹿言わないでください」
 我ながらひどい言い種だ、と思う台詞を吐き出して、イルカはそっぽを向いた。
「イルカ先生はかわいいですよねー。俺ね、ホントによくそう思うんです」
 恥ずかしい台詞を、カカシは凝りもせず、衒いもなく続ける。
「アスマとかにも言うんですけどね。今日は受付のイルカ先生がかわいかった!って…ま、アイツは審美眼なんてもんはありませんから賛同はしてもらえないんですけど」
 そりゃそうだ。客観的にみて、自分がかわいいだなどとイルカには思えないし、百人に聞いても百人とも「かわいくはないだろう」と言うと思う。そうなると、カカシがおかしいのか、馬鹿にされてるか、という結論になるのだが。
 カカシは青い片目をめったにない柔らかい色にして、左手で頬杖をついている。
「オレ、かわいいって形容詞、好きなんですよね〜」
「……そーですか」
「なんだったら綺麗とか、あとはー、なんだろう、ウツクシイとか…うーん、ちょっと違いますかね?」
「いいですよそんなの考えなくて」
 ぱりぱりと瓜の漬け物を噛み砕き、やっぱりこのひとは「変」のほうだよなとイルカは思う。さしずめ、新しいおもちゃかなにかを手に入れた子供のようなものじゃないか、という気がするのだ。
「そうやってすぐそっけない返事になっちゃうところが改善されるともっとステキだと思うんですけど…あ、これ独り言なんで気にしないでくださいねー」
「──独り言はもっとこっそり言ってください」
 おもちゃは嫌だなとイルカは思う。嫌だったら、こんなふうに受け答えもしなければ、きっと彼も早く飽きるだろう、と思う。でも、どうしてか、応じてしまう。
 穏やかな空気を壊したくなくて。作りたくて。隔たりや誤魔化しを、ゼロにしたくて。ふと訪れる、他になにもないみたいなあの一瞬が欲しくて。
 ──カカシがそれを意図しているのか、掴みきれもしないのに。
「イルカ先生、ちゃんと豆腐食べてます? しょうが足さなくていーですか?」
 自嘲してカカシからわずかに視線をはずしたイルカに、いそいそ、と彼は薬味の小鉢を差し出してくれる。ありがとうございます、と呟いてうけとって、しょうがをつゆに足す。
「ネギもいります?」
「ネギはいいです」
「新婚夫婦みたいですね!」
「……」
 ため息。
「見合いの次はいきなり新婚なんですか?」
「段階は踏んでるじゃないですか。…ああ! 挙式がぬけちゃいましたね」
 ……ため息。冗談が過ぎるとか、思わないのだろうかこのひとは。
「カカシ先生、楽しそうですね」
「……イルカ先生は楽しくないんですか?」
 物凄く悲しそうな(おかげでよりいっそう嘘くさい)声をして、カカシは犬みたいに首を傾げた。その顔を見返して、イルカはゆるく首を振り、逆に問い返す。
「オレといるの、カカシ先生は楽しいんですか」
「そーれはもう! 楽しいですよー。今日は特に楽しいですねー」
 即答で、軽やかな返事がくる。イルカは唇をぐっと引き結んだ。たぶん少し怒ったような顔になってるだろう。感情を隠すのは、カカシにくらべればうまくない。だから、カカシにもわかるはずだった。
 しん、と冷たく流れた沈黙に、カカシは少しだけ、困ったように苦笑して、そっと目を伏せた。持ち上げられた手がさまよって、一度、躊躇うかのように口許を覆う。
「……」
 なにか言いかけて、また困った笑顔になって。
「たまにはこーゆう、静かなところで食事もいいなーと思ったんですけど。嫌でしたか」
 トーンの変わった声に、ああ失敗した、とイルカは感じた。そうじゃない。そうじゃない。もどかしく首を横に振る。
「…そんなことは、ないです。料理、うまいし」
「……んー……」
 かしかし、と頭をかいて、カカシは言葉を探しているようだった。
「イルカ先生と話すようになってから、ずっと、ゆっくり話をする機会ってなかったでしょう。賑やかなところで食事をするのは俺も好きですけど……学校じゃちょっと、落ち着いて話すって感じじゃないですしね」
 そもそも話したいってのが一方的願望なんですけど、と付け加えて、カカシは時間を稼ぐようにゆっくりとした間合いで盃をとりあげ、酒を一口飲んだ。
