『03:優勝旗の行方(手塚)』
準決勝が終わって、三日ほど決勝までの猶予ができた。
その三日間、全体練習はせず、全て自主練とする。各々が必要と思うことをしてほしい。
そう伝えて解散した後、一人残った越前が軽く手を挙げる。
「あ、部長。帰る前にちょっと」
「なんだ? 越前。…そう言えばもう遅い時間だな。焼肉とは意外に時間がかかるものなんだな」
「や、時間がかかったのは焼肉のせいじゃなくて、あんな大会やってたからっしょ」
ああ、確かに煙に追い出されて倒れていたせいで割と夜が更けた気がするが。
まあ、全員無事なので問題はないだろう。
それに、ボーリングもビーチバレーも俺は参加できなかったから、今回は結構楽しかった。
次は立海を巻き込みたいと思う。
「では越前。ついでに家まで送ろう」
「げ。いいッス。一人で帰れますから」
「げ、とはなんだ。夜道を一人で歩くのは危険だろう」
「…一人で帰らせてください」
「話があるんじゃなかったのか?」
「………」
結局、越前は折れた。
なんだかんだ言ってもまだ十二歳だし、心配ではあるからな。
渋々という態度を崩さない越前と青春台方向まで並んで歩いていると、越前は溜息と共に明日からの予定を告げた。
「オレ、決勝まで部室には顔出しませんから。ちょっとやってみたいことがあるんスよね」
「ああ、構わない。不二や海堂もそんなことを言っていたし、乾もそれに付き合うらしい。大石と菊丸も、シンクロを強化したいと言っていた。おそらく部室にはほとんど揃わないんじゃないか」
「ふーん、ならいいけど。部長は何か修行すんの?」
「俺は普段通りに過ごすつもりだ」
ベストは尽くしてきたつもりだからな。
これから決勝に向けてやれることと言えば、集中力を高めることくらいだ。
「あ、そうッスか。オレは手に入れて来ようと思うんスよね。『天衣無縫の極み』」
「…何か見えたのか?」
「全然。でもオヤジいるから、話聞いてみようと思って」
「そうか」
越前の父親、越前南次郎氏と言えば、十数年前に唯一『天衣無縫の極み』の扉を開いたとされる人物だ。
そのテニスは自由奔放、見ているだけで手に汗握る、心の躍る試合をした人だ。
…とはいえ、そう簡単に教えてもらえるものでも、身につけられるものでもないはずだが。
「ま、なんとかなるっしょ」
この前向きな姿勢が、越前らしい。
身体能力も精神力も、一年としてはずば抜けている。テニスに賭ける思いも。
幾多の苦難を乗り越えてきた越前に、決勝戦のS1を託せることは幸福なことだ。
まさか、俺がS1を誰かに譲ることができるなんて、今まで思いも寄らなかった。
S1であることが俺のプライドであり責任でもあると思っていた。
でも今、青学の柱という言葉とともに、最後の試合を託せる後輩がいる。その後輩と、共に戦える。
こんな素晴らしいことが他にあるだろうか。
俺は全国大会に参加したどの学校の部長よりも、幸運で幸福であるという自信がある。
感慨に浸りつつ無言で歩いていると、越前がふと口を開いた。
「ねぇ、立海の部長ってどんな人? 部長は知り合いなんだよね?」
流石に決勝戦ともなれば、自分と当たる相手に興味が涌くものらしい。
敵を敵とも思わない越前が、こうして対戦相手のことを聞いてくるのは珍しいことだった。
しかし幸村か…。
小4の頃からの知り合いで、選手としても部長としても因縁浅からぬ相手だが、改めてどんな奴かと問われると、少し困るな。
「見たままだが?」
「見ただけじゃ、全然わかんないッスけど」
「そうだな。まず、性格は悪い」
「アンタに性格悪いって言われるなんて、どんだけッスか」
「お前と同じくらいかな」
「部長!?」
「冗談だ」
「アンタも冗談とか言うんだ」
「普段から、それなりに言っていると思うが?」
「あのー、それ多分冗談だと思われてないと思うッス」
そんな馬鹿な。
…しかしそういえば、不二が時々哀れみの目で俺の方を見ているが、あれはこういう意味だったのかもしれない。
今更、怖くて聞けないが。
「―――で、幸村の話だったな」
「流すんスか」
「そうだな。もしかしたら本当に、お前に似ているかもしれない。昔から物怖じしない奴だったし、初対面の跡部を笑い倒したし、メンタルはかなり強い部類だ。だからこそ、闘病生活も乗り越えられたんだろうな」
「一部ツッコミどころが」
「あ、いや。跡部の名誉のために言っておくが、跡部が悪かったわけじゃない。タイミングとか色々不運が重なって…」
「――笑い飛ばされたと」
「結果だけ見れば、そういうことだな」
「てか、なんでそもそも跡部サンの話に?」
「そもそもは、跡部が教えてくれたんだ。日本でちょっと有名な同世代は幸村と真田だと。だから帰国直後に会いに行ったんだが…なにか、道場破りのようなことになってしまったのは、反省している。未だに真田は怒っているから、困っているんだが」
「えと、話見えないんだけど。部長、海外にいたの?」
「ああ。父親の転勤で、しばらくドイツにいた時期がある。マッターホルンにも登ったぞ」
「じゃあ、その頃から跡部サンと知り合いだったと」
「まぁな。イングランドのジュニア大会で初めて会った」
「Then, can English be spoken?」
「If it is a daily conversation, it is possible to speak.」
「German also, speak.」
「Yes.」
「へぇ、そうなんだ。どーりで、ね」
「何か問題でも?」
