『氷解』
跡部にとって、二つ年下の他校生である手塚の存在は可愛いばかりだった。
テニスの資質は目を見張るものがあり、けれどけして驕らず、むしろ行き過ぎだというくらいに自分を律する姿には
何かしてやりたいと、そう思う。
人付き合いが上手くなく、時々無言で考え込んでいる様子も、周囲からライバルと目され衝突する姿にも、
どうしても少しだけ、ほんの少しだけ手を貸してやりたくなるのだ。
手塚を見下ろしているつもりも子供扱いしているつもりもない。
いつかコートの上で対峙したいと思っているし、その時に容赦をするつもりは毛頭無い。
できれば諸々に自分が介入していることも一切気取られたくない。
ただ、堅物である手塚の人生が少し上手くいって無駄な苦労が減ればそれでいいと思っていた。
ところが手塚は意外と聡く、わざわざ自分の所に出向いては「貴方が?」と聞いてくる。
勿論、即時否定するのだが、あいつはなにか納得したような顔をして、「わかりました」と少しだけ笑う。
そうなるともうお手上げだ。いつの間にか懐かれてしまい、休日には一緒に練習したり勉強を見てやったりする仲になってしまった。
居心地は悪くない。むしろ良すぎて困る。
あの無愛想で無表情な手塚に、少しばかり慕われているという事実は、困ったことに自分にとっては非常に浮かれる要素になりうるのだ。
だって、俺は手塚が可愛い。
懐かれれば嬉しいし、嫌われれば悲しいだろう。
他校の後輩相手にそんな気持ちになる日が来るとは、世の中とは不思議なものである。
―――跡部がそんな風に思っていることを、勿論手塚は承知の上だった。
二年年上、強豪氷帝学園の部長だった跡部が、大和部長と揉めているところを見たのは一年の夏。
跡部は怒っていた。それも手塚のことで怒っていたのだ。
他校の部長に、有望な選手を潰すつもりだったのかと詰め寄った。
結局そのことは部長同士で片が付いて、自分の所に話が下りてくることはなかった。
だがそれ以来、年長の他校生が自分のことを気に掛かけてくれていることは、気配で分かった。
近付いたのは手塚から、と周囲には見えただろう。だが、手塚自身はそう思ってはいない。跡部もそう思ってはいないだろう。
ずっと、さりげなく自分に気配りをしてくれていたことを知っている。
跡部は礼を言うことを許してくれなかったが、傍にいることは笑って認めてくれた。
峻烈なテニスをし、また氷帝を束ねる力のある眩しいくらいの先輩が、自分といてくれることがとても嬉しかった。
無償の好意だと知っていたから。
傍にいる間はテニス以外の色々なことを、さり気なさを装いながら教えてくれた。そんな日々の中で、完璧だと思っていた人の不器用な一面を知る。
何故他校生と親しくするのか、自分たち氷帝とどちらが大事なんだと後輩に詰め寄られたその人は、ただあしらえば良かったのに、困った顔で沈黙したのだ。
「どっちが大事とか、そういうのじゃねえんだよ」
勿論氷帝に決まってる、と一言言うだけでよかったのに。
律儀だな、と苦笑するも束の間、すぐに恐ろしいことに気付いた。
自分は一体何と比べられたのか。何故、彼は答えを出さなかったのか。
…氷帝と比べられるほど、俺はあの人に近いか?
近いだろう。そうに決まっている。
多忙を極める氷帝高等学校の生徒会長が、週末を何度も自分のために潰してくれているというのに。
それも、とてもたわいないこと…服を選ぶだとか、生徒会のアドバイスとか、そんなことばかりに。
とても怖くなった。
だって自分はもうこの距離を手放したくない。
電話をして、「何だ、お前か」と笑って言ってくれるのが嬉しい。そしてその位置を独占したいのだ。
衝動のままに豪奢な邸宅の豪奢な部屋を訪れ、部屋の主の前で改めて姿勢を正した。
「何かあったのか? こんな夜中に、らしくねぇ」
あくまでも心配そうな顔付きで、跡部は首をかしげる。
「言いたいことがあって」
「何だ?」
「跡部さん、貴方が好きだ」
「――俺もだぜ、ありがとよ。それで?」
鈍い。
真正面から言っても、ただの好意としか受け取られないだろうとは予想していたが、まさにその通り。
けれど、手塚はそのまま歩みを進めて掌を相手の頬に伸ばした。
肌の感触を確かめ、戸惑う跡部を更に愛しく思う。
「…おい?」
「貴方も俺が好きでよかった」
互いの意味が食い違っているのは百も承知で、そう告げる。目を見開く麗人に対し、もう一歩を踏み込んだ。
距離はゼロ。唇は、今まで交わしたどの相手よりも乾いていて、甘かった。
完全に凍り付いて瞬きすらしない想い人に、なるべく優しい声音で告げる。
「ずっと好きだったから」
そう言えば、跡部は否定できない。
可愛い後輩を傷つけたり失ったりしたくないから、突き放す事なんて出来ない。
それ知っていて、知らない振りをして、懐に入り込む。
「景吾」
ダメ押しで名前を呼んだ。
少し酷かな、とは思ったが、どうしてもそうしたかった。
案の定、ここまで畳み掛けられた跡部は卒倒しそうなくらい真っ青な顔をしていたが、やがて意を決したように表情を繕って、手塚の肩を押さえた。
「人には、言うなよ」
勿論。
俺の口からは吹聴しない。どうせ首筋の跡を見れば週末後輩と何をしていたかはそのうちバレる。
本当はお人好しで、隙があるんだ貴方は。だが、その噂が広まる頃には、誤解も擦れ違いも全て無くして今日の台詞を本物にしてみせる。
青ざめて硬直した表情が、緩やかに溶けて甘さを孕むまでに、そう時間は掛からないはずだ。
その確信が手塚にはある。
そしてそれは外れなかった。