「雰囲気変えて、ゆっくり向かい合うと、普段気が付かなかったこととか気付いたりするでしょう。だから今日は、そーゆう感じに、一気にふたりの距離を縮めたいなーという目論みだったんですけどね」
 ゴメンナサイ、と小さい謝罪が続いて、イルカは急いで首を振った。
「すいません! 嫌ってんじゃ、ほんとになくて。今その、ちょっと考え事しちゃいまして」
「そーですか? ほんとーに怒ってません?」
「…怒ってないです」
 カカシの論点と自分の論点はたぶんずれている。怒ってないです、と答えながら、これは修復できないずれだろうとイルカは思う。カカシだって困るだろう。第一イルカにだってよく分かってはいないのだ。おもちゃは嫌だ、なんて急に言ったら、より誤解の溝を深めてしまうだろうし。
 おかしいぞ、とイルカは自嘲した。十かそこらの女の子じゃあるまいし、四六時中、なにもかも、べったりとくっついて全部わけあって、秘密ひとつなく緊密に結びつく……なんてキモチの悪いものが欲しいわけでは決してない。おかしい。いい歳した大人にむかって、寂しそうだとか、もっとちゃんと、親しい友人になりたいとか。
 そういうのは、たぶん、おこがましい思いなのだろう。
「…すいません。なんだか、かえって気を遣わせてしまって」
 イルカは頭を下げた。その頭上から、少し弛んだカカシの声がする。
「どれくらい怒ってないですか」
「…どれくらい、というと?」
「ちっともとか、全然とか、さっぱりとか、ちょっととか」
 テーブルにへばりつくようにして、カカシは上目遣いにイルカの顔を覗き込む。台詞のくだらなさと犬みたいな目つきについ噴き出しそうになって、イルカは咳き払いして横を向いた。
「あんまり、怒ってないです」
「てことは少しは怒っている、と?」
「少しはね。──かわいいとか言うのは、やめてください」
「ええ〜」
 不満そうに、カカシが唸る。
「ダメですか」
「ダメです」
「残念……」
 しょんぼりと肩を落としているカカシに、懲りてないなこのヒトは、とイルカはため息をつきたくなった。扱いにくくて嫌なヒトだ。少し真摯になったかと思えばこっちの言いたいことは分かってないし、和やかになったと思うともう本音は逃げている。根が単純な自分には、付き合うには荷が勝ち過ぎる人間だと思う。せいぜいが、一方的なおもちゃくらいで、似合いなのだろうか。
 自虐的に傾きかけた意識にうんざりして、イルカはぎゅっと眉を顰めた。
「……カカシ先生」
「はい?」
 拗ねた(まねをしていた)のか、今度は箸袋を星型に折りあげていた──無駄に器用だ──カカシが顔を上げる。
「…その、カカシ先生は、俺を見て、他に感想はないんですか」
「感想?」
「かわいいとか、そういう冗談じゃなくてですよ」
 イルカは言っていて恥ずかしくなってきた。だがカカシは笑いもせず、「冗談じゃないですよ」と言う。
「本気でかわいーなーと思うんですが」
「…………それはおいといて」
 赤くなる顔を見られたくなくて顔を背け、もう一度咳き払いして。
「他に、なにもないですか。例えば……おもしろい、とか、馬鹿だ、とかでもいいんです」
「んんー……」
 馬鹿みたいな質問だとイルカは思ったけれど、カカシは意外に真面目に考え込む。腕を組んで天井を見上げ、それからイルカを見て微笑する。
「それはね、いろいろ思いますけど」
「例えば?」
「……うーん」
 どうしてか、照れたみたいな笑い方をして、カカシは頬を掻いた。
「時々ね、歯車みたいだなーって思います」
「……歯車、ですか?」
 あまり、嬉しくはない。普通、歯車というと、社会の部品の取り替えのきく一部、みたいなニュアンスだろう。それはさすがにひどいだろうと、自然に寄ってしまったイルカの眉間のしわに、カカシはぱたぱたと手を振った。
「たぶん、イルカ先生の想像とは違いますよ。比喩じゃない、本当の歯車なんです。……イルカ先生、大時計の中って入ったことあります?」
「……ありませんけど」