「いや、別に。それにしても、部長って幸村サンと仲悪いんだ? 部長同士だから?」
「そんなことはない。仲は悪くない。が、そもそも、俺と幸村とは並列されるべきじゃない。そう思っている」
「意味がわからないんスけど」
「対等とか、ライバル関係とか、そういう視点にはなれないということだ。因縁が深いということだろうな」
「類友ってこと?」
「さぁ、どうだろう」
越前はこの回答に首を傾げた。
まぁ、そうだろうな。
越前にはまだ同世代のライバルといえる人物がほとんどいない。
いるとすれば遠山君だが、彼は陽性の人物だ。
幸村の持つ、底知れぬブラックホールのようなマイナス面を直視したことはないだろう。
あれに引きずられないためには、相手にしないのが一番だ。
だから俺は幸村を直視しない。
同じく、幸村も俺を真正面から見ないだろう。
お互いの引力から逃れるために敢えて邂逅を避けている、俺と幸村にはそういう側面がある。
まともに話をしたのは一度だけ。幸村が入院した直後の冬の病室で、くらいしか記憶にない。
「ふーん。で、肝心のテニスは?」
「テニスは、お前とは似ていないな。お前のテニスは、無色透明だからな」
「褒められてないのはわかるけど」
「個性がない。特徴はある。いくら尊敬する父親とはいえ、あまり真似をするのは――」
「部長。俺がオヤジのこと嫌いなの知ってて、そーゆー話するんスか?」
「……嫌いなのか?」
「てか、むかつく感じ」
「そうか」
それなのに、あんなテニスをするのか。お前は。
越前のテニスは、いつもその先に父親の姿が透けて見える。
その影響が大きすぎて、彼自身のテニスを掴みかねているようだった。
それで一度、叩きのめしてみたことがある。
強いのはお前の父親だけではないと思い知らせるために、全力で戦ったのが二ヶ月半ほど前のこと。
以来、越前は少しずつ変わってきたように思う。
俺だけではなく、他のライバル達と戦って、自分のテニスを少しずつ引き寄せた。
その、集大成を決勝で見たいと思っている。無色透明だったテニスに、お前だけの色を飾ってほしいと。
「幸村のテニスは、深いな。あいつのテニスには底がない」
「つまり、強いってこと?」
「底なしの強さと言ったつもりはない。奈落の底。どこまでも深く穿つ、底のないテニス。…そう思う」
「抽象的すぎるんスけど」
「そうだな。あまり上手くは言えない。幸村は、真田や跡部とは種類が違うプレイヤーだ。打てば響くタイプじゃない。打っても響かない。どこまでいっても、幸村のペースでしかない。こういう格言があるだろう。「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」。つまり、そういう相手だ」
「誰の台詞?」
「ニーチェ」
「知らない」
知らないのか。たまには読書もすべきだぞ、越前。
「そうだな、幸村の神髄はその深さだ。…相手にしてもらえないというのかな。彼は二人いるべきコートに一人で立つ」
「それってつまり、部長は負けたってこと?」
「いや…三年以上前の話だが、引き分けだった。いつも、時間切れで。だけど、今になってみればわかるな。あれと対峙するためには、幸村の底のない深さを埋め尽くして、更に山を築き上げるだけの何かを持っていなければならない。即ちそれが自分のテニス、ということだと思う」
幸村は強い。そのはずだ。
俺の左腕以上に、彼は一旦全てを失った。
彼はテニスを憎んだだろう。俺と同じように。愛していたからこそ絶望が深い。
テニスをしていなかったらこんなに苦しまなかったのに、と。
好きだったテニスに対して、そう考えてしまうことも苦しい。どこまでも苦しい。
でも、戻ってきた。
苦しみにしがみついてでも、恨みすら抱いてでも。
彼はテニスが好きだから、戻ってこれたのだと思う。
本当は、幸村とは俺が戦うべきなのだろう。同類だから。
幸村の冷たいテニスに真正面からぶつかれるのは、俺しかいないから。
「…お前をS1にしてもいいだろうか?」
「え? 今更聞かれても。だって、もうオーダー決めてんでしょ。オレはやる気ありますけど。ていうか、勝つけど」
「そうだな。期待している」
心の底からの言葉だ。幸村に勝てるのは俺しかいないと思う。
でも、越前なら出来る、とも思う。
ただテニスを愛してきたお前なら、と。
テニスを苦しいと思ったことが、お前にはないだろうから、だから幸村に勝てるのではないかと思う。
あの底のないテニスに呑み込まれずに、お前がお前の形(テニス)を保てることを期待している。
どうしてこうも信じられるのだろうと時に立ち止まって考えることもある。
それは一緒に成長してきたからだと、心が言う。
…俺が一年だった頃、部内では色々な騒動があった。
テニスだけをしているわけにはいかなかった。
とても辛かったが、仲間がいたから乗り越えられたし、三年になった今、同じような災難から越前を守ってやれたと思っている。
テニスだけを考えていられるように。ただテニスを好きでいられるように。
そう考えると、俺の青学での三年間に無駄なことは何もなかった。ベストな状態で決勝に臨めることを、誇りに思う。
隣の少年は、いつも通り不敵に笑って手を振って別れの挨拶をした。
俺は最後の三日間を、ただ自分と自分のテニスのためだけに過ごせるのだ。
この幸福な時間を忘れたくないと思う。
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