『団欒』



ただいま、と声を響かせるには広すぎる家だ。
ご近所から不名誉な(少なくとも思春期真っ直中の中学生にとってはこの上なく恥ずかしい)通称を付けられていることも知っている。

ラケットと鞄をお手伝いの三原さんに預けてリビングへ入った少女は、「うっ」と思わず呻いて後ずさった。

父がソファでタイムズを読んでいる。
そこからやや離れて4メートル先。グランドピアノで母がモーツァルトを弾いていた。
典型的な冷戦の構図である。

いくら実の娘といえど、この雰囲気の中に明るく駆け込んで「ただいまー何また喧嘩したの?」と口火を切る気にはなれない。
とりあえず、部屋の空気が冷たいので、後で三原さんに暖房を入れてもらうよう頼んでおこうと思い、彼女はふと季節を思い出した。

…夏。そういえばそうだった。
それにしては、どうしてこんなに寒いんだろうこの部屋は。

そっと、忍び足で母親に近付くと、彼女は鍵盤を撫でる手を止めて微笑する。

「おかえりなさい。久しぶりね、元気だったかしら?」
「うん、元気だよ。あのね、今日は部活の練習で遅くなったの。でも、帰りにともみちゃんに会っちゃった。バス停で偶然会ったの」
「あら、手塚さんね? ご姉弟で?」
「うん二人とも元気そうだったよ。それでね、今度みんなでキャンプに行く計画があるんだって。一緒に行ってもいいでしょ?」
「あら…。いつなのかしら、予定をみてみないと」
「ううん、一人で大丈夫だから! ちゃんとお手伝いだってするし、迷惑は掛けないよう気を付けるから。お母さんたち忙しいし、ね?」
「そうねぇ。先方に電話してお話ししてみないと…」

「――ちょっと待て」

4メートル。後方のソファから父親の低い声が響く。
くるだろうとは思っていたが、やはり口出しせずにはいられない話題だったようだ。

「いいじゃん。練習サボる訳じゃないし。れっきとしたお休みの日だもん。別に、お父さんもお母さんも一緒に来てくれなくていいから! あたしだって夏休みに一回くらいは旅行に行きたいの!」
「まるで親に放置されてるような口振りだな。ちゃんと家族間のコミュニケーションくらいあるだろうが」
「お父さんの取引先の食事会とかお母さん関係の演奏会とか、そういうのだけじゃ嫌だもん。てか、あたしが付き合ってあげてるんでしょーそれは。お父さん、TDLにもUSJにも連れてってくれないじゃない」
「お前は俺をあんなユカイなテーマパークに連れて行こうというのか…ったく。もっと違う場所にしとけ!」
「貴方、本当にそういうのダメよね。だから、私が連れて行くって言ってるでしょう?」
「お前なぁ、俺を一人置いて娘と遊びに行くわけか?」
「ほんっと煩いんだから。ねえ、ゆうこちゃん?」

父親は本当に口うるさいとは思うが、母に軽くあしらわれている彼は少し可哀相な気もする。
この二人が一体どんな経緯で自分の父と母なのか、跡部家の怖くて触れられない話題の一つだ。

「えーと、だからキャンプ…行きたいんだけど」
「日程は?」
「再来週の土日…」
「それ、手塚も来るのか?」
「手塚選手? ――来ないと思う」
「そうか」

父親はニヤリと笑って携帯を握る。スピーカー機能をオンにしてあるらしく、呼び出し音が部屋に響いた。
「うっそ、お母さん〜」
「バレる嘘は付かない。それが鉄則よ」
すがるように母親を見上げたが、彼女はさらりとそう告げただけだった。
祈り届かず、呼び出し音が不意に途切れる。

「―――俺だ。帰ってきてるんなら連絡しろつってんだろうが」

よくこれで通話が切られないものだ。
娘は、父親が対人関係の手本には成り得ないことを既に理解している。

『お前だって日本にほとんどいないだろう。手間なんだ』
「つべこべ言うな。で? 山へ行くと聞いたぞ」
『いつもの場所だ。来る気か? お前もそれほど暇じゃないだろう』
「うっせぇな。お前がラケット持ってくるってんなら、時間くらい空けてやる」
『……わかった。詳細は追って連絡しよう』

通話が途切れたのを見て、娘が叫ぶ。

「ひどい! お父さん全然あたしこと信用してないし」
「なぁにが信用だ。堂々と嘘をつきやがって」
「嘘じゃないもん。「来ないと思う」って言っただけだもん。大体、一緒に行くって言ってもどうせ来れないんでしょー、いつもそうじゃない! だから最初から行かなくていいって言わなきゃって思ったの!」

力一杯叫んで、ハッと我に返る。
口をつぐんだ娘を、父親は静かに見つめ返した。

「そうか」

黙って部屋を出ていく背中を見送って、少女はため息を付く。

「…殴られるかと思った」
「あの人、手は挙げないわよ」
口は悪いけどね、と母親が添える。
手帳を捲っている母親を見て、娘はきょとんと首を傾げる。

「再来週ね。まあ、開けられない予定じゃないわね」
「…お母さん、来るの?」
「だって、あの人が行くなら私も行かないとでしょう? 一人で野放しにしたら先方にご迷惑になるし。私が付いていないとね。それに、私だってあちらの奥さんに会いたいし」
「ホントに? 二人とも来るの?」
「そんなにおかしいかしら?」
「おかしいよ」

真面目な顔で少女が言う。

「だって外聞はいいけど、いつも家にいれば喧嘩ばかりしてるじゃない」
「…そんなに喧嘩してた?」
「そうだよ。うち、リコンのキキだっていつも思ってたんだから」
「喧嘩も会話の一環なのよ、大人は」
「そんなのわかんないよー」
「そうね、…悪かったわ」

頭を撫でてもらい、少女は笑う。
三人でお出かけは久しぶりだ。





「あ、それとね」

かろやかに弾んだ足取りで階段を駆け上がりながら、彼女は一階に向かって声を降らせた。

「あたし、離婚になったらお母さんについてくんだから。もう喧嘩しないでよ。――ってお父さん、どうせ聞いてるんでしょー。わかった!?」