「どこでも同じだと思うんですけどね。時計って、歯車がいくつも組み合わさって動いてますよね。一度、時計塔の中に隠れてた時に、おもしろくってずーっと見てたんですよ」
 イルカはなんとなく、月明かりの夜を思う。銀色の光が隙間からわずかばかり差し込む、埃っぽい空間にいくつも浮かぶ大小の歯車。梁にはひとり、黒い人影。
「よくできてんですよ、時計の歯車。簡単なからくり塔だったんですけど、半日かけて、一番遠くの歯車がまん中の歯車に噛み合いにくるようになってて。パッと見、その歯車が……あんな端っこにあった歯車が噛み合う仕組みになってるなんて気が付かなくて、はっと気が付いたらもうすぐそこだったんです。凄いなーと思ったんですよ。この時計作った職人は凄いなって、ね」
 まあそれは下らない感傷ですがね、と軽い感じで言い添えて、カカシは盃を干した。
「なんでか、思い出すんですよね。イルカ先生見てると、あの歯車」
 微妙な答えだな、とイルカは思う。ほめているのか貶しているのか分からないではないか。
「ゆっくり、静かに、気付かないくらいそーっと動いてる歯車が、昼と夜と二回、仕掛けを動かすんですよ。その歯車だけじゃない、大きいのも小さいのも、規則正しく回りながら何かしら役割を担ってる。ああよくできてるな、って思うのと同時に、俺は歯車にはなれないなーって、思いました」
 ほんの幽かな、自嘲めいたものを、カカシは口調に滲ませた。「鉄砲玉とか矢じりにはなれても、歯車にはなれないなあ、と」
 その口許が──いつもなら見えない場所が、寂しそうだなとイルカは思う。今度ばかりは明確に。
 カカシの言っている内容が本当に寂しいことなのか、今いちはかり知れないけれど、その口調だけが心に沁みる。
「……難しいこと言わないでください」
 さみしいこと、言わないでください。
 言えない台詞の代わりに口にした言葉は、ひどく憮然としたものになった。カカシは苦笑して、そうですねと応える。
「せっかくの楽しい食事ですからね。なんか気付けば腹いっぱいなんですけど」
 カカシの表情にも、声にも、もう密やかな寂寥は残されていなかった。失敗ばかりだ、とイルカは奥歯を噛みしめる。
「イルカ先生デザート食いません? 柿のシャーベットだって」
 のほほんとメニューを広げたカカシの、斜になった肩をイルカは眺める。
「あー、ふわふわチーズケーキってのもありあますよ! さっぱりした食感……うまそうだな」
 例えばなにかに喩えるならば。
 このひとは実体のないものだろうな。
 つかめないもの。影のないもの。霧のような風のようなもの。
 忍としてはむしろ都合のいいそんな印象は、嘆くことではないだろうけれど。
 ちりちりともどかしさが胸の奥を苛む。
 今お互いを隔てているのは、ほんの少しの空気だけなのに、どうして埋めることができないのだろう。
 いっそ無邪気なほど脳天気にデザートのメニューを眺めて悩んでいるカカシは、幻でも幽霊でもなく、当たり前にイルカの前にいる。だが、食事を終えてこの座敷を出てしまえば、いつもと同じように「それじゃあまた今度」と手を上げ、自分のまえからもひっそりと失われてしまうのだ。一緒に住んでいるわけでもなく、家が近いわけでもなく、ましてまだ「友人」というには曖昧な関係でしかないのだから、それは至極当然のことにすぎない。
 それなのに、小さな火のような、氷のようなやるせなさが拭えない。それは思いのほか強い痛みをもたらして、イルカはなす術もなく持て余した。彼の、銀色の揺れる髪をただ見つめる。
 例え話の歯車だとしたら、彼の中枢に辿りつくには、ずいぶん時間がかかりそうだなと思う。そうして、一瞬で、また離れてしまう。やっぱり、あまり嬉しくない比喩だ。
 こんなに近くにいるのに。
 腕の付け根が疼いた。
 こうしたらどうだろう、と思わなくもないけれど、今はまだ、疼く腕を試みにのばしてみることさえ、イルカにはできなかった。

 

終わり

   

初出 「The Vocal Cords」 2002年12月発行

 

 